不滅の言葉 97年5号

霊的な会話 (2) 部分

    一九一五年七月一日

 スワミ「スワミジ(ヴィヴェーカナンダ)が『わたし』というときには、つねに彼自身を、一切を包括するところの『わたし』に同化しておられた。われわれが『わたし』というとき、それはわれわれの肉体や感覚やこころを意味している。だから、私たちは『召使いのわたし』『信者のわたし』といわなければならないのだ。スワミジはいかなるアートマンの付加物に対しても『わたし』を同化することなく、自らをブラフマンと見なして、肉体と心と理性を超越しておられた。これが彼の中心をなすふだんのムードであって、そのようなムードのなかでほとんどの時をすごされた。しかしそのようなムードは私たちには生じない。私たちは神から切り離されているのだ。それ故われわれは神を『あなた』と『あなたのもの』と呼ばなければならないのである」

 信者「宇宙なる『わたし』を悟るには、二元論的な霊性の修行をしているものも、一元論の書物から学ばなければなりませんか?」

 スワミ「師はよく『おまえたち自身の一元性の知識を得たあとで、好きなことを何でもやりなさい』とおっしゃった。真の信者はつねに『あなた』と『あなたのもの』という。それは『おお主よ、あなたがすべてであり、すべてはあなたのものです』ということである。これは不二一元論とは異なるだろうか? しかし信者が『わたし』と『わたしのもの』といい、しかも神から離れた独自の存在であると感じるなら、それは極めて有害な二元論である。そのような信仰者はひどく惑乱しているのだ。師はたびたび『私ではない、私ではない』『あなた、あなた』『私はあなたの召使い、私はあなたの召使い』といっておられたものである。信者はすべての『わたし』と『わたしのもの』を完全に放棄しなければならない。ラームプラサードが、どんなにたびたび母なる神と愛の諍いをして、彼女をなだめすかしたり、おだてたりしたことか。そのような熱烈で濃厚な霊的ムードが、水が氷に凝結するように現れなければならない。そのときはじめて、われわれは神の神聖なヴィジョンを見ることができるのである。ゴパーラ・マー(注一)は彼女のために薪を集めながらついてくるゴパールを見たし、シュリ・ラーマクリシュナは彼といっしょに歩きまわるラームラーラー(注二)をごらんになった。大切なのは霊的な感情の強さである。形のある神を信じるか無形の神を信じるかは問題ではない。『おお蓮の花よ、あなたの愛はなんという愛だろう? いつもあなたの夫である太陽に微笑みかけ、そして蜜を蜜蜂たちに与えている』もし人が神をすべてのすべてと見るならば、人はこの世のものに喜びを見ることはない」

    七月三日

 スワミ「食べること、寝ること、恐怖、性交……これらは動物と人間に共通の特徴だ。人間だけにそなわっているのは知識をもち、善悪の識別ができることである。低級な人間は感覚対象への快楽がより大きく、高度な人間は知識の歓び……低いものには感じることができない精妙な喜び……がより大きい。見てごらん、彼らがどんなふうに飲んだり、狩りをしたり、女たちのあとを追いかけまわしたりして、獣のように日々を過ごしているかを。もしわれわれが自分の能力を磨き高めることをしなければ、人間に生まれて何になるか? 磨かれた心をもつものは決してこれらのものに屈従することはない。

 「君は西洋へ行きたいのだね。 なぜ心を外へ向けるのか?瞑想に没頭して、彼のなかに溶けこみなさい。もし君が五年間師への瞑想に専念することができるなら、すばらしい。そのときには、ここと西洋は一つになるだろう。

 「『私には歴史などどうでもよい……神だけがすべてである』……何と美しい言葉だ! エゴの木切れがサチダーナンダの水に横たわっている。これが水を分離せしめているのだ。欲望がエゴをつくる。欲望がわれわれを神から引き離す。しかしいつの日か、われわれはすべての欲望を根絶やしにして神に呼びかけるだろう。神に呼びかけながら死んだらどうだ?

 「人がいかに偉大であっても、いかに偉大なことをなしているとしても、いつかは彼は無欲にならなければならない。もちろん、そのあとで神の思召しによって、ふたたび仕事をするかもしれない。しかし君たちがマハプルッシャ……君たちがすべてを捧げ、また君たちの幸福を願っていらっしゃる、悟りをひらいたお方……の命令によって働くならば、仕事が君たちの束縛を強化することはない。反対にそれは破壊されるだろう。彼を忘れることがないようにいつも祈りなさい。『あなたを忘れさせるような仕事をお与えにならないでください。私がどこにあろうといつもお見守りください。私が常にあなたを思うことができますように』と祈れ。

 「だが、彼に『これをください』『あれは嫌です』などといってはならない。それは自己中心的な祈りである。あることはやりたがり、べつのことはやりたがらないとすれば、君はエゴを招くだろう。仕事をおそれて、したがらないものがいる。それは束縛と自己中心性を持続させる。彼にバクティをもとめて祈れ。しかしつねに彼の命令にしたがう用意をととのえておきなさい。『いかなるときもあなたを心に抱くことができますように。あなたの信者たち以外のいかなる仲間にも私が加わることがありませんように』と祈るのだ。......................


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