ラージャ・ヨーガ

第一章 序言

 われわれの知識のすべては経験にもとづいています。われわれが推論的知識とよんでいるものは、それほど一般的でないものから一般を、または一般から特殊なものを推理する結果なのですが、それの基礎は経験です。精密科学と呼ばれるもののなかには、人びとはたやすく真理を見いだします。それは、あらゆる人間の特定の経験にうったえるものなのですから。科学者はあなたに、なんでも信じよ、とは言いません。彼は自分の経験からくるある結果をふまえており、それらをもとに推理をしてわれわれに彼の結論を信じよともとめる場合には、ある、人類に普遍の経験をよりどころとしているのです。あらゆる精密科学にはすべての人類に共通する基礎がありますから、われわれは、そこからひきだされた結論の真偽を、ただちに見わけることができます。さて、問題は、宗教はそのような基礎を持っているか、いないか、ということです。私はこの問いには、肯定と否定、両方の返事をしなければならないでしょう。

 宗教は世界中で一般に教えられているところによると、信仰と信念の上に立つものであって多くの場合、異なった理論のくみあわせだけからできていると言われ、それが、すべての宗教がたがいにあらそう原因となっています。これらの理論がまた、信念の上に立っているのです。ある人は、雲の上にすわって全宇宙を統治する偉大な存在がある、と言い、私にむかって、彼の主張だけをよりどころとしてそれを信じよ、ともとめます。おなじように、私は私で私の考えを持ち、他の人びとにそれを信じよともとめます。そして彼らに理由をたずねられると、返事ができないでしょう。それだから、昨今、宗教や形而上学は、評判がわるいのです。教育のある人びとはみな、「おお、これらの宗教は、判定の基準もない理論のたばにすぎない、各人が自分の気にいりの思想を説法している」と言うのです。それでも宗教には、さまざまの国のさまざまの宗派の、さまざまの理論のすべてやことなる思想のすべてを統率している、普遍の信仰という基礎があります。それらの基礎まで行くと、われわれは、それらもやはり、普遍の経験の上に立っているのだ、ということを知るのです。

 第一に、世界のさまざまの宗教のすべてを分析すると、みなさんはそれらが二組にわけられることを発見なさるでしょう。書物を持つものと、それを持たないものとです。書物を持つものはもっともつよく、信者の数ももっとも多いでしょう。書物を持たないものはおおかたほろびてしまい、ごく少数のあたらしいものは、ごくわずかの信者しか持ってはいません。しかし、それらすべての中に、われわれは一つの意見の一致を見いだします。彼らが教える真理は、特定の人びとの経験の結果だ、というものです。キリスト教徒はみなさんに、彼の宗教を信じることを、キリストを信じ、彼を神の化身と信じることを、神を、魂を、そしてその魂のよりよき状態を信じることをもとめます。もし私が理由をたずねるなら、彼は、自分はそれを信じる、と言います。しかし、もしみなさんがキリスト教の源泉にまで行くなら、それは経験に立脚しているのだ、ということを見いだされるでしょう。キリストは、彼は神を見る、と言いました。弟子たちは、彼らは神を感じる、と言いました。その他いろいろの例があります。仏教においても同様、それはブッダの経験です。彼は、ある真理を経験しました。それらを見、それらに接し、世にそれらを説いたのです。ヒンドゥたちの場合も同様です。彼らの書物の中に、リシまたは賢者たちとか呼ばれているその著者たちは、自分たちはある真理を経験したと断言しています。そして彼らはそれらを説いているのです。このように、世界のすべての宗教は、すべてのわれわれの知識のあの普遍で堅固な土台――直接経験の上にきずかれているのだ、ということはあきらかです。教師たちはすべて、神を見ました、彼らはすべて、彼らみずからの魂を見ました、彼らは彼らの未来を見ました、彼らは彼らの永遠性を見ました、そして彼らが見たものを、彼らは説いたのです。ただそこにはこのちがいがあります、すなわちこれらの宗教の大部分によって、特に現代は、ひとつの奇妙な主張がなされているのです。それは、これらの経験は現代の人びとには不可能だ、その名が宗派の名となっているような、宗教の創始者たちだけに可能なものだったのだ、と言うのです。現代ではこのような経験はすたれてしまった、それだからいまはわれわれは、信念によって宗教をとらえなければならない、と言うのです。これを私は全面的に否定します。この世界の知識のどの特定の分野においてであれ、もし一つの経験があったのなら、その経験はまえに幾百万回もあったものにちがいないし、また永遠にくりかえされるはずである、というのは当然の結論です。斉一性は自然の鉄則です、ひとたびおこったことは、つねにおこるのです。

 それですからヨーガの教師たちは、宗教は古代の経験にもとづいているだけでなく、人は彼自身がそれとおなじ知覚を得るまでは、宗教的であると呼ばれることはできない、と断言しています。ヨーガは、どうしたらこれらの知覚が得られるか、をわれわれに教える科学です。人はそれを感得するまでは、宗教をかたってもあまり役にはたちません。なぜこんなに多くの混乱が、こんなに多くのたたかいやあらそいが、宗教の名のもとに存在するのか? 他の原因より神の御名のもとに、もっと多くの血がながされた、それは人びとが決して源泉まで行かなかったからです。彼らは先祖たちの習慣にあたまの中で同意するだけで満足し、他の人びとにおなじことをするようもとめました。人がもし魂を感じないなら、自分はそれを持っているなどと言う、なんの権利がありましょう? また彼が神を見ていないなら、彼は存在するなどと言う、なんの権利がありますか? もし神がおられるなら、われわれは彼を見なければなりません。もし魂があるなら、われわれはそれを知覚しなければなりません。そうでないなら、信じない方がましです。偽善者であるよりは、率直な無神論者である方がよろしい。一方で、「学識のある」現代人の考えは、宗教や形而上学をはじめとする、至高の存在を探求するすべての努力は無駄である、というもの、他方で、なま半可の教育をうけた人びとの考えは、このようなことに実際はなんの根拠もない、それらの唯一の価値は、それらが世間に善をなすためのつよい動機力をあたえているという事実だ、というもののようです。もし人びとが神を信じるなら、彼らは善良になり道徳的になり、したがってよい市民になるだろう、というのです。このような人びとがうけている教えはすべて、背後になんの実質もない、永遠の無意味な長談義を信じよということにすぎないのを見れば、このような考えをいだいているからとて彼らをせめるわけにはいかないでしょう。彼らはことばをたべて生きよ、ともとめられているのです。そんなことが彼らにできますか? もしできたとしたら、私はまったく、人間性を尊重しないでしょう。人は真理を欲します、自分で真理を経験することを欲します。彼がそれを把握したとき、それをさとったとき、それを彼のハートの奥のおくで感じたとき、そのときにはじめて、すべてのうたがいはきえ、すべてのやみは消散し、すべての不正は正されるであろう、とヴェーダは断言しています。「おんみら、不死の子たち、最高の領域にすむ者たちも、道は見いだされたぞ。このくらやみから完全に脱出する道がある。それは、すべてのやみを超越している彼を、見いだすことである。ほかに道はない」と。

 ラージャ・ヨーガという科学は、この真理に到達するための、実際的な、科学的に考えられた一つの方法を、人類に提供します。第一に、あらゆる科学はそれ自体の研究の方法を持たなければなりません。もしみなさんが天文学者になりたいと思ってすわり、「天文学! 天文学!」とさけんでも、それは決して、みなさんのところにはこないでしょう。化学でもおなじことです。ある種の方法が実行されなければなりません。みなさんは、研究室に行き、さまざまの物質をとりあげ、それらをまぜあわせて実験をしなければなりません。そこから、化学の知識がでてくるのです。天文学者になろうと思うなら、天文台に行って望遠鏡をとり、星々や遊星の研究をしなければなりません。それで、天文学者になれるのです。それぞれの科学が、それ自身の方法を持っているにちがいありません。私はみなさんに幾千の説教をすることができますが、しかしみなさんがその方法を実践するまでは、それらがみなさんを宗教的にすることはないでしょう。これらは、すべての国々、すべての時代の賢者たち、世のためによいことをしようという思いしか持たなかったきよらかで私心のない人びと、の見いだした真理です。彼らはみな、自分たちは感覚がもたらすものより高いある真理を見いだした、と断言し、確認をもとめています。彼らはわれわれに、その方法をとりあげて正直に実行せよ、ともとめているのです。それで、もしこのより高い真理が見いだせなかったら、われわれには、そんな真理はない、という権利があるでしょう。それをするまでは、彼らの主張する真理を否定するのは非合理的です。ですからわれわれは、命じられた方法をもちいて忠実に努力しなければなりません。そうすれば、光が見えるでしょう。

 知識を得るときに、われわれは総合という方法をもちいます。総合は観察をもとにしています。われわれはまず事実を観察し、それから総合し、それから結論、すなわち原理をひきだすのです。心の知識、すなわち人の内面の性質、思いの知識は、まず、われわれが内部でおこりつつある事実を観察する力を得るまでは、持つことはできません。外界の事実を観察することは比較的容易です。そのために多くの道具が発明されていますから。しかし内なる世界には、われわれをたすける道具はありません。それでもわれわれは、真の科学を得るためには観察をしなければならない、ということを知っています。正しい分析がなければ、どんな科学にも希望はありません。それらは単なる空論です。それだから有史以来、観察の方法を見いだしたごくわずかの者たちをのぞき、すべての心理学者が彼らの間であらそいつづけてきたのです。

 ラージャ・ヨーガという科学はまず第一に、心の状態を観察するそのような方法をあたえようとするものです。道具は心それ自体です。注意力は、正しくみちびかれ、内なる世界にむけられると、心を分析し、われわれのために事実をてらして見せるでしょう。心の力は、分散された光線のようなもの、集中されると、それらは光りかがやきます。これが、われわれが知識を得るための唯一の手段です。外界でも内なる世界でも、あらゆる人がそれをもちいています。しかし心理学者の場合には、科学的な人が外界にむけるのとおなじ精密な観察が、内なる世界にむけられなければなりません。そしてこれには、莫大な修練が必要です。子供のとき以来われわれは、内なる世界の事実は無視して外界の事物だけに注意をむけるよう教えられてきましたので、われわれの大部分は、内面のメカニズムを観察する能力をほとんどうしなってしまいました。心をいわば内がわにむけ、それが外にむかうのをとめ、それからそのすべての力を集中し、それ自身の性質を知ることができるようにそれらを心自体の上になげかけ、それ自身を分析する、というのは、非常にほねのおれる仕事です。それでも、それが、この主題への科学的なアプローチと言えるものへの唯一の道なのです。

 何がこのような知識の用途なのでしょうか? まず第一に、知識それ自体が、知識の最高のむくいです。そして第二に、それの中に効用もあります。それは、われわれの不幸を全部とりのぞくでしょう。彼自身の心を分析することによって、人が言わば、決して破壊されることのないあるものに、本来永遠にきよらかな、そして永遠に完全なあるものに直面するとき、彼はもう、みじめではないし、不幸でもないでしょう。すべての不幸は恐怖から、みたされない欲望から生まれます。人は、自分は決して死なない、ということを知るでしょう。そのとき彼はもう、死の恐怖は持たないでしょう。自分は完全であると知るとき、彼はもう、むなしい欲望は持たないでしょう。そしてこれらの原因が二つともなくなれば、そこにもう不幸はないでしょう――すでに肉体の中にいる間から、そこには完全な至福があるでしょう。

 この知識を得させるたった一つの方法があります。集中という方法です。化学者は彼の研究室で心のエネルギーのすべてを一点に集中し、それらを、彼が分析しつつある物質の上になげかけ、それらの秘密を見いだします。天文学者は、心のエネルギーのすべてを集中し、それらを望遠鏡を通して天空に放射します。すると星々や月や太陽は、彼らの秘密を彼にむかってあかすのです。私が自分の思いをいまおはなししていることがらに集中することができればできるほど、私はより大きな光を、みなさんの上になげかけることができます。みなさんは私のことばに耳かたむけておられます。自分の思いを集中なさればなさるほど、よりはっきりと、私の言おうとしていることを把握なさるでしょう。

 心の力の集中によるのでなければ、世界中の知識はどうして得ることができたでしょう? われわれがどのようにしてノックするかを、どのようにしてそれに必要な打撃をあたえるべきかを知りさえすれば、世界はその秘密をあかそうと待ちかまえているのです。打撃のつよさと力は、集中からきます。人間の心の力には際限がありません。集中されればされるほど、大きな力が一点におしせまります。それが秘密なのです。

 心を外界のものに集中することはたやすい、心はおのずから外の方にむいて行きます。しかし、主体と対象とが同一である、宗教、心理学、または形而上学の場合には、そうは行きません。対象は内にあり、心自体が対象であって、心自体を研究しなければなりません――心が心を研究しているのです。われわれは、内省という、心の力があることを知っています。私はみなさんにはなしています。同時に、自分がはなしているのを知り、かつききながら、まるで第二の人物のようにわきに立っています。みなさんの心の一部はかたわらに立って、みなさんが思っていることを見ているのですから、みなさんは同時に、はたらき、かつ思っているわけです。心の力は集中され、それ自身の方にむけかえられなければなりません。そうすると、太陽のさしつらぬくような光線の前にはまっくらな場所もその秘密をあかすように、この集中された心は、それ自身の最奥の秘密を洞察するでしょう。このようにしてわれわれは、信仰の根底、真の純粋な宗教に到達するでありましょう。自分たちは魂を持っているのか、いないのか、生命はつかの間のものか、永遠のものであるのか、宇宙に神はおられるのか、おられないのか、自分で知覚するでしょう。それはことごとく、われわれの前に示されるでしょう。これが、ラージャ・ヨーガが教えようとしていることです。それの教えすべての目標は、どのようにして心を集中するのか、それからどのようにして自分たちの心のおくのおくそこを知るのか、それからどのようにしてその内容を総合し、そしてそれらから自分たちの結論をひきだすのか、ということです。ですからそれは決して、われわれの宗教が何であるか、われわれは理神論者であるか、それとも無神論者であるか、キリスト教徒か、ユダヤ教徒か、それとも仏教徒か、というようなことは、問いません。われわれは人間です。それで十分です。あらゆる人間は、宗教をもとめる権利と力を持っているのです。あらゆる人間は、なぜ、と理由をたずねる権利と、もし彼が面倒をいといさえしないなら、自分でその問いに答えをあたえる権利とを持っているのです。

 これで、このラージャ・ヨーガの研究には信仰も信念も必要ではない、ということがわかりました。自分でそれを見いだすまでは、何も信じるな、それが、ラージャ・ヨーガがわれわれに教えるところです。真理には、ささえは必要ではありません。みなさんは、われわれのめざめている状態の中でおこるもろもろの事実を、ゆめや想像に証明させる必要があると思いますか? まったくありません。ラージャ・ヨーガのこの研究には、長い時と不断の忍耐が必要です。それの実習の、一部は肉体のものですが、主要な部分は心の実習です。話をすすめて行くうちに、心はどんなに密接に肉体とつながっているものか、わかってくるでしょう。もしわれわれが、心は単に肉体の一部である、ということを、そして心は肉体に反応する、ということを信じるなら、肉体は心に反応する、ということは当然です。肉体が病むと心も病気になります。肉体が健康であると、心もつねにつよく健康です。人がおこると、彼の心はみだされます。同様に、心がみだされると、肉体もまたみだされます。人類の大部分の場合、心はごくわずかしか発達していないので、それは大きく、肉体の支配下にあります。人間の大半は、けものたちからごくわずかしか、へだたってはいません。そればかりでなく、多くの場合、心を制御する力は、ひくいけものたちとあまりちがいません。自分の心に命令をする力を、ほとんど持っていないのです。ですから、この支配力を得るために、肉体と心を制御する力を得るために、われわれはある種の肉体のたすけを得なければなりません。肉体が十分に制御されたら、われわれは、心の操作をこころみることができます。心を操作することによって、われわれはそれを自分の支配下におき、自分のすきなようにはたらかせ、自分の欲する通りにその力を集中させることができるのです。

 ラージャ・ヨーガによりますと、外の世界は内なる、つまり精妙なる世界の、粗大な形であるにすぎません。より精妙なものはつねに原因であり、より粗大なものは、結果です。したがって、外の世界は結果、内なる世界は原因です。同様に、外界の力は単に、ある力の粗大な部分であり、それの内なる力はもっと精妙なのです。内なる力を発見し、それらをどのように操作するかを学んだ人は、自然界の全部を自分の支配下におくでありましょう。ヨーギーがみずからに課するのは実に、全宇宙を支配するという、自然界全体を制御するという仕事です。彼は、われわれが「自然の法則」と呼ぶものが彼に影響をあたえない境地、彼がそれらすべてを超越することのできる境地、に達したいと欲するのです。彼は、内外の自然全体の主となるでありましょう。人類の進歩と文明は要するに、この自然を制御することなのです。

 さまざまの民族がそれぞれに、自然界制御のあいことなる方法をこのみます。おなじ社会の中でもある人びとは外の自然界を支配することを欲し、またある人びとは内面の自然を制御したいと思います。そのように、民族の間でも、あるものは外の自然を支配したいと思い、他は内面の自然を制御することを欲します。ある人びとは、内なる自然を制御すれば、われわれはいっさいを制御する、と言います。またある人びとは、外界を支配すればいっさいを支配することができる、と言います。極限まで実行できるなら、どちらも正しいのです。なぜなら、自然には内界とか外界とかいうような区別はないのですから。これらは、かつて存在したことのない架空の限定です。外界主義者と内界主義者とは、両者が彼らの知識の極限に達したときに同一点であうよう、定められているのです。物理学者がその知識を限界までおしすすめて行くと、それが形而上学の中にとけこんでしまうのを見いだすように、形而上学者も、彼が心とよび物質と呼ぶものは見かけの区別にすぎず、実在はひとつである、ということを見いだすでしょう。

 すべての科学の究極目的は、単一性、それから多様なものがつくりだされる一者、多者として存在するひとつなるもの、を見いだすことです。ラージャ・ヨーガは内なる世界から出発しようと、内なる自然を研究し、それを通じて全体――内外両方の――を制御しようとします。それは非常に古くからのこころみです。インドは、それの特別の中心地でしたが、それはまた、他の民族によってもこころみられました。西洋の国々ではそれは神秘主義とみなされ、それを実践しようと欲した人びとは魔女や魔法使いと見なされて焼かれたり殺されたりしました。インドでは、さまざまの理由からそれは、その知識の九〇パーセントを破壊し、のこりを大きな秘密にしようとするような、人びとの手中におちました。現代になって、インドのそれらよりもっと悪い自称教師たちが、西洋に生まれました。インドのは何かを知っていましたが、この現代の解説者たちは何も知ってはいないのです。

 これらのヨーガの体系の中で、秘密で神秘的なものは何であれ、ただちにすてさられなければなりません。人生における最善のガイドは、つよさです。宗教においても、他のすべてのことにおけると同様、みなさんをよわくするものはことごとく、おすてなさい。それにかかわってはなりません。神秘を売りものにすることは、人間の頭脳をよわくします。それは、科学の中のもっとも偉大なものの一つであるヨーガを、ほとんど破壊してしまいました。四千年以上前、それが発見されたときから、ヨーガはインドで、完全に輪郭をえがかれ、組織だてて説明され、教えられていたのです。古代にさかのぼるほど、それの著者は論理的であり、近代になるほど、注釈者がより大きなあやまりをおかしている、というのは、いちじるしい事実です。近代の著者たちの多くは、あらゆる種類の神秘を語っています。このようにしてヨーガはごくわずかの人びとの手中におち、彼らがそれを、日の光と理性の十分なかがやきのもとにさらすかわりに、一個の秘密としてしまいました。彼らは、力を自分たちのものにしたくて、そうしたのです。

 まず第一に、私が教えることには何の神秘もありません。私が知っているわずかのことは全部、みなさんにおはなししましょう。私に論証できるかぎりのことは、論証しましょう。しかし私が知らないことは、ただ書物に書いてあることだけをおはなししましょう。盲目的に信じるのはまちがいです。みなさんは、みなさん自身の理性と判断力をはたらかせなければなりません。実践して、そのようなことがおこるかどうか、たしかめなければなりません。他のすべての科学をとりあげる場合とまったくおなじ態度で、この科学をとりあげ研究なさるべきです。そこには神秘もなければ危険もありません。真理であるかぎり、それは街頭、白日のもとで説かれるべきです。これらを神秘化しようとするころみはすべて、大きな危険をもたらします。

 話をさらにすすめる前に、サーンキャ哲学についてすこしばかりおはなししましょう。ラージャ・ヨーガの全体が、それを根拠としているのです。サーンキャ哲学によると、知覚はつぎの通りに生まれます。外の世界の対象の影響が、外部にある道具(目、耳など)によって、脳にあるそれぞれの中枢、すなわち器官にはこばれます。器官はそれらの影響を心に、心は判断力にはこび、判断力から、プルシャ(魂)がそれらをうけ、そのときに知覚が生じるのです。つぎに、プルシャはいわば、必要なことをせよという命令を運動神経の中心にあたえかえします。プルシャ以外のこれらすべては物質ですが、心は外部の道具よりはるかに精妙な物質です。心を形成している、その物質はまた、タンマートラスという精妙な要素をつくることもします。これらが粗大になって、外界の物質をつくるのです。これが、サーンキャの心理学です。それゆえ知能と外部のより粗大な物質との間には、ただ程度のちがいがあるだけなのです。プルシャが、物質ではない唯一のものです。心は、いわば、魂の手中の道具であって、それによって魂は、外界の対象をとらえるのです。心はたえず変化し動揺していて、完成されたときには、それ自身をいくつかの器官につけることも一つの器官につけることも、またはどれにもつけないでいることもできます。たとえば、もし私が深い注意をこめて時計の音を聞くなら、私は多分、目はあいているのに何も見ず、心は聞く器官につながってはいたけれど見る器官にはつながっていなかった、ということを、示すでしょう。しかし完成された心は、同時にすべての器官につながることができるのです。それは、ふりかえって自分みずからの深みをのぞきこむ、内省の力をもっています。この内省力が、ヨーギーが得たいと欲するものなのです。心の力を集中し、それらを内にむけることによって、彼は内部でおこっていることを知ろうとします。ここには、単なる信仰などということはあり得ません。それは、ある哲学者たちがなしとげた分析なのです。現代の生理学者たちは、目は視覚の器官ではない、器官は大脳の神経中枢の一つの中にある、他のすべての感覚の場合もそうである、と言います。彼らはまた、これらの中枢は、脳それ自体とおなじ物質でつくられている、と言います。サーンキャ派の人びともやはり、おなじことを言っています。前者は肉体の側に立っての声明、後者は心理学に立脚しての声明ですが、両者はおなじです。われわれの研究分野は、これをこえたものです。

 ヨーギーは、さまざまの心の状態のすべてを認識することのできる、あの精妙な知覚の状態を得ようとします。それらすべてを感知する内面的知覚があるにちがいありません。人は、感覚がどのようにつたわるか、心がどのようにしてそれをうけるか、どのようにしてそれが判断力まで行くか、そしてどうしてこれが、それをプルシャにあたえるか、を知覚することができます。それぞれの科学が一定の準備を必要とし、また、たとえ理由はわからなくてもしたがわなければならない、それ自身の方法をもっていますが、ラージャ・ヨーガの場合もまさにそうです。

 食物に関する、ある制限が必要です。われわれは、心を最もきよらかにする食物をとらなければなりません。動物園に行けばすぐに、このことが実証されているのが見られるでしょう。ゾウがいます。巨大な動物ですが、しずかで柔和です。そしてライオンやトラのおりの方に行けば、彼らの様子を見て、食物によってどんなに大きなちがいがうまれているか、おわかりなるでしょう。この肉体の中ではたらいているすべての力は、食物から生まれました。われわれは毎日、それを見ています。もしみなさんが断食をはじめられるなら、第一に肉体の力がよわくなり、それから、数日の後に、心の力も影響をこうむるでしょう。まず、記憶力が減退します。それから、考えることができなくなり、推理の過程をたどることなどはいっそうむずかしくなるときがきます。ですからわれわれは、最初はどのような食物をとるべきか、気をつけなければなりません。そして十分な力を得たら、修行がすすんだら、このことにはそれほど気をつかう必要はありません。植物がわかいうちは、かこいをつくってやらなければなりません。しかしそれが樹木になったら、かこいはとりはらわれます。すべての攻撃にたえられるほど、それはつよくなるのです。

 ヨーギーは、ぜいたくと苦行の二つの極端はさけなければなりません。彼は断食してはならないし、自分の肉体をひどく苦しめてはなりません。それをする人はヨーギーにはなれないとギーターは言います。「断食する人、ねむらない人、ねむりすぎる人、はたらきすぎる人、はたらかない人、このような人びとは誰も、ヨーギーにはなれない」(ギーター六章一六節)


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