ギャーナ・ヨーガ

スワミ・ヴィヴェーカーナンダ

(新書版、336頁)

 定価(本体1350円+税)


目 次

まえがき

宗教の必要

人間の本性

マーヤーとまぼろし

マーヤーと神の概念の発展

マーヤーと自由

絶対者と現象

あらゆるものの中の神

さとり

多様の中の単一

たましいの自由

宇宙(大宇宙)

宇宙(小宇宙)

不死

アートマン

アートマン、それの束縛と自由

真の人と外見の人

普遍宗教

普遍宗教の理想


まえがき

 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ(一八六三〜一九〇二)が二度のアメリカ、ヨーロッパ滞在中、彼地でおこなった講演の主なものが、「カルマ・ヨーガ」、「バクティ・ヨーガ」「ラージャ・ヨーガ」および「ギャーナ・ヨーガ」という四種の書物にまとめてラーマクリシュナ・ミッションの出版部アドワイタ・アシュラマから出版されている。本書はその一つの翻訳である。他の三書はその主題のもとになされた一つの連続講話の記録であるが、本書の内容は一、二をのぞいて、それぞれが一応独立した講演である。

 ギャーナ・ヨーガは知識の道と訳され、哲学的思索により感覚を制御して真理に到達する方法、という意味だそうである。しかし、本書を通読して感じられるのはただ、何れのヨーガによってか、すでに真理を直視し得た一個のたましいが、ことばのゆるすかぎりをつくしてその消息の片鱗をわれわれにつたえようとする、深い慈悲と情熱である。彼の師、シュリ・ラーマクリシュナは、「まず非二元の知識を着衣のはしにむすびつけ、それからすきな道をあゆむがよい」とおしえられたそうである。これらは、師の意を体し、信仰の土台を見うしなってさまよっている現代の人びとにそれを見いださせよう、というねがいをこめてなされた講演なのであろう。彼は講演に原稿をもちいなかったという。録音の手段のなかった時代に、珠玉のことばを後世にものこそうと努力した当時の信者たちやすぐれた速記者に、われわれは深く感謝しなければならない。

 さて、英語では Jnana Yoga と表記されている本書の標題はサンスクリット、その冒頭の音はJとNの結合のようで、かな文字ではあらわすことができない。いままではジュニヤーナ・ヨーガと表記してきたが、発音しにくくて、書物の表題として不適当であるし、またインドでこう言っても通用しない。それで、完全ではないけれど比較的近い、と思われる「ギャーナ」をとった次第である。

     

  一九九三年七月十日  日本ヴェーダーンタ協会


宗教の必要

 人類の運命を形成するためにはたらいてきた、そしていまもはたらきつつあるあらゆる力の中で、たしかに、宗教というかたちであらわれている、あの力よりつよいものはありません。すべての社会組織はその背景として、どこかにあの独特の力のはたらきを秘めており、かつて人間同志の間におこったもっともつよい団結の衝動は、この力から生まれたものです。非常に多くの場合に、宗教のきずなが人種のきずな、風土のきずなより、さらには血脈のきずなよりもつよいことが証明されたのは、私たちのよく知るところです。おなじ神を崇拝し、おなじ宗教を信じる人びとが、単に血脈をおなじくする人びと、いな、兄弟同志さえよりもっと親密に、いき長く助けあってきたことは周知の事実です。宗教のはじまりを見いだすためにさまざまのこころみがなされてきました。今日までつたえられているすべての古い宗教は、そろって一つの主張をしています――それらはすべて超自然のものである、いわば、それらは人間の頭脳から生まれたものではなく、それのそとのどこかから発したものである、というのです。

 二つの学説が、近代の学者たちの間にある程度うけいれられています。一つは、宗教の霊魂崇拝説、もう一つは、無限者の観念の展開です。前者は、祖先崇拝が宗教思想のはじまりであると主張し、後者は、宗教は自然力の人格化から生まれる、と主張するのです。人は死んだ肉親たちの記憶を持ちつづけることをねがい、肉体は解消しても彼らは生きている、と考えて、彼らに食物をそなえることを、そしてある意味で彼らを崇拝することを欲します。そこから、われわれが宗教とよぶものが生まれました。................

 

人間の本性

 人が感覚にしがみつく執着力は、実につよいものです。それでも、自分がその中で生き、うごいている外界をどれほど実在的なものだと思っていても、個人および民族の生涯のうちに思わず彼らが、「これはほんものか」とたずねるときはきます。自分の感覚の確実性をたずねるような瞬間を決して見いださない人、各瞬間を、感覚のたのしみに没頭している人――彼のもとにも死はやってきて、彼もまた、「これはほんものなのか」とたずねずにはいられません。宗教はこの問いをもってはじまり、それの答えをもっておわるものです。歴史の記録にはたよることのできない、神秘的な神話の光につつまれた文明のあかつき、はるかな過去にさかのぼっても、われわれはおなじ問いが出されているのを見いだします、「これはどうなるのか。何がほんとうのものなのか」

 ウパニシャッドの中のもっとも詩的なものの一つ、カタ・ウパニシャッドはこの問いではじまっています、「人が死ぬとき、そこには議論があります。ある人びとは、彼は永久に行ってしまった、と言い、他の人びとは、彼はなお、生きている、と言います。どちらがほんとうなのですか」と。さまざまの答えがあたえられています。形而上学、哲学および宗教の全領域は、実にこの問いに対するさまざまの答えでみたされているのです。同時に、それをおさえようとするこころみ、「かなたには何があるのか。何が真実のものなのか」とたずねる心の不安にストップをかけようとするこころみもなされました。しかし、死が依然としてそこにあるかぎり、おさえようというこれらすべてのこころみは、つねに不成功におわるでしょう。われわれは、かなたには何も見えない、と言い、自分たちの希望とねがいを現在の瞬間にとじこめて、感覚の世界をこえたものについてはいっさい考えないよう、できるかぎり努力をするでしょう。そしておそらく、外界のあらゆる事物もわれわれを、そのせまいかこいの中にとじこもるよう、たすけるでしょう。全世界が協力して、われわれが現在をこえてひろがるのをさまたげるでしょう。それでも、そこに死があるかぎりは、つぎの問いはくりかえし、くりかえしやってこなければなりません。「まるですべての実在の中のもっとも真実のものであるかのように、すべての実質の中のもっとも実質的なものであるかのように、われわれがしがみついているこれらのものがすべて、死によっておわるのであろうか」世界は一瞬のうちにきえさり、なくなります。そのさきは無限に大きくひらかれたさけ目である絶壁のふちに立って、どんなに剛毅な心もしりごみをし、「これはほんとうのものなのか」とたずねずにはいられません。りっぱな心のエネルギーをかたむけて少しずつきずきあげられた生涯の希望が、一秒のうちにきえるのです。それらがほんとうのものなのでしょうか。この疑問は、こたえられなければなりません。時は決して、その力をゆるめません。むしろ、それはつよさをまします。................

マーヤーとまぼろし

みなさんの大方は、マーヤーということばを耳になさったことがあると思います。このことばは一般に、実はこれはあやまりなのですが、まぼろしとか、まどわしとか、あるいはそれににたような意味をあらわすのにもちいられています。しかしマーヤーの学説は、ヴェーダーンタ哲学がよって立つ柱の一本なのですから、その意味は正しく理解されなければなりません。私はみなさんに少しばかりの忍耐をおねがいしたいと思います。このことばは誤解される大きな危険をはらんでいるのですから。ヴェーダの文献の中に見いだされるマーヤーの最古の観念は、まどわしという意味です。しかし当時はまだほんとうの学説は完成されてはいませんでした。われわれは、「インドラ神は、彼のマーヤーによってさまざまのすがたをとった」というような文句を見いだします。ここではほんとうに、マーヤーということばは魔術のようなものを意味しているのです。そしてこのほかにも、これとおなじような意味を持つさまざまの章句が見いだされます。マーヤーということばは、それから一時まったくすがたをけしました。しかしその間に、この観念は発展しつつあったのです。のちに、つぎのような疑問が提出されています、「なぜわれわれは宇宙のこの秘密を知ることができないのか」そしてこの問いに対してあたえられた答えは非常に意味ふかいものでした。「それは、われわれがむなしいおしゃべりをするからである。また、感覚の対象に満足しているからである。そしてまた、欲望を追求しているからである。そのためにわれわれは実在を、いわば霧でおおっているのだ」ここにはマーヤーということばはつかわれてはいません。しかし、われわれの無知の原因は真理とわれわれとの間にはいってきた一種の霧のようなものである、という思想をくみとることができます。ずっとのちになって、もっともあたらしいウパニシャッドの中の一つに、マーヤーということばがふたたびすがたをあらわします。しかしこのたびはすでに変容がおこっていて、多くのあたらしい意味が、このことばにつけくわえられています。さまざまの説が提出されくりかえされ、また別の説がとりあげられて、ついにマーヤーの観念が確立したのです。シュウェターシュワタラ・ウパニシャッドの中にはこう書いてあります、「自然がマーヤーであると知れ、そしてこのマーヤーの支配者は主ご自身である」くだってわれらの哲学者の時代になると、このマーヤーということばがさまざまの形でその意味をかえられているのを見いだします。そしてついに、かの偉大なシャンカラーチャーリヤの出現を見るのです。マーヤーの学説は、また仏教徒たちによっても多少その意味をかえられました。しかし仏教徒の手にかかると、それは観念論とよばれるものに非常によくにたものとなりました。そしてそれが今日一般にマーヤーということばの意味と考えられているものです。ヒンドゥ教徒がこの世界はマーヤーである、と言うと、人びとはすぐに、この世界はまぼろしである、という意味にとってしまいます。仏教哲学者たちのことばである場合には、この解釈はある程度当然なのです。そこには外部世界の存在をまったく信じない哲学者たちの一派もいたのですから。しかしヴェーダーンタでいうマーヤーは、それの完全に発達したすがたにおいては、観念論でもなければリアリズムでもありません。それは一つの学説でもありません。それは事実の宣言、われわれがあるところの、またわれわれが自分の周囲に見るところの、事実の宣言以外の何ものでもないのです。...............
 

マーヤーと神の概念の発展

 われわれは、アドワイタ(非二元)ヴェーダーンタの基礎的教理の一つを形成していると言ってもよいマーヤーの観念のめばえが、すでにサムヒター(注、おのおののヴェーダの内容は、サムヒターとブラーマナの二つの部分に大別される。前者は賛歌や聖語をふくみ、後者にはそれらの意味や用法がのべてある)の中に見いだされるのを見ました。また、ウパニシャッドの中で展開されるすべての観念は、何らかの形ですでにサムヒターの中にあらわれている、ということも見ました。みなさんの大方はいまやマーヤーの観念によくなじまれ、したがって、このことばはときどきあやまってまぼろしと訳されるので、宇宙はマーヤーであると言うと、宇宙も幻影であるという意味に解釈されてしまうのだ、ということもご存じです。このことばのこのような翻訳は、適切なものでも正確なものでもありません。マーヤーは学説ではなく、あるがままの、宇宙に関する事実の宣言です。そしてマーヤーを理解するためには、われわれはサムヒターまでさかのぼり、この概念のめばえとともに出発しなければなりません。

 われわれは、デヴァたち(神々)という観念がどのようにして生まれたかを見ました。同時に、これらの神々は最初は強力な生きもの以上の何ものでもなかった、ということを知っています。みなさんの大方は、ギリシヤのにせよ、ヘブライ、ペルシヤその他のにせよ、古い聖典をよむとき、古代の神々がときおりわれわれに非常な嫌悪の念をおこさせるようなことをしているのを見てぞっとなさるでしょう。しかしこれらの書物をよむときわれわれは、自分は十九世紀の人間であり、これらの神々は幾千年の昔の存在であったのだ、ということをすっかりわすれているのです。われわれはまた、これらの神々を崇拝した人びとは彼らの性格の中に何ら不愉快なもの、おそろしいものを感じなかったのだ、なぜならそれらは彼ら自身にそっくりであったのだから、ということをわすれています。それはわれわれがこの人生を通じて学ばなければならない、一つの大きな教訓である、と言ってもよいでしょう。他者を判定するにあたって、われわれはつねに、自分自身の理想を基準として判断をくだします。これはなすべきことではありません。各人は他者の理想によってではなく、彼自身の理想によって審判されるべきです。なかまの人びととの交渉にあたって、われわれはつねにこのあやまりをおかしつつ、ほねをおるのです。私が思うに、われわれ相互のあらそいの大多数は、ほかでもない、われわれがつねに他人の神々を自分たちの神々によってさばこうとし、他人の理想を自分たちの理想によって、また他人の動機を自分たちの動機によって判定しようとするという、このたった一つの原因から生まれるのです。私は、ある環境のもとにあることをおこなうかもしれません。そしてもう一人の人間が私とおなじことをしているのを見ると、彼も自分とおなじ動機によってうごかされているのだと思い、結果はおなじであるかもしれないが、ほかのさまざまの原因もおなじ結果を生みだすことがあるのだ、というようなことは想像もしないのです。彼はこの行為を、私の場合とはまるでちがった動機にかられておこなったのかもしれません。それゆえ、古代の宗教を判定する場合に、われわれは自分勝手の立場をとることなく、その時代の思想と生活の中に自分自身をおくべきです。................


| HOME | TOP |
(c) Nippon Vedanta Kyokai