カ ル マ・ヨ ー ガ

(新書判、214頁)

   

  定価(本体1000円+税)


目 次

まえがき

1 人の性格を形成するカルマ

2 人それぞれが、自分の置かれた場所にあって偉大である

3 働きの秘訣

4 義務とは何か

5 われわれは、自分を助けているのであって世間を助けているのではない

6 無執着は、完全な自己滅却である

7 自由

8 カルマ・ヨーガの理想
 


まえがき

 本書は、スワミ・ヴィヴェーカーナンダ Swami Vivekananda の講演集"Karma Yoga"(インドのラーマクリシュナ・ミッション所属の出版所「アドワイタ・アシュラマ」出版)の翻訳である。講演者スワミ・ヴィヴェーカーナンダ(一八六三〜一九〇二)については、当協会発行の他の書物その他を通じて大方の読者はある程度ご存じと思われるので、詳述は避ける。

 彼は一八八六年、師シュリ・ラーマクリシュナの没後、兄弟弟子たちとともにラーマクリシュナ僧団を結成、やがて数年間インド全土を托鉢遍歴の後、期するところあって単身渡米、一八九一二年シカゴで間かれた世界宗教会議に出席した。ここでヒンドウイズムの精髄を人が現代に生きるための指針として、明快な言葉で説き、その人格が持つ高貴な雰囲気と相まって満場を魅了した。統いて三年間、英米各地で教えを説いて多くの真摯な求道者をひきつけ、一八九七年に帰国した。帰国後は兄弟弟子たちとともにラーマクリシュナ・ミッションを組織、三十九歳で世を去るまで、祖国の人びとの霊的物質的更生のために心血を注いだ。

 この一連の講演は彼がアメリカ滞在中、一八九五年末か九六年始めにニューヨークでなされたもので、間もなく「カルマ・ヨーガ」という題で彼地で出版された。インドの代表的聖典バガヴァド・ギーターに合まれている真理の教えをそのまま現代語で表現したもの、と言われている。日本語版は従来、斉藤氏の訳で他の講演とともに「生きる秘訣」という題名で刊行されていたが、スワミがつけた題名を保存、独立の一書として出す、というラーマクリシュナ・ミッションの仕来りに従ってこのたび改訳、新しく出版することにしたものである。

一九八九年一月二十九日

日本ヴェーダーンタ協会


1 人の性格を形成するカルマ

 カルマという言葉は、サンスクリット語のクリ kri(する)からでています。すべての行為がカルマなのです。専門的には、この言葉はまた、行為の結果を意味します。形而上学の分野で使われる場合には、しばしば、過去の行為が原因となって生じた結果を意味します。しかしカルマ・ヨーガでは、カルマという言葉は単に、働き、を意味するものとして扱っています。

 人類の目標は知識です。それが、東洋哲学がわれわれの前にかかげる唯一の理想です。快楽は、人の目標ではありません。快楽と幸福は終わるときがあります。快楽を目標であると思うのは間違いです。われわれがこの世であうすべての不幸の原因は、人が愚かにも、快楽こそが追及すべき理想である、と重いこんでいるところにあります。しばらくすると人は、自分が向かって進みつつあるのは幸福ではない、知識だ、ということにきづきます。快楽も苦痛も、ともに偉大な教師である、自分は善からだけではなく、同様に悪からも学ぶのだ、ということを知ります。

 快楽と苦痛とが魂の前をすぎるとき、それらは事なる絵姿をその上に残し、これらの印象の組み合わせの結果が、人の「性格」と呼ばれるものとなります。誰のであれ、人間の性格をとり上げるなら、それは実は、さまざまの性質の集合体、つまりその人の心の傾向の総計にほかなりません。皆さんは、不幸と幸福がその性格の形成の等しい要素であることを、見いだすでしょう。善と悪とは性格形成には等しい役割を持っており、ある場合には、不幸は幸福よりも偉大な教師であります。私はあえて言います。世界が生んだ偉大な人格を研究すると、お岡の場合、幸福よりもっと多くを教えたのは不幸であったことが、富よりもっと多くを教えたのは貧しさであったことが、賞賛よりもっと多く、彼らの内なる火をもえ立たせたのは打撃であったことが、見いだされるでしょう。

 さてこの知識はまた、人に本来そなわっているものです。外から来る知識はありません。それはすべて、内にあるものです。われわれが、人が「知る」というものは、厳密に心理学的に表現するなら、彼が「発見する」もの、または「覆いを除く」ものであり、人が「学ぶ」というものは、実は彼が、無限の知識の鉱脈である自分の魂の覆いを取り除いて、そこに「発見する」ものなのであります。われわれは、ニュートンが引力を発見した、と言います。引力は、どこかのすみにいて彼を待っていたのでしょうか。それは彼自身の心の中にあったのです。時期が来て、彼がそれを発見したのです。世界が獲得したすべての知識は、心から来ます。宇宙という無限の書庫は、あなた自身の心中にあるのです。外部世界は単に、あなたに自分の心の中を研究させる暗示であり、機会であるにすぎません。あなたの研究の対象は、常にあなた自身の心です。リンゴが落ちたことがニュートンにヒントを与え、彼は自分の心を研究したのでした。彼はすでに心の中にあった思いのつながりを再編集し、そこに、われわれが引力の法則と呼ぶところの新しいつながりを発見したのでした。それはリンゴの中にあったのでも、地球の中心の何かにあったのでもありませんでした。ですから、世俗のにせよ霊的なものにせよ、すべての知識は人間の心の中にあるのです。

 多くの場合、それは発見されずに覆われたままでいます。そしてその覆いが徐々に除かれつつあるとき、われわれは、「私たちは学びつつある」と言い、知識の進歩は、この覆いを除く家庭の損子によってなされるのです。覆いが除かれつつある人はすぐれた知者であり、厚い覆いにおおわれたままの人は無知の人であり、それが完全に除かれた人は、全知の人であります。全知の人びとはいままでにもいました。これからも現れる、

来たるべきあまたの周期の間には無数に現れる、と私は信じます。一片の火打石の中にひそむ火のように、知識は心の中に存在します。暗示は、それを呼び出す摩擦です。われわれのすべての感情と行動もそれと同じ――われわれの涙とわれわれのほほえみ、われわれの喜びとわれわれの悲しみ、われわれの涕泣とわれわれの笑い、われわれの呪いとわれわれの祝福、われわれの賞賛とわれわれの非難――もし静かに自己を観察するなら、これらの一つ一つが、数多くの打撃によってわれわれ自身の内部からひき出されたものであることを発見するでしょう。その結果が、現在われわれがあるところのものなのです。

 これらすべての打撃を集めたものが、カルマ、つまり働き、行為、とよばれているのです。魂に与えられる、心と肉体のあらゆる打撃――いわばそれによってそこに火がつけられ、それによってそれみずからの力と知識が発見されるのですが――それがカルマ、この言葉が最も広い意味に使われた場合のカルマです。このようにして、われわれはすべて、常にカルマを行じているのです。私は皆さんに話している、それはカルマです。皆さんは聞いておられる、それがカルマです。われわれは息をしている、それはカルマです。われわれは歩く、それはカルマ。肉体のであれ、心のであれ、われわれがする一切のことはカルマであり、その一つ一つが、われわれの上にその印を残すのです。

 たくさんの小さい働きの集まり、総計と言えるような、一定の働きがあります。海辺に立って砂利の浜に向かって打ち寄せる波の音をきいていると、ものすごい響きだと思いますが、それでもわれわれは、一つの波は実は幾百万の小波からできているのだ、と

いうことを知っています。それらの一つ一つが音を立てているのですが、それは聞こえず、われわれが聞くのは、それらが大きな集合体になったときなのです。同様に、心臓の一つ一つの鼓動が働きです。ある種の働きをわれわれは感じ、それらを知るようになるのです。それらは同時に、多くの小さな働きの集まりであります。

 もし、あの人の性格を正しく判定したいと思うなら、彼の大きな行為をみてはなりません。どんな馬鹿でも、ある場合には英雄にもなるものです。人が最も普通の行動をしているのをごらんなさい。それがほんとうに、偉大な人の真の性格を示すものです。大きな機会というものは、最下等の人間をも、ある程度の偉大さにまでは奮いたたせるものです。しかし、どこにいても同じようにその性格が常に偉大である人だけが、真に偉大な人であります。

 性格に影響を与えているカルマこそ、人が相手にしなければならない最も恐るべき力です。人はいわば一個の中心であって、宇宙間のすべての力を自分の方に引きつけつつあり、その中心でそれら全部を溶かしてふたたび大きな流れとして放出しています。このような中心が、全部、全知の真の人であって、彼が、全宇宙を自分の方に引きよせているのです。善きも悪しきも、不幸も幸福も、すべてが彼の方に走って行って彼のまわりにくっつきます。そしてそれからは、彼は性格と呼ばれる強力な性質の流れをつくり出し、外に向かってそれを投げかけます。彼は何もかもを引きずり込む力を持っていますが同様に、それを外に投げ出す力も持っているのです。

 この世界にわれわれが見るすべての活動、人間社会に見られるすべての働き、われわれの周囲にあるすべての働きは、単に人の思いの表現、意志の現れにすぎません。機械または道具、もろもろの都市、船舶または軍艦、これらすべては単に、人の意志の現れです。そしてこの意志は性格から生じ、性格はカルマによってつくられます。カルマの通りに、意志の表現はなされるのです。この世界が生んだ巨大な意志の人びとはすべて、すさまじい働き手でした。世界をくつがえすに足る強力な意志、幾世にわたるねばりづよい働きによって得た意志、を持つ巨大的な魂でした。ブッダやイエスの意志のような巨大な意志は、一つの生涯で得られたものではありません。彼らの父親がどんな人たちであったか、私たちは知っているでしょう。彼らの父親が人類の福祉のためにたとえひとことでもしゃべった、などということはまったく知られていません。幾百万のヨセフのような大工たちがかつて生きていたの、いまも生きててます。幾百万のブッダの父親のような小国の王たちがこの世界にいました。もしこれが遺伝の一ケースにすぎないのでしたら、おそらく自分の家来たちからも完全には服従されなかったであろうこの小王が、世界の半分が崇拝する息子を生んだことをどう説明しますか。この大工と、幾百万の人間が神として礼拝する彼の息子との間の隔たりを、どう説明しますか。これは、遺伝の学説で解決することはできません。ブッダやイエスが世界に向かって投げかけた巨大な意志、それはどこから来たのでしょうか。力のこの蓄積は、どこから来たのでしょうか。それは幾世を通じて不断に徐々に大きさを増しつつそこにあり、ついにブッダまたはキリストとなって社会に向かって爆発、今日もなお、ころがりつづけているのに違いありません。

 このすべては、カルマすなわち働きによって決定されます。人は、自分でかせぐのでなければ何ひとつ、手に入れることはできません。これは永遠の法則です。われわれは、ときにはそうではないと思うかも知れませんが、長い間にはこのことを確信するようになります。ある男が生涯、富を欲してもがき、幾千人をだますかも知れません。しかしついには、自分は金持ちになれる人間ではなかったと知り、生きているのがいやになるのです。われわれは自分の肉体の快楽のために物をためつづけたとしても、ほんとうに自分のものになるのは自分でかせいだものだけです。馬鹿者が世界中の書物を買い集めて自分の書庫に並べたとしても、彼は彼相応のものしか読むことはできないでしょう。そして彼の読めるものは、カルマから生まれます。

 われわれのカルマが、われわれが、わがものとし得るもの、理解し得るものを決定するのです。自分のいまの状態に対する責任は、自分にあります。そして何であれ、自分はこうありたいと思うものには、われわれは、自分でなるだけの力を持っているのです。もし現在の状態が自分の過去の行為の結果であるなら、当然、自分が望んでいる将来の状態は、自分の現在の行動によって生み出されるはずです。ですからわれわれは、どのように行為すべきか、を学ばなければなりません。

 皆さんはおっしゃるでしょう、「どう働くか、などということを学んで何になるか。この世では誰も彼もが何とかかんとかして働いているではないか」と。しかし、エネルギーをチビチビ消費してしまう、というようなこともあります。カルマ・ヨーガについてはギーターは、それは仕事を賢く、科学として行うことである、どのように働くかを知ることによって、人は最大の結果を得ることができるのだ、と言っています。皆さんは、すべての働きに要するに、すでにそこにある心の力を引き出すためのもの、魂を呼びさますためのものであることを覚えていなければなりません。力は各人のうちにあり、知識も同様です。さまざまの仕事は、それらを引き出すための、この巨人たちをめざめさせるための、打撃のようなものです。

 人はさまざまの動機のもとに働きます。動機のない働き、などというものはあり得ません。ある人びとは名声を得たいと思い、そのために働きます。またある人びとは金を欲し、金のために働きます。また他の人びとは権力を欲し、そのために働きます。他の人びとは天国に行きたいと思ってそのために働きます。またシナ(中国)で見られるように、ある人びとは死ぬときに名を残したいと思って働きます。かの国では、人は死ぬまで称号を得ることはできません。また結局、それはわれわれのよりも良いやり方でしょう。あそこでは人が何か大変に善いことをすると、すでに死んでいる彼の父親または祖父に、貴族の称号が与えられるのです。ある人びとはそれをめざして働きます。マホメット教のある宗派の信者たちはその生涯、自分の死んだときに大きな墓を造らせるために働きます。私は、子供が生まれるや否や、その子のために墓の準備をする、という宗派を知っています。彼らの間では、それが人がしなければならない最も重要な仕事です。そして墓が大きければ大きいほど、立派であればあるほど、その人は裕福であると思われるのです。また贖罪のために働く人びともあります。あらゆる種類の悪いことをしたあとで、寺を建立したり、神職に何かを与えて彼らを買収し、彼らから天国へのパスポートを得ようとします。このような善行が自分を浄め、罪深い所行にもかかわらず、昇天がゆるされるであろう、と考えているのです。右のようなのが、働きのためのさまざまの動機です。

 働きのための働き。どこの国にも、ほんとうに地の潮であって、働きのために働く人びと、名声にも栄誉にも頓着せず、天国に行くことすら考えない人びと、がいるものです。彼らはただ、それから善いことが出て来るから、働くのです。また、貧しい人びとのために善いことをし、さらに高い動機から人類を助ける人びとがいます。彼らは善を行うことを信じ、善を愛しているのです。名声を求めて働く場合には、原則として、それらが直ちにやって来ることはまれです。その人が老い、ほとんど生涯を終わるころにやって来るのです。

 もし人が何の利己的な動機も持たないで働いたら、彼は何ものも得ないのでしょうか。いいえ、彼は最高のものを得ます。無私の態度はもっと大きな報いを得るのです。ただ人びとがそれを実践するだけの忍耐心を持っていないだけです。それは健康という見地から見ても、報いはもっと豊かです。愛、誠実、および非利己性は、単なる道徳上の形容語ではありません。それらは、われわれの最高理想を形成しているのです。それらの中に、つぎのような力の現れがあるのですから。第一に、五日間、いやたとえ五分間でも、何の利己的動機もなしに、未来のこと天国のこと罰のこと、この種のことは何ひとつ考えないで働くことのできる人は、強力な道徳的巨人になる能力を持っているのです。それをすることは難しいのですが、心の奥底で、われわれはそれの価値を知り、それがもたらすところの善を知っています。

 これ――このすばらしい抑揚――は力の最も偉大な現れです。自己抑制は、すべての外に向かっての活動よりも大きな力の、現れであります。四馬の馬にひかれた馬車がひとりで山の斜面を急降下するとします。または御者がいてそれを御するとします。馬を勝手に行かせるのと彼らを抑えつけるのと、どちらが大きな力を現すでしょうか。空中を飛ぶ弾丸は、長い距離を行って落下します。もう一つは、途中で壁にあたり、その衝撃は強烈な熱を発します。利己的な動機から生まれて外に出て行くエネルギーはことごとく、消費されます。それは自分の方に戻ってくる力とはならないでしょう。しかしもしそれが制御されると、力を生むことになるのです。この自己制御は強力な意志、キリストやブッダとなる人格を生むことになるありましょう。

 愚かな人びとはこの秘密を知りません。それにもかかわらず、人類を支配したいと思います。愚かな人でも、もし彼が働いて待つなら、全世界を支配するでしょう。彼をして数年間、支配しようというあの愚かな考えを抑制させてごらんなさい。そのような考えがすっかり消えてしまったとき、彼はこの世の一つの力になっているでしょう。われわれの大多数は、数年間より先は、見ることができません。ある獣たちが数歩より先は見ることができないのと同じです。ごくせまいサークル――それがわれわれの世界なのです。われわれは遠くに目を向けるだけの忍耐を持ち合わせていません。こうして不道徳になり、よこしまになるのです。これがわれわれの弱さ、われわれの無力さです。

 最低の形の働きも軽べつしてはなりません。それよりよいものを知らない人には、利己的な目的のために、名声のために、働かせるがよろしい。しかし誰もが、次第に高い動機を選んでそれを理解するようになるよう、常に努力すべきです。「働くことに対しては、われわれは権利を持つ。しかしそこから生まれた果実に対しては、権利を持たない」果実はほうっておおきなさい。なぜ結果などを気にするのですか。もし皆さんが人を助けたいと思うなら、その人の自分に対する態度はどうであるか、などということは考えてはなりません。もしある偉大な仕事か善い仕事をしたいと思うなら、結果はどうであろう、などと考えて心配するようなことは、してはなりません。

 この働きの理想については一つの難しい疑問が起こります。強烈な活動が必要です。われわれは常に働かなければなりません。働かずには、一分間も生きることはできません。すると休息はどうなるのでしょうか。ここに人生の奮闘の一つの面があります――われわれがその中にぐるぐると巻きこまれる、働きです。そしてここに、もう一つの面があるのです。静かな、隠遁的な放棄の面です。周囲の一切物が平安です。そこには騒音と見せかけはほとんどありません。ただ、けもとと花々と山々の自然があるだけです。これらのどちらもが、完全な絵姿ではありません。孤独に慣れた人びとは、世間の渦巻きにまきこまれるとそれにおしつぶされてしまうでしょう。深海にすむ魚が海面につれて来られると、からだを保たせていた水の重みに奪われてこなごなになってしまうのと同じようなものです。人生のそうぞうしさと忙しさに慣れた人がもし静かな場所に来たら安心して暮らせますか。彼は苦しみ、多分気が狂うでしょう。

 理想的な人は、最も深い沈黙と孤独のさなかに最も強烈な活動を見いだし、最も強烈な活動のさなかに砂漠の沈黙と孤独を見いだす人です。その人は、抑制の否決を学んだのです。彼は彼自身を支配したのです。彼は、往来頻発な大都会の街中を歩きながら、しかもその心はまるで、もの音ひとつとどかぬ洞穴の中にいるかのように静かです。そして彼は、常時最も活動的に働いています。それが、カルマ・ヨーガの理想です。もしそれができたら、その人はほんとうの働きの秘密を学んだのです。

 しかしわれわれは、最初から初めなければなりません。来るにしたがって仕事を引き受け、毎日少しずつ、自分を非利己的にして行かなければなりません。仕事をしつつ、自分をうながしている動機を見いださなければなりません。するとほとんど例外なしに、初めの数年間はいつも、動機は利己的であることを発見するでしょう。しかし根気よくつづけるうちにこの利己心は少しずつ消え、ついには、ほんとうに無私の心で働くことができるようになるときが来るでしょう。われわれはみな、人生の道を歩みつつ努力するうちにいつかは、自分が完全に非利己的になる日が来る、と期待してよろしい。そしてそうなった瞬間、われわれの持つすべての力は結集され、わがものであるところの知識が、表に現れるでありましょう。...............


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