神 を 求 め て 

スワミ・トゥリヤーナンダの生涯

スワミ・リタジャーナンダ著

(B6判、263頁)

定価(本体1300円+税)

  


 本書は、一九七三年にラーマクリシュナ・ミッションのマドラス僧院出版所から発行された――SWAMI TURIYANANDA(A DIRECT DISCIPLE OF SRI RAMAKRISHNA )by SWAMI RITAJANANDA の翻訳である。

 スワミ・トゥリヤーナンダ(一八六三〜一九二二)はシュリ・ラーマクリシュナの高弟、本書の内容が示すように、その高貴な人格によってインド内外の多数の求道者たちの尊崇をあつめたサンニヤーシンである。著者スワミ・リタジャーナンダはやはりラーマクリシュナ僧団のスワミで、同ミッションのフランスのセンター(パリから二十九キロ、グレッツという所にある)の長である。

一九八二年十月十六日

日本ヴェーダーンタ協会


   原書の序文(マドラスのラーマクリシュナ僧院長による)

 この書物がその生涯と教えとを伝えているスワミ・トゥリヤーナンダは、シュリ・ラーマクリシュナの直弟子であった。スワミはこの偉大な師の生涯の最後の六年間かれに師事し、後に、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの指揮のもとに師の名をつけて出発した小僧団の、重要なメンバーとなったのである。スワミ・トゥリヤーナンダは極度の禁欲主義者であり、人類への同悲の情、信仰の情熱、サンスクリットの学識、および現代的見識を稀に見る形で兼ね具えた人であった。瞑想はかれにとっては気晴らしであって、肉体の苦しみや病気が心に影響を与える、などということはなかった。その確固たる神への帰依の精神は、健康がすぐれず環境が厳しいときでさえ、かれをして遍歴の乞食僧の生活に耐えさせた。かれは、肉体を持ってはいるが肉体には支配されない、という人間の一固の実例であった。大学者でありながら学識を人に示さず、常に、説教よりむしろ自ら範を示すことによって、人に教えた。神がかれの人生の唯一の関心事、そこには、野心的な私的価値の追求など、入り込む余地はなかった。かれの一生は寂しい森の中の隠遁所における一つの長く続いた瞑想であって、その間に、兄弟僧にまじっての団体生活の期間が幾つか点在していた、と言ってよかろう。放浪生活への愛着にもかかわらず、彼らとの接触は決して失わなかったのである。

 瞑想と苦行を愛しこれに没頭していたかれが、スワミ・ヴィヴェーカーナンダに説得されて合衆国で約三年間の活動的な布教生活を送った事実をよく考えると、それは注目すべきことである。かれの叡知は、このようにして東洋と西洋にある最善のものを知ることによって充実し、完璧となったのである。かれは大衆の前での演説者ではなかったが座談の名人であり、東洋でも西洋でも、かれと接触した多くの求道者の生活に影響を与えた。スワミ・リタジャーナンダによるこの書物には、偉大なスワミの生涯と教えとを非常な努力をもって研究した結果集められた、会話および弟子たちの日記の抜粋が載っている。インドの霊的資産へのスワミ・トゥリヤーナンダの最大の貢献は、かれの汚れなき生涯である。霊性の価値を尊ぶすべての人は、この書物によってそれを具体的な、まとまった形で示したスワミ・リタジャーナンダに、深く感謝するであろう。
 


目   次

第一章 幼、少年時代

第二章 ハリ、かれの師に会う 

第三章 遍歴の年月

第四章 ニューヨークでの仕事

第五章 シャンティ・アシュラマ

第六章 サンフランシスコにて

第七章 インドへの帰還

第八章 カンカルでの生活

第九章 アルモラとプリで

第十章 カルカッタとベナレスで

第十一章 求道者たちの訓練

第十二章 最後の日々

 


第一章 幼、少年時代

 近代インドの予言者シュリ・ラーマクリシュナの生涯は僅かに五十年であった。かれはそのうちの十二年間という短い期間に霊性の主な修行法の大方を実践し、しかも、それらの師たちを驚かせるほどやすやすと、そして速かにそれぞれの極致に到達した。彼ら自身はその一つの修行にさえ、成功の域に達するにはほとんど全生涯をかけなければならなかったのである。これらの修行の何れをも行なったことのない人にはその困難も、またその恩恵もはっきりとは分らないであろう。それらがどんなものであるかということは、シュリ・ラーマクリシュナの直弟子たちによって得心の行くように生き生きと証明されている。ある者たちが自分の気質に応じてその中のたった一つの道をえらび、全生涯それを実践したのである。例えば、スワミ・ラーマクリシュナーナンダは生来の信仰者であって、儀式的礼拝がかれを強くひきつけた。かれはシュリ・ラーマクリシュナの没後にさえ、師は写真の中に生きつづけている、と感じて、まるで肉体をもった師がかれの前にいるかのようにそれを礼拝した。このように、かれは、シュリ・ラーマクリシュナ自らがどのようにカーリの像の、中に母なる神の現存を感じたか、ということを世に示したのである。一方スワミ・ブラマーナンダは、かれの師の心がどのように常に神の世界に住んでいたかということを、そしてその外界との接触は表面的な、かれが自らに強制したものであったのだ、ということを示した。そしてスワミ・ヴィヴェーカーナンダは、自分は絶対者そのものであるという最高の自覚のもとに、神の人は世間からの超越をどのように現わすか、またかれは常にどのようにふるまうか、ということを示した。

 スワミ・トゥリヤーナンダは異なる役割を持っていた。少年時代までも含めてその全生涯、聖フランシス(自分の肉体を「兄弟ロバ」とみなした人)と同じ無関心さをもって自分の肉体を扱ったので、シュリ・ラーマクリシュナの他の弟子たちの誰にもまして、かれは多くの人々に、禁欲者を例証していると思われている。スフミ・トゥリヤーナンダはその全生涯、苦行を実践した。そしてかれは、苦行の本当の意味は何であるのかということを、また神に献げられた生活の中でのそれの価値は何であるかということを、われわれに示している。

 聖者たちの伝記の資料は、彼らが極端に若い頃のことを語りたがらないので非常に少ない。スワミ・トゥリヤーナンダの少年時代に関してわれわれの知り得たものは、かれが信者たちとの会話の中で何気なくもらした話の断片の集成である。この当時の詳しいことは分らないが、ごく幼い時からはっきりと禁欲的な性格を示していたことは明らかである。かれの血統、幼児期および性格のすべては、やがて世に現われたあの人格の中に結合しているように思える。

 かれは一八六三年一月三目に生まれた。カルカッタのバグバザール地区に住んでいた父親の正統派ブラーミン、チャンドラナート・チャタジーは、その信仰、勇気および未来を予言する能力によって、この地域の人々から敬われていた。チャンドラナートは死期にある人の脈を見て正確な死亡日時を予告することが出来ると言われていた。その頃、信仰心のある多くの人たちがガンジスの岸辺で死ぬことを願っていたので、チャンドラナートのこの様な予告は死に臨んでいる人たちに準備をさせることができ、多くの人に喜ばれた。チャンドラナートはカルカッタのある会社の倉庫管理人として働いていた。かれには三人の息子と三人の娘がおり、一番下が後にスワミ・トゥリヤーナンダになったハリナートであった。長男マヘンドラナートはハリナートより二十歳、二男ウベシドラナートは十歳年上であった。二人の姉は子供のときに亡くなった。残った姉はハリナートが生まれた時には七歳位であった。その頃のカルカッタ郊外は深い密林にかこまれていた。小さな野生動物がそこに住んでいて、夕方になると道に出て来て民家に自由に侵入した。ある目、チャンドラナートの妻プラサンナマイーが小さいハリナートを床において家のどこかで仕事をしていると、どう猛なジャッカルが侵入してまさに子供にかみつこうとした。驚いた母親はハリナートを救うため急ぎかけより、そのために彼女自身が致命傷を受けた。その後間もなく彼女は亡くなった。ハリナートはその頃まだ彼女のことを憶えているには余りに幼かった。幸にも、その頃にはかれの長兄マヘンドラナートはすでに結婚していて、かれの妻が母親のない児の世話をした。

 ハリナートはこの幼い年頃にもう頑固で独立心に富む性格を現わし、自分のことは常に自分の思う通りにやりたがった。その上一寸怒らせてもすぐに興奮した。日時にかれは生活の必需品については非常に無頓着であって、出された食物は何でも不平を言わずに食べた。適齢期になると、この地方のベンガル語(で教育する)学校に通わされた。ハリナートが十二歳のときに父親が亡くなった。それはこの少年が身近に見た最初の死であってかれを深く悲しませた。父親の死の直前、かれがひどく泣いていたので、姉が父にかれを慰める言葉を与えてやってくれと頼んだ。「何を話すことがあろうか」と、死のうとしている人は答えた、「ハリはこの世界のものであり、この世界はハリのものだ!」それは間違いのない予言であった。ついにハリはこの世界のものとなり、この世界はかれのものとなったのである。このようにハリは、ごく幼いうちに孤児となり、共に遊んだり心の内を明かし合ったりする小さい兄弟姉妹もいなかった。かれの二人の兄と義姉とはかれを喜ばせるためには出来る限りのことをした。とりわけ、義姉はかれの身のまわりの世話をよくした上に最大の愛情を示したので、ハリは終生姉に対して深い感謝の念を持ちつづけた。後年、かれは若い僧たちのグループに語った、「私の母は私が小さい時に亡くなった。その時私はたった三歳であった。義姉の世話を受けて大きくなった。私はいつも彼女にくっついていた。彼女と一緒でないと何処へ行くことも好まなかった。彼女は大そう愛深い人で、よく私の世話をし、私をまるでわが子のように育ててくれた。僧院に入ってからも、私は彼女を忘れることはできなかった。彼女の存命中は常に、その福祉について心配した。彼女の死後やっと、なやみから救われたと感じたのである」

 ハリは学校ではすべての学課をよく勉強した。しかし特に興味を持ったのは宗教と体育だった。そのときすでに、かれの大望は、正統派のすべての伝統と習慣とを守りつつ厳しい生活を送ることであった。聖糸授与式によってブラマチャーリンの生活にはいった後は、一日に三回沐浴をし、ガーヤトリマントラを規則正しくくりかえし、固い床に眠り、最も質素な食事をとった。その上に非常に過激な連動を行なったので、ある人々はそれがかれの身体の構造に過度の負担をかけるのではないかと案じた。かれの写真は、かれが強じんな体格の持主であったことを示している。この肉体の強化は、後に直面したさまざまの困難にかれが耐えて行くことを助けた。かれがもった第三の理想は完全な禁欲の遵守であった。心を欲情から遠ざけるために睡眠を少なくし、瞑想に多くの時間を費した。

 この頃のかれの生活について、ハリは一度こう話した、「夜三、四時間以上限ったことはなかったように思う。宵のうちは瞑想で過した。そして私は、睡眠は一つの邪魔ものであるときめた。それゆえ、いつも坐って自分の思いの連続を見まもっていた。その結果、私の心は間断なく永遠なるものとかりそめのものとの識別をはじめた。そうなるともう眠ることは出来なかった。私は心中に、「自分は気違いになりかけているのだろうか」と思った。眠れるようにと祈りはじめた。しかし、私の内部には喜びの流れがあった。まるで誰かが「だがお前はこのように識別をしたいと思っているのではないか」と言っているようだった……当時、一年の間、私はきまって次の歌をうたった――

 おお、母よ、あなたの愛によって私を狂わせて下さい!

 何で知識や理性を持つ必要があるのか。

 あなたの愛のお酒で私を酔わせて下さい。

 おおあなた、信者たちのハートをお盗みになるお方、あなたの愛の海の深みで溺れさせて下さい!

 ここ、この世界、あなたの気違い病院では、ある者は笑い、ある者は泣き、ある者は喜びに踊る。

 イエス、仏陀、モーゼ、ガウランガ、みながあなたの愛のお酒でよっぱらっている。

 おお母よ、私は何時、彼らの至福に満ちた仲間に入るお恵みをいただけるのでしょうか。

 「これは私の心を和らげ、絶対者の領域から神の人格的な面へと私をつれもどした。もし私がもう少し忍耐力を持っていたなら、私は絶対者に融合してしまったことだろう」とかれは結んだ。

 沐浴や瞑想のような形で現われた行を遵守しただけでなく、ハリは多くの讃歌をそらで憶え、気分がわくとくり返してうたった。かれはまたウパニシャッドの勉強にも興味をもち、チャンディ(母なる神を讃える聖典)、ヴィヴェーカ・チュダーマニ(識別の宝冠石)、バガヴァドーギーターおよびトゥルシダスのラーマーヤナを暗記した。厳格な生活はかれには理想的な霊的生活であると思えた。ガンジスでの沐浴はかれを著しく高揚させ、第一回目はいつも夜明前に行なわれた。かれは、他の人たちより先に沐浴を終えることにある満足感を覚え、熱意をもって、朝の一時か三時という早さに河に行った。かれは、自分が太陽の昇る前にすでに何時間も瞑想をしていたことに気づいた。

 ハリのヴェーダーンタの書物の勉強は、かれに、肉体に宿る内なる自己だけが実在であるという強い印象を与えた。このようにしてかれは肉体への無関心さを養った。ある時、朝の沐浴中にある出来ごとがあって理想に邁進するかれに大きな力を与えた。それについてかれは後にこう話した、「若い頃のことであった。私は常にヴェーダーンタを読み、実践をしていた。絶え間なく、自分はこの肉体ではなくアートマンである、ということを忘れないように努力していた。私は早朝に沐浴する習慣であった。ある日のこと、いつもの様に沐浴に行って河の中にいた。私は水中に浮かんでいるある物体を見た。まだ暗かったので、私はそれを見わけることが出来なかった。ところが岸辺にいた人たちが、それがワニであることを知って、『急いで上がってこい! ワニがお前をめがけて来ているぞ!』と叫んだ。私は本能的に岸にかけ上がった。然し水から出ると同時に、心の中で思った、『お前は何をやっているのだ。お前は朝に夕に、ソーハーム! ソーハーム! 私はかれである! 私はかれである! と繰りかえしているではないか。それなのにたちまち、自分の理想を忘れて自分は肉体であると考えている! 恥知らずめ!』と。『シヴァよ、シヴァよ! 本当にそうです』と思った。そして直ちに引きかえした。ワニは決して私に近づくようなことはしなかった。私はいつもの通りに沐浴をした。だが私は、自分がそれを早く終えようと急いでいることに気がついた。そして自分に言った、『いや、急がないぞ、いつもの様に沐浴をするぞ』と。そしてそうしたのだった」

 ベンガル語の学校を卒業の後、ハリはキリスト教の宣教師たちによって運営されているジェネラル・アセンブリ・スクールに通った。このような学校では聖書の勉強のために別に、一時間が組まれていた。この課目は必修ではなかったので、殆んどのヒンドゥ教徒の少年たちは欠席をした。かれは正統派のヒンドゥ教徒ではあったが、バイブルに深い興味を持った。実際かれにとっては、どの様な宗教の書物も魅力があったのだ。この頃、一人のサードゥがこの地を訪れてしばらく逗留した。毎日多くの人たちが各自の目的をもってかれの許にやって来た。ある人々はサードゥに自分の未来を占うことを頼み、ある人々は病気を治してくれと頼んだ。そのサードゥは神通力を持っていて、かれの言ったことは必ず成就するのだ、といううわさだった。ハリもまた興味を持つようになり、毎夕かれの許にやって来た。かれは黙ってそこに坐り、大勢の訪問者や、サードゥの応待の方法を見守った。何日かたつと、サードゥがハリに言った、「ここに来る人はことごとく何らかの助けを求めて来るようだが、お前はそうではない。何か私が解決して上げられる質問か問題を抱えているのか」

 ハリは答えた、「師よ、私はそのような問題は何も持っておりません。ただ、苦行を行なう力、絶え間なく神の御名を繰り返す力、およびかれを悟る力だけが欲しいのです。これが私の欲しいもののすべてです」

 そのサードゥは年若い少年からこの様な言葉をきいてこの上なく感心し、こう言った、「見ごと! 見ごと! 私の息子よ、君は必ず成功するよ。欲するものを得るであろう」この言葉はハリを励まし、かれは前にもまさる情熱をもって霊性の修行をつづけた。

 これが、われわれの得たハリの十代初期の姿である。かれの生活の理想はすでにかれの前にはっきりとしており、かれは、それに到達するために人は、五官の快楽への完全な無関心を特色とする苦行者的生活を送り、聖典の完全な知識を獲得し、瞑想に長時間を費し、そしてブラーミンの伝統を厳守しなければならない、と確信した。かれが自分を導く師を欲したかどうかは分らないが、とも角、この頃には誰も見出さず、ただ自分で、自分がよいと思うさまざまの修行を行なった。

 ハリの熱心すぎる宗教生活は兄たちの注意を惹いたけれど、彼らは異議をとなえなかった。家族の友人たちがマヘンドラナートに、「あなたはハリが日毎にどんなに変りつつあるか気がついているのですか。かれは僧侶になるのですか。かれに注意してやって、もっと勉強に精を出させ、出世の支度をさせるようになさい」と言うのだった。しかしマヘンドラナートは、「結局ハリはブラーミンの少年に相応しいことをやっているだけです。悪いことは一つもありません」とうのだった。ハリはホッとした。もしこの頃にシュリ・ラーマクリシュナにあわなかったなら、かれは恐らく最後までこの様な生活をつづけたことであろう。...............


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