秘められたインド

(B6版、326頁)

 

定価(本体1500円+税)


 これは、一九三四年にイギリスで発行された Dr. Paul Brunton 著、" A Search in Secret India " の翻訳である。原著者ブラントン氏は一八九八年ロンドンに生まれ、本書の内容が示すように、ジャーナリストとして出発したがついに、インドを始めとする東洋の哲学の研究に生涯を献げた人である。その十指に余る優れた著作は、独、仏、伊等十数カ国語に訳されて広く読まれていると聞く。一九七五、六年頃に当協会の一インド人会員が母国からもたらした本書の英文原書の内容が面白く優れているので、翻訳して会誌「不滅の言葉」に連載した。それが読者の好評を得たので、原書の発行所と談合の上、一書にまとめて刊行したものである。

一九八二年五月 日本ヴェーダーンタ協会


目  次

序文 (サー・フランシス・ヤングハズバンドによる)

第一章 ここで読者にご挨拶をする

第二章 探求への序奏

第三章 エジプトから来た魔法便い

第四章 救世主に会う

第五章 アディヤル河の隠者

第六章 死を克服するヨガ

第七章 もの言わぬ賢者

第八章 南インドの霊性の頭首と共に

第九章 聖なるかがり火の山

第十章 魔法使いたちと修行者たちの間で

第十一章 ベナレスの奇跡行者

第十二章 星に書いてある!

第十三章 主の庭園

第十四章 パーシー教の救世主の本部で

第十五章 不思議な遭遇

第十六章 密林の草庵にて

第十七章 忘れられた真理の一覧表


序文

     サー・フランシス・ヤングハズバンド

 この書物には、「セイクレッド(聖なる)インディヤ」という題名の方が相応しいであろう。(実際の書名は、「シークレット(秘められた)インドの探求」)これは、セイクレッドなるがゆえにシークレットなるインド、そういうインドの探求なのである。人生の最も神聖な事柄は、広く一般に言いふらされるものではない。人間の魂の動かし難い本能は、それらを、ごく僅かの者しか――おそらく誰も――近づけないような、最も奥深いところにしまい込んでおくのだ。たしかに、霊的な事柄に心をよせている者たちだけが近づけるところである。そして国の場合も個人の場合と同様である。最も神聖なものを、国は秘密にしておく。外来者にとって、イギリスが最も神聖なりとするものを発見するのは容易なことではあるまい。それはインドにおいても同様である。インドの最も神聖なる部分は、最も秘密なる部分である。

 さて、秘められた事物は、莫大な探索を必要とする。しかし、探索する者は、それを見出すであろう。全心を傾け断乎たる決意をもって探索する者たちは、ついには秘められたものを見出すのである。

 ブラントン氏はその決意を持っていた。そしてついに、見出したのである。しかしその困難は並大抵のものではなかった。なぜならインドでは、他のどこでもそうであるように、真実の霊性を見出し得るまでには数多の偽物にめぐり会わなければならないからである。純粋な霊性の探求者は、無数の心の軽わざ師や曲芸家の群れをかき分けで進んで行かなければならない。この連中は、その筋力と同時に心の力をも、それらが比類のない能力を持つまでに訓練している。自分の心の動きをほとんど完全に支配し得るほどの、集中力を酷使している。彼らの多くは、われわれがオカルトパワーズ(神通力)と呼ぶものを開発しているのである。

 これらは全て、それらなりに十分興味深いものであり、心霊的な現象に興味を持つ科学的な人々にとっては、研究する価値のあるものである。しかし、それらは真実のものではない。そこから霊性の流れが噴出する、という泉ではないのである。

 それらは、ブラントン氏が探求したシークレットな、しかもセイクレッドなインドを形成するものではない。かれはそれらを見た。それらを記録した。それらを描写した。しかしかれは、それらをおし分けて更に進んだ。最も精妙で最も純粋な状態の霊性、これがかれの欲したものである。そしてこれを、かれはついに発見したのだ。

 人間のすみ家を遠く離れたところ、インドの最も聖なる人々が常に帰って行くジャングル――ヒマラヤにも帰って行く――の中に、ブラントン氏は、インドが最も神聖なりと主張する全でのものの、正真正銘の権化を見出した。マハーリシー――偉大なる賢者――(注=ラーマナ・マハーリシのこと)が、ブラントン氏に最もつよく訴えた人だったのである。かれは、このたぐいの唯一の人ではない。インドのあちらこちらには他にも、大勢ではなくごくごく僅かは見出されるであろう。彼らが、インドの真の精神を代表しているのであり、また宇宙の巨大な精神が特異な程度にまでかれみずからを表現するのは、この人々を通してである。

 それゆえ、彼らはこの地上で探し求めるに最も値する対象の神の一つである。そしてこの書物の中にわれわれは、一つの、そのような探求の結果を見出すのである。

第一章 ここで読者にご挨拶をする

 インドの生活という黄ばんだ書物の中には不明瞭な一節があるので、私はそれを、西洋の読者たちのためにはっきりと説明しようと努力した。昔の旅行者たちは、インドのファキール(行者)たちの怪しい物語を携えてヨーロッパに帰って来た。現代の旅行者たちさえ、しばしば、同様の物語を持って帰って来る。時おりわれわれの耳に達する、ヨギ(著者はヨギーと発音するよう指定している)と呼ばれたりファキールと呼ばれたりしているこの神秘的な人種に関するこれらの伝説の背後にはどんな事実があるのだろうか。インドには、それを実行する人に対して心の力の驚くべき開発を約束する古代の叡知が存在する、とわれわれに向かってほのめかす、ときどきやって来る暗示の背後にはどんな真実が存在するのだろうか。私は、それを見出すために長い旅に出た。このあとに続くページは、私のリポートの要約である。

 「要約」と私は言う。もっと大勢あった中の一人のヨギについて書くために、私は、無情なほど多量の空間と時間の必要に迫られたのである。それゆえここには、最も私の興味をひいた、そして西洋世界にも興味を抱かせるであろうと思われる、数名だけを選んだ。深い叡知と奇妙な力を持つと称せられるいわゆる聖者たちの大そうな評判を聞いて、やけつくような日々を夜もろくに眠らず、彼らに会うために旅をする――ところが見出したのは、聖典の奴れいか、由緒ありげに見える物知らずか、金もうけ主義の魔法使いか、少しばかりの技を持った手品師にすぎない、というわけである。このような連中の記録で紙面を埋めるのは読者にとって価値のないことだし、私にとっても不愉快なことだ。それゆえ彼らのために浪費した時間の物語は省略することにする。

 私は、普通の旅行者がまれにしか見ずほとんど理解もしないような、人目につかぬインドの一面を見る特典を与えられたことに感謝している。あの広大な土地に住むイギリス人たちの中のごくこく僅かの人々だけが、この面の研究に注意を向けた。しかもその僅かの人々の中でも、それをもっと深く調べて報告をするだけの自由を持つ人は更に僅かだった。役人としての威厳は必ず重んじなければならないからである。それゆえこの問題に手をそめたイギリス人の記録者たちは深い懐疑主義にかたよっており、そのことは当然、土着民からのさまざまの情報を得難くするし、また、こういうことのもっと深い面について何かを本当に知っているインド人は、そういう入たちとは話したがらない白人たちがヨギを知っていると言っても、大方の場合それは深いつきあいではないだろうし、しかも必ず、最善のヨギとつきあっているのではない。最善のヨギは今は、それを生み出したこの国にさえごく僅かしかいないのだ。彼らはごくまれであり、自分たちの真の力量を大衆の眼にさらすことを好まず、無知をよそおいたがる。インドやチベットやシナでは、このような人たちは、いつとび込んできて自分たちのプライバシーを侵すか分らない西洋入の旅行者を追い払うために、つまらない無知な人間のふりをしてみせることを研究しているのだ。おそらく彼らはあの、「偉大であるということは誤解されるということだ」という、エマーソンのそっけない文句に何らかの意味を見出すのだろう。私は知らない。とにかく、彼らの大部分は人間と交わりたいとは思っていない隠とん者である。たとえ会っても、ある期間つきあった後でなければ打ちとけることはしないようだ。それだから南洋の国々では、これらのヨギたちの奇妙な生活についてはごく僅かしか書かれていないし、その僅かもまことにあいまいなのである。

 インドの文筆家たちの報告はたしかに入手することができる。しかし、それらは用心して読まなければならない。不幸なことに東洋人はしばしば、全く識別をしないで風聞を事実と混同する。だからそのような報告は事実の記録としては価値が低い。こりごりするような経験によってこのことをはっきりと知ったとき、私は、自分が西洋人として受けた科学的訓練と、ジャーナリストとしての経験を通して身につけた常識的な態度とに対して、神に感謝したものである。東洋の迷信の多くのものの陰には、本ものの事実という根拠がある。しかしそれを見出すためには十分な注意が必要だ。私はどこに行っても、敵意は持たないが批判的な眼を、たえず見開いていなければならなかった。私が自分の哲学上の関心とは別に、神秘的で奇跡的な事柄にも興味を持っているということを知ると、その中の少なからぬ連中が、絵具やワニスをふんだんに使って彼らの持つ僅少の事実を飾り立てたのである。真理は他物の助けがなくても転倒せず、自分の脚で立っていられるほど強いものなのだ、ということを彼らに教えるために時を費すこともできたのだけれど、私は他に、しなければならないことを持っていた。しかしながら、私は、自分がキリストの注釈者たちの無知を取らずかれの叡知の方を取っていると同様に、東洋の不思議に関する本源からの直接の知識を得る方をとったことを、嬉しく感じた。私は、愚かな迷信や虚飾という混乱を通して、徹底的な調査の厳しいテストにもたえられる本当のものを探した。私は、自分がもしこの複雑な自分の性格の内部に、科学的懐疑主義と霊的感受性という二つの要素、普通は激しく対立する二つの要素を併せ持っていなかったなら、決してこのことはなし得なかったであろうと、いささか自負するものである。

 私はこの書物を「秘められたインドの探求」と題した。幾千年の間詮索ずきな眼には隠されて来たインド、他との交わりを拒み続けて来て今は急速に消滅しつつあり、僅かにそれの名残だけが残っているインド、を語るものだからである。ヨギたちが彼らの知識をまもり続けて来た厳しく秘教的な態度は、この民主的な時代のわれわれには利己的に見えるかも知れない。しかしそのことは、彼らが眼に見える歴史の世界から徐々に姿を消しつつある理由の、説明の一助となるものである。幾千のイギリス人がインドに住み、年々幾百人がここを訪れる。しかし、数多の船がわれわれのもとに運んで来る高価な真珠や宝石よりも世界にとってもっと貴重であるということが、何時かは判明するであろうところのものについて多少でも知っている人はごく僅かだ。わざわざ出かけて行ってヨガ(原書にはヨグと発音せよと指定してある)の名人を見出そうと努力した人は更に僅少である。人里離れたところの洞くつの中とか弟子たちの一ぱいいる部屋の中で、褐色の半裸の人物の前にひれ伏すことのできるイギリス人などは千人に一人もいないのだから。このカーストという形式が固執する避け難い障壁は、寛大な性格と発達した知性の持主といえどももしイギリス人居住区の彼らの住居から突然つれてこられてこんな洞くつの神に置かれたなら、必ずヨギとのつきあいを不快に感じ、かれの思想を不可解と思うであろうほどに、大きいのだ。

 しかし、軍人であろうと文官であろうと、ビジネスマンであろうと旅行者であろうと、インドにいるイギリス人を高慢のゆえにヨギの敷物にすわらないと言って責めるのは当らない。たしかに重要不可欠の一つの行為であるところの、イギリス人の威信を保つという仕事を全く別にしても彼らが逢う行者の種類は、魅力よりは不愉快を感じさせる場合の方が多いのである。そんな男を避けたとて、何の損失でもありはしない。それでもやはり、イギリス人がこの国に長い年月滞在した後にしばしば、インドの賢者のひたいの背後に何があるかを全く知らないでこの国を去るのはやむを得ないことながら、まことに残念である。

 私は、トリチノポリの巨大な岩石のとりでの陰で一人のロンドン子にあった時のことを、はっきりと憶えている。二十年以上、かれはインドの鉄道事業の、責任ある地位を占めていたのだ。この焼けつく太陽の国でのかれの生活について、私がかれを質問ぜめにするのは避けられないことだった。ついに私は、自分の得意の質問を提出した、「ヨギにお会いになったことがありますか」

 かれはちょっとぼう然としたような顔つきで私を見つめそして答えた、

 「ヨギですって? それは何ですか。けものですか」

 このような無知は、かれが故郷のロンドン旧市内に住み続けていたのだったら十分に許されるべきことだったろう。すでに二十六年間もこの国に住んでいたというのに、全く恵まれたことだった。私は、そっとしておいてやることにした。

 ヒンドゥスターンに住むさまざまの民族の間を旅するにあたって私は、プライドは足の下に踏みつけていたから、速かな理解と知的な同情とを与えることを借しまず、ぜいたくな毛嫌いをせず、皮膚の色にかかわらず相手の人格を尊重したから、そして生涯真理を求めつづけ、真理のお伴としてついて来るものなら何ものであれ喜んで受け容れることにしていたから、この記録を書くことができるのである。私は、真の賢者たちの足下にすわり、そこでインドのヨガの真の教えを直接に学ぶために、迷信的な愚者や自称ファキールたちの群れをかき分けて進んだ。人里離れた庵の床に、多くの顔に囲まれ、なじみの無い一言葉をききながらすわった。あの控えめな、隠とん的な人々、最善のヨギたちを探し出し、謙虚に、彼らの神託めいた指示に耳を傾けた。ベナレスのバラモンのパンディットと共に、人間が考えることを始めて以来かれの頭脳をさいなみハートをなやませて来た、哲学と信仰に関する古代以来の問題を論じて幾時間も語り合った。時には、魔法使いや奇術師や、めぐり合った奇妙な出来事にかかずらって気をまぎらせることもした。

 私は、直接の調査という方法によって今日のヨギに関する真の事実を集めたいと思った。私は、ジャーナリストとしての経験のおかげで自分が探し求めている情報の大部分をいち早くひき出す能力を得ていたことを、編集机に向かって青鉛筆をふりまわしている間に訓練されてカラから麦を分離させることにかけては無情なほど批判的になっていたことを、そしてまた職業上必要な人生のあらゆる階級の男女との接触、ボロをまとった乞食から美食している百万長者にいたるあらゆる人との接触が、多彩なインドの民衆の間をほんの少しばかりスムーズに動けるようにしてくれていたことを、誇らしく思うのだ。この多彩なインドの民衆の中で、私はあのふしぎな人々、ヨギたちを探し求めたのである。

 同時に他方では、私は自分を取りまく環境からは完全に離れた内面生活をしていた。余暇の大部分は、深遠な文書の研究や、心理学上の実験のほとんど人に知られていない迂回路の研究に費した。常にキンメル族(大昔の常闇の世界に住んでいたという伝説の民族)の神秘に包まれて来たような問題の、探求をした。これらの条項の上に、生れつきの、東洋の事物に対するあこがれを、つけ加えなければなるまい。東洋はすでに私の最初の訪問の前に、巨大な触手をのばして私の魂をつかんだ。ついにそれらは、英語の翻訳が入手できる限りのアジヤの諸聖典、パンディットたちの学問的な注釈書、および記録されている賢者たちの思想を研究せざるを得ないように私を引っぱったのである。

 この二重の経験は偉大な価値を持つことを証明した。それは私に、人生の神秘を探求する東洋の方法に同感する余り、批判的にしかも公平に事実を見出そうとする私の科学的な要求を捨てるようなことをするな、と教えた。もしこの同感が無かったら、私は決して、インドに住む普通のイギリス人がふみこむことを軽べつするような場所や人々の間に行くことはできなかっただろう。もしこの厳しい科学的な態度を持っていなかったら、実に多くのインド人たちがつれて行かれてしまったように思われる、迷信の荒野の中に迷い込んでしまったことだろう。普通たがいに矛盾するものだと信ぜられている性質を、結合させるのは容易なことではない。しかし私は、それらを健全なバランスのうちに確保しようと真剣に努力した。

            §

 西洋が今日のインドからほとんど学ぶものが無い、ということは、私はわざわざ否定はしないだろう。しかし過去のインドの賢者たちや今日尚生きているごく僅かの人々からはわれわれは多くのものを学ばなければならない、ということを、私は躊躇なく断言する。主要な都市と旧跡を「通過」してインドの非文明を嫌悪しつつ汽車で行ってしまう白人の旅行者がインドをけなすのも、たしかにもっともだ。しかしいつの日にかは、役に立たない寺院のくずれかかった廃墟やとうの昔に死んだ道楽者の王たちの大理石の宮殿などはさしおき、われわれの大学では教えられたことのない叡知を示すことのできる生きた賢者たちを探し求める、もっと賢明なタイプの旅行者が立ち上がるだろう。

 これらのインド人たちは、熱帯の恐ろしい太陽のもとに寝そべっている怠け者にすぎないのか。彼らは他の世界のためになるようなことは何一つしたことも考えたこともないのか。彼らの物質的後進性と心理的弱々しさしか見ることのできない旅行者は、十分に見たのではないのだ。もしかれが軽べつの代りに思慮をはたらかせるなら、閉じられた唇や隠された扉を開くことができるだろう。

 たとえインドが幾世紀にわたって居眠りをつづけて来たのだとしても、たとえ今日でもこの国には、十四世紀のイギリスの農民と同じように文盲で、子供じみた迷信と幼稚園的な宗教とのまじり合った、彼らと同じような見解を持つ幾百万の農民がいるのだとしても、更に、たとえ、土着の学問センターではブラーミンのパンディットたちが丁度中世スコラ哲学者たちがやっていたのと同じような、聖典の言葉の詮議立てや形而上学的議論の引き伸ばしに年月を浪費しているのだとしても、である。それでもそこには尚、ヨガという名で総称できる、それら独自の形で西洋の科学が提供するいかなる利益にも劣らぬ貴重な利益を人類に提供する、小さいけれども量り知れぬ価値を持つ文化の名残があるのだ。それはわれわれの肉体を、本来そうあるべきはずの健康な状態に近づけることができる。それは、現代文明が最も早急に必要とするもの、心の完全な静けさを与えることができる。そしてそれは、それを目ざして努力する者のためには、霊という永続的な宝に到る道を開くことができるのだ。私は、この偉大な叡知はインドの過去に属するもの、現代には属していない、と言ってもよいと思う。このヨガという護られた知識は、かつては優れた教授たちと忠実な学生たちを数多擁していたに違いないのだが、今日では、繁栄しているとは言い難い。それを注意深く包んでいた秘密が、この古代の科学の普及を完全に殺すことに成功した、とでも言うのだろう。私は知らない。

 それだから自分の西洋人の仲間に向かって、東を向いて新しい信仰を求めるのではなくわれわれが現在持っている知識の小石の山積みの上に投げ上げるべき数個の小石を探してごらん、と言っても多分悪くはないだろう。Burnouf や Colebrooke や Max Muller のような東洋学者たちが学界に現れでインドの文学的至宝の若干をわれわれの処にもたらした時、ヨーロッパの碩学たちは、かの国に住む異教徒たちも我ら自身の無知が推定していたはと愚鈍ではなかった、ということを理解しはじめた。アジヤの研究の中には西洋にとって有益な思想は見出せない、と公言するあの利口な連中は、それによって彼ら自身の空虚さを証明しているのだ。その研究に「愚鈍な」というあだ名を投げつけるような実用的な人物どもは、それを彼ら自身の狭量さに向かって投げつけることに成功しているにすぎないのだ。もしわれわれの生命観が、ボンベイに生まれないでブリストルに生まれた、というようなチャンスによって、つまり空間内の単なる偶然によって完全に決定されるようであるなら、われわれは、文明人と呼ばれるには価しないだろう。全ての東洋思想の流入に対して心を閉じる人々は、精妙な思想、深い真理、および価値ある心理学上の知識に対しても心を閉じていることになるのだ。不思議な事実および更に一層不思議な叡知という、何らかの貴重な宝石を見出すことを期待してこのカビ臭い東洋の伝承の間をあさりまわる人は誰であれ、自分の探求が無駄でなかったことを知るであろう。

     §

 ヨギたちと彼らの秘せられた知識とを求めて、私は東に旅をした。主な目的ではなかったが、霊性の光ともっと神聖な生命を見出したい、という思いを抱いていた。私はこの探求をつづけて、静かな、灰緑色のガンジスや、広いヤムナや、絵のように美しいゴダヴァリという、インドの聖なる河川のほとりを遍歴した。私は国を回った。インドは私を彼女のハートまでつれてゆき、消えつつある、彼女の賢者たちの名残は、このなじみのうすい西洋人のために多くの扉を開いてくれた。

 ついこの間まで、私はあの、神を人間の空想の作った幻覚と見なし、霊性の真理を単なるかすみ眼であり、幼稚な理想主義者たちの菓子として作られた方便にすぎないと見る連中の一人だったのだ。私もまた、神学的パラダイスをこしらえて神の領地の管理人のような顔をして確信ありげに案内してまわる連中を見ると、何となくイライラした。無批判な神学者たちの虚しい狂信的な努力と思われるものに対しては、軽べつ以外の何ものをも感じなかったのである。

 それゆえ、もし私がこれらの事柄に関して多少異った風に考え始めたのなら、良い動機が私に与えられたのだ、と見て差支えない。しかしながら、私はまだ、東洋の如何なる教義にも、忠誠を献げるという段階には到っていなかった。実に、関係のある事柄は、知的にはすでにずっと前に学んでいた。私はついに、神を新たに容認するに到ったのである。これは大して意味のない、個人的な出来ごとと見えるかも知れないが、堅い事実と冷い理性に依存し宗教的なものへの情熱を欠く現世代の子供として、私はこれは大した業績だと思うのだ。この信仰は、懐疑主義者がそれを取り戻し得るであろうたった一つの方法によって取り戻された。議論によってではなく、圧倒的な経験の立証によって、である。しかも、私の思想にこの徹底的な変化を起させたのは一人の密林の賢者、かつて六年間、山中の洞くつに往んでいたという、少しも気取らない隠者であった。かれが大学入学試験をパスしないのは十分あり得ることだ。それでも私は、この書物の最後の章に、私のこの人に負うところの如何に深いかを記すことを恥としないのである。このような賢者たちが生まれているということは、知的な西洋人が注意を向けて当然であろうという、十分な信用状をインドに与えるものである。今は政治的動揺の嵐によって隠されてはいるけれど、秘められたインドの霊的生命は尚存在する。私は、われわれ、つまりもっと無価値な人間ともが物ほしげにあこがれている力と静けさを獲得した何人かの熟達者の、確実な記録を書こうと努力した。

 私はこの書物の中で他の事柄、不思議なことや怪奇なことの立証もした。いま、イギリスの片田舎のごくあたりまえの環境の中にすわり、インクのリボンを通してこの物語をタイプしていると、それらのことは信じられないような気もするのだ。ほんとうに、懐疑的な世の人々に読ませようとしてこんなものを書いている自分の無鉄砲さに驚いてしまう。しかし私は、現在この世界を支配している唯物的な思想がいつまでも続くとは信じない。すでに、来たるべき思想の変化の、予言的な徴候を認めることもできるのだ。だが、はっきりと言うけれど、私は奇跡は信じない。私と同じ世代の大方の人もそうだろう。しかし、自然の法則に関するわれわれの知識が不完全なものであるということは確信する。未探究の分野に進入しつつある進歩した科学の護衛兵たちがそれらの法則のあと幾つかを発見したあかつきには、われわれは奇跡に等しいことを行ない得る、ということは確実である。

第二章 探求への序奏

 地理の先生は長い先細の鞭をとって、大分あきあきした様子の生徒たちの前に下がっている大きな、ニスをぬったリネンの地図の上を動かす。かれは赤道のところにつけてある三角の赤いパッチを指し示し、明らかにたれている生徒たちの興味を刺激しようと、新たな努力をする。かれは細いもったいぶった声で、聖なるお告げても披露するような様子で始める――

 「インドは、大英帝国の王冠にちりばめられた宝石の中の最も輝かしいもの、と呼ばれてきました……」

 気難しい顔つきで半ば空想に包まれていた一人の少年はたちまちハッとわれに帰り、遥か彼方にとんで行ってしまっていた想像力を、この、かれの授業を続ける退屈な、レンガの壁に囲まれた建物の中に引き戻す。このインドという言葉がかれの鼓膜にひびくか、またはその風景が印刷物の紙面からかれの視神経に捉えられると、かれは知られざるものへの不思議な思いにスリルを感じるのだ。ある説明のできない思いの流れが、かれの前にくり返しインドという名を持って来るのである。

 数学の先生が、この生徒はいま代数の問題を解こうと努力しているのだ、と信じている時、かれはこの悪戯っ子が教室の机を隠れた目的に使っているのだ、ということを知らない。かれは手際よく並べた書物の陰で、ターバンを巻いた頭やうす黒い顔や、はしけから香料を積み込んでいる船舶などを急いでスケッチしているのである。

 少年時代は過ぎる。しかしこの、ヒンドゥスターンへの興味は少しも変らない。否、それはひろがって、全アジヤをその熱心な触角の範囲内に抱擁する。

 ときどき、かれはそこに行く無謀な計画を立てる。船で逃げるつもりなのだ。インドを一寸のぞいて来る、ということが本当に単なる冒険なのだろうか。それらの計画が無駄になった後にも、かれは学友たちに言葉巧みに話してきかせ、ついにその一人は、やすやすとかれの幼い情熱の犠牲になる。

 その後は、二人は黙って陰謀を企て、秘密に活動する。彼らはヨーロッパの顔を横ぎる冒険的徒歩旅行を計画するそれから小アジヤとアラビヤに入り、アデンの港まで行こうというのである。読者は、この長距離を歩こうという無邪気な大胆さを思ってお笑いになるだろう。彼らは、アデンで友好的な船長にあえるだろうと信じている。この船長は間違いなく、深切で思いやりのある人だ。彼らを自分の船に乗せてくれ、一週間後には彼らはインドの探検をはじめるであろう。

 この長い遠足の準備は速かにはかどる。金はまことに少しずつ集まる。そして、彼らが無邪気に探検家の装備であると考えている品々が秘かに集められる。地図や案内書が注意深く調べられ、色刷のさし絵や魅力的な写真は彼らの旅行熱を熱病のように高める。ついに彼らは、運命などは無視してこの国を出て行こうと考えている、その日を決めることができる。街角を曲った処に何があるか、誰が知ろう。

 彼らはその若々しいエネルギーをどこかで出し借しんだのかも知れないし、幼い時の楽観主義がまだどこかに残っていたのかも知れない。ある不幸な日に第二の少年の保護者がこの準備を発見し、事の詳細を間き出して厳しくいましめる。その結果である彼らのみじめさは述べるまでもない! 残念ながらこの計画は放棄される。

 インドを見たいという願望は決して、この不幸な遠柾の首謀者の心から消えはしない。しかしながら、成人の暁は他の興味と言う形の束縛をもたらし、義務という鎖でかれの脚を縛る。その願望は残念ながら、背後においておかなければならない。 

 時は次々に暦の頁をめぐって何年かがたち、ついにかれは思いがけなく一人の男にあう。この人はかれの古い大望に、一時的だが活き活きとした生命を与える。この見知らぬ人の顔は薄黒く、頭にはターバンを巻いてわり、かれは太陽に照らされたヒンドゥスターンの地から来ているのである。

        §

 私は、かれが私の人生に歩み入るその日の絵画を求めて過ぎた年月を見わたすべく、精妙な記憶の網をさっとひろげる。秋は急速にすぎて行こうとしている。あたりには霧が立ちこめてわり、刺すような寒気が肌にしみる。憂うつが、ひやっとする指でしつこく、私の弱っているハートを掴もうとしている。

 私は明るく火のともった一軒のカフェに入り、その暖かさという、借りものの慰めを求める。一ぱいの熱い茶――平素ならよく効くのだが――も落着きを取り戻すことはできない。私は自分を囲む重い空気を追放することができない。メランコリーが、彼女の暗い目的に私を奉仕させよう、と決めたのだ。黒いカーテンが、私のハートの入口をおおっている。

 私はこの不安にたえ切れず、ついにカフェから街の中に出る。あてもなく歩き出し、なれた道筋をたどって、やがて、行きつけの小さな書店の前に立っている自分を見出すそれは古びた建物であり、内に包蔵するのも、同様に古びた書物である。持主(悲しいかな! かれはすでに大地を去り、その店もかれと共に消え去った!)は奇妙な男、前世紀の生きた遺物である。このあくせくした時代はほとんどかれを必要としないが、かれもまた同様にこの時代を必要としてはいない。珍しい、人に知られていないことに詳しく、珍書や古書のみを扱っている。学問のわき道や、道を外れた事柄については、書物が与え得る限りの並々ならぬ知識をわがものとしている。私は時おりぶらりとこの古い店にやって来て、かれとそれらのことを話し合うのがすきなのだ。

 私は店に入ってかれに挨拶をする。しばらくの間、子牛の皮で製本された書物の黄ばんだページをめくったり、色あせた析りたたみ本を近々とのぞき込んだりしている。一冊の古びた書物が私の注意を惹く。ちょっと面白そうに思われるので、私はそれをもっと注意深く調べる。眼鏡をかけた店の主人は私の関心に眼をとめ、例によって、その書物の主題――輪廻――についての議論である、と自分が想像しているものをやり始める。

 老人はいつもの通り議論をひとり占めにする。かれはこの本の著者よりも詳しく、その馴みの無い学説の賛否両論について知っている様子で、長々としゃべる。このことについて述べている諸々の古典に精通しているのだ。

 突然、私は店の向うの隅に一人の男の動く気配をきき、ふりかえって、やや高価な書物のおいてある奥の小部屋を隠す暗がりから、一個の昔の高い人影が現れるのを見る。

 見なれぬ人はインド人だ。かれは貴族らしい身のこなしでわれわれの方に歩いて来、店の主人と向き合う。

 「わが友よ」と、かれは静かに言う、「邪魔することを許して下さい。君が話していた問題には私も非常に興味を持っているものだから、君の言うことを聞かずにはいられなかったのです。いま君は、人間はこの世にくり返し生まれ変って来るものだというこの思想を最初に述べている古典の著者たちの言葉を引用しておられる。あの哲学的なギリシア人や賢明なアフリカ人や初期のキリスト教の神父たちの中の心の深い人々はこの学説をよく理解していた、ということは私も認めます。しかし、この思想ははんとうはどこで生まれたのだと君は思いますか」

 かれは一瞬、間をおくけれど、返事を待ってはいない。

 「こう言うことを許して下さい」とかれは微笑しつつ続ける、「古代世界において転生説を最初に認めたのは誰か、ということになると、インドに行かなければなりません。それは遠い古代においてすでに、私の国の人々の間では主要な教義だったのです」

 話し手の顔は私をうっとりとさせる。それは並の顔ではない。百人のインド人の中ででも際立って立派に見えるだろう。力を内に秘めている――これが私の読みとったかれの性格である。見透すような眼、強じんなあご、および秀でた前額が、その容貌の特徴を形成している。皮膚は一般のインド人のそれより黒い。前面に輝く宝石を飾った立派なターバンをつけている。それ以外の全ては、見事に仕立てられたヨーロッパ風の服装である。

 かれの少しばかり教訓的な感じのするこの宣言は、カウンターの向うにいる老いた紳士には気にいらない。実際、それに対する強硬な反論が提出される。

 「どうしてそんなことがあり得ましょう――キリスト教以前の時代、東地中海の諸都市が文化と文明の中心として栄えていた時に? 古代の最高の知性はアテネやアレキサンドリヤを含むこの地域に生きていたのではありませんか。ですからたしかに、彼らの思想が南方にまた東方に伝えられて、ついにインドに達したのでしょう」と、懐疑的な発言が出る。

 インド人は寛大に微笑する。

 「そうではなかったのです。実際に起ったのは、君の主張とは全く反対の事実だったのです」

 「まあ! あなたは、進歩的な西洋がその哲学を遅れている東洋から受けなければならなかった、とまじめにおっしゃるのですか。そんなことはあり得ませんよ!」と本屋の主人は忠告する。

 「なぜあり得ないのですか。君の Apuleius をもう一度読んでご覧なさい。わが友よ、そして、ピタゴラスがインドに来てバラモンたちの教えを受けた経緯をお学びなさいそれから、かれがヨーロッパに帰った後に輪廻の学説を教えはじめたことに注目なさい。これははんの一例にすぎません。私は他の例も知っています。遅れた東洋という君の言葉をきくと可笑しくなりますよ。幾千年の昔、君たちの国の人々などはまだそんな問題があるということさえも知らなかった頃に、われわれの国の賢者たちは、最も深遠な問題を思索していたのです」

 かれはプツリと話をとめ、われわれをじっと見つめて、自分の言葉が相手の心に落着くのを待っている。本屋の主人は少々困惑しているらしい。私は、この老人がこんなに黙り込んだり、これほどはっきりと他者の知的権威に感銘を受けたことを見せたのを、かつて見たことがない。

 私は、この顧客の言葉に静かに耳を傾け、一言もさしはさもうとはしなかった。今やそこには会話の間の一つのしじまが生まれ、誰もがそのことに気づいたようで、敢えてそれを破ろうとはしない。間もなくインド人は不意に向きを変えて奥の小部屋に引込むが、一、二分のうちに、陳列相から選んでわいてあった高価な析りたたみ本を持って出て来る。かれはその代金を支払い、店を出る用意をする。かれは戸口まで行くが、その間私はふしぎそうな顔で、去り行くかれの姿をじっと見つめている。

 突然、かれはもう一度向きを変えて私に近づく。かれはポケットから紙入れを引き出し、名刺をとり出す。

 「あなたはこの話をもっと続けて見たいとお思いですか」とかれは尋ねる。私はびっくりする。しかし喜んで同意する。かれは私にその名刺を渡し、夕食に招待する。

        §

 日暮れに近く、私はあの見知らぬ人の家をたずねて出かける。厄介と言えないこともない仕事である。街に濃く垂れ込めた不愉快な霧の中を行かなければならないのだから芸術家なら、しばしばこの町をおおって灯火までも暗くするこの霧にちょっとしたロマンティックな美を見出すのかも知れない。だが私の心は近づく会見への思いで一ぱいで周囲の雰囲気に美も見出さなければ不快も感じない。

 突然眼前に現れた、堂々とした門によって私の旅は終るまるで挨拶をするように、二つの大きなランプが、鉄の腕がねによって差し出されている。家に入ると、私は喜ばしい驚きを感じる。このインド人はそのような素ぶりも見せなかったのだが、かれがこの独創的な内装に洗練された好みと莫大な金とを借しみなく注ぎ込んだことは、明らかである。................


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