スワミ・ヴィヴェーカーナンダによる
パタンジャリのヨーガ格言集注解

第二章 心の集中、それの実践


(21)経験されるものの性質は、彼のためである。

 自然は、それみずからの光は持っていない。プルシャがそれの中にいる間だけ、それは光として現れるのだ。しかしその光は、ちょうど月の光が反映であるように、借りものである。ヨーギーたちによると、自然のあらわれのすべては自然それ自体から生まれるものであるが、自然は、プルシャを解放する、ということ以外に目的は持っていない。

(22)目標に到達した人のためには破棄されるけれど、他者には共有のものであるから、それは破棄されない。

 自然の活動の全部は、魂をして、自分は自然からは完全にはなれたものである、ということを知らしめることである。魂がこれを知るとき、自然はもう、それに対して魅力を持たない。しかし自然全体は、自由を得たその人にとってのみ、消滅するのである。そこにはつねに、無限数の他の人びとがのこっており、彼らに対して、自然はなお、はたらきつづけるであろう。

 

(23)接合が、経験されるものとそれの主との両方の力の性質の、実現の原因である。

 この格言によると、魂と自然との両方の力が、それらが接合したときに現れるようになる。そのときに、すべての現れが放出される。無知が、この接合の原因である。われわれは毎日、自分の苦痛または快楽の原因はつねに、自分を肉体にむすびつけることである、ということを見ている。もし私が自分はこの肉体ではないということを完全に信じていたなら、あつさ、つめたさ、またはこの種のいかなることにも無関心でいるだろう。この肉体は結合物である。私は一個の肉体を、あなたは別個の、そして太陽も別個の体を持つ、というのは一つの虚構である。全宇宙は物質の一つの海、そしてあなたは一つの微粒子の名、私はもう一つの、太陽はさらにもう一つのそれなのである。この物質は不断に変化しつつある、ということをわれわれは知っている。ある日太陽を形成している物質が、翌日はわれわれのからだの物質をつくっているかもしれないのだ。

 

(24)無知がそれの原因である。

 無知のゆえに、われわれは自分を特定の体にむすびつけ、こうして自分を不幸にさらすことになったのだ。この肉体なる観念は、単なる迷信である。われわれを幸福にしたり不幸にしたりする迷信である。われわれにあつさ、つめたさ、苦痛と快楽を感じさせる無知から生まれた、迷信である。この迷信をのりこえるのがわれわれの仕事であり、ヨーギーは、どうしたらそれができるかをわれわれに示すのである。ある心理的条件のもとでは、人が火にやかれても苦痛を感じない、ということが実証された。問題は、この突然の心の高揚は旋風のように一分間、やってきて、つぎの瞬間には行ってしまう、ということである。しかしながらもし、それをヨーガによって得るなら、われわれは恒久的に「自己」を肉体からはなすことができるだろう。

 

(25)そこにそれ(無知)がなければ、さけるべきものである接合はない。それが、見る者の独立である。

 ヨーガの哲学にしたがえば、魂に自然がくっついたのは無知のせいである。目的は、われわれに対する自然の支配を、とり除くことである。それが、すべての宗教の目標である。それぞれの魂が内に神性をひめている。目標は、内部と外部の自然を制御することによって、この神性を内にあらわすことである。はたらきにより、または礼拝により、または心の制御により、または哲学により――これらの一つまたは二つ以上、または全部によって――このことをなせ、そして自由になれ。これが宗教のすべてである。教義、信条、または儀式、書物、寺院、神像は二義的なさまつ事にすぎない。ヨーギーは、心の制御によってこの目標に達しようとこころみる。われわれが自分を自然の支配から解放することができるまでは、われわれは奴隷である。彼女が命じるままに、動かなければならない。ヨーギーは、心を制御する者は物質をも支配する、と言う。内なる自然は外の自然よりはるかに高く、とりくむのがはるかにむづかしく、制御するのがはるかにむづかしい。それゆえ、内なる自然を征服した者は全宇宙を支配する。宇宙は、彼の召使いになる。ラージャ・ヨーガは、この支配力を得る方法を提議するのである。われわれが物質的自然界の中で知るのよりも高い力が、抑制されなければならないであろう。この肉体は、心の外がわのからにすぎない。これらは二つの別々のものではない。ちょうど、カキとその貝がらのようなものだ。一つのものの二つの面にすぎない。カキの内部の実質が外界から材料をとり、からをつくる。同様に、心とよばれる精妙な力が外部から粗大な材料をとりあげ、それから、この外がわのから、すなわち肉体をつくるのである。それだからもしわれわれが内なるものを制御することができれば、外がわを制御することは非常にたやすい。それからまた、これらの力は別々のものではない。ある力は肉体の力、ある力は心の力、というものではない。物質世界が精妙な世界の粗大なあらわれであるにすぎないのと同じように、肉体の力は精妙な力の、粗大なあらわれにすぎないのである。

 

(26)無知の破壊の手段は、識別の不断の実践である。

 これが、実践の真の目標である――すなわちプルシャは自然ではない、それは物質でも心でもない、そしてそれは自然ではないから変化することはあり得ない、と知って実在と非実在とを識別することである。不断に結合し、また結合し、分解しつつ変化するのは自然だけである。不断の実践によってわれわれが識別をはじめると、無知は消え、プルシャが、全知、全能、遍在という、それの真の性質をあらわしてかがやき出すであろう。

 

(27)彼の知識は、七重の最高の基盤からなる。

 この知識がくるとき、それはまるで七段階からなるように、一つ、また一つとやってくるであろう。そしてこれらの一つがはじまると、われわれは、自分は知識を得つつある、ということを知る。最初にはっきりするのは、自分は知るべきものを知った、ということだ。心の不満感はなくなるだろう。知識への渇望を感じている間は、われわれは、何らかの真理を獲得することができると思われるところをあちらこちらと探しはじめ、見いだすことができないと失望してあらたな方向をさぐる。知識は我ら自身の内にある、誰も我らを助けることはできない、われわれが自分を助けなければならないのだ、と知りはじめるまで、すべての探求は、無益である。われわれが識別の力をはたらかせはじめると、自分が真理に近づきつつあるという最初のしるしは、その不満状態がきえる、ということであろう。われわれは、自分は真理を見いだした、それは真理以外の何ものでもない、ということをはっきりと感じるであろう。そのときわれわれは、太陽は昇りつつある、自分にとっての夜明けがきつつある、と知るであろう。そして勇気をふるって、目標に達するまで不屈の努力をつづけなければならない。第二の段階は、すべての苦痛がなくなることであろう。内面のであれ、外界のであれ宇宙間のあらゆるものにとって、われわれに苦痛を与えることは不可能であろう。第三の段階は、完全な知識の獲得であろう。我々は全知となるであろう。第四の段階は、識別によってすべての義務が終了することであろう。つぎに、チッタの自由と呼ばれるものがくる。われわれは、ちょうど石が山のいただきから谷底までころがるように落下して、二度と上がってはこないようにすべての困難と苦闘、すべての心の動揺が落ち去るのを知るであろう。つぎは、われわれが欲すればいつでも、チッタがそれの原因の中に溶け去ってしまう、ということをチッタそれ自体がさとる、というものであろう。最後にはわれわれは、自分は自分の「自己」に定住している、ということをさとる。自分は宇宙間にただひとりであったのだ、肉体とも心とも関係はなく、ましてそれらに結びついてなどはいなかったのだ、ということをさとる。それらはそれら自身のはたらきをはたらいていたのであるのに、無知のゆえに、われわれは自分をそれらにむすびつけていたのだ。しかしわれわれはたったひとり、全能で、遍在で、つねに永遠に至福にみちていたのである。われわれの「自己」は実に浄らかでそして完全で、われわれは他の何ものも、必要とはしなかったのだ。自分を幸福にするために、他の何ものも、必要とはしなかったのである。なぜならわれわれが幸福そのものであるのだから。われわれは、この知識が他の何ものにも依存していないことを、見いだすであろう。全宇宙を通じて、われわれの知識の前に光りかがやいてこないものはひとつもあり得ない。これが最後の境地であって、ヨーギーは平安にみち、静かになり、もはや、いかなる苦痛も感じず、決してふたたびまどわされることはなく、決して不幸にあうことはない。自分はつねに永遠に至福にみち、完全であり、全能である、と知るであろう。

 

(28)ヨーガのさまざまの段階の実践によって不純性が破壊されると、知識が光り輝くようになって識別が可能となる。

 今度は、実践に関する知識がくる。われわれが今まで話していたのは、もっと非常に高遠なことである。それは、我々の頭上はるかに高いところにある。しかしそれは理想だ。まず第一に、肉体と心の制御ができなければならない。そのときに、理想の悟りは堅固なものになるだろう。理想が知られたら、残るものは、それに到達する方法を実践することである。

(29)ヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラーナーヤーマ、プラッティャーハーラ、ダーラナー、ディャーナ、およびサマーディは、ヨーガの八つの手足である。

 

(30)不殺生、誠実、不盗、禁欲および、ものをもらわぬこと、をヤマと言う。

 完全なヨーギーになろうと欲する者は、性の観念を捨てなければならない。魂は性を持たない。どうしてそれが、性の観念によって自分を堕落させることなどがあろうか。やがてわれわれは、このような観念は捨てられなければならないということをもっとよく理解するであろう。贈り物を受ける人の心は、与える人の心に左右される。それゆえ、受けとる者の心は堕落しやすい。贈り物を受けとることは、心の独立を破壊し、われわれを奴隷的にしがちである。それだから、贈り物を受けてはいけない。

 

(31)これらは、時、所、目的、および階級のおきてによって破られることのない、(普遍の)偉大な誓いである。

 これらの実践――不殺生、誠実、不盗、禁欲、および贈り物を受けないこと――は民族、国、または地域の如何にかかわらず、あらゆる人によって、あらゆる男、女、および子供によって実践されるべきものである。

 

(32)内を、そして外をきよめること、足るを知ること、苦行、勉学、および神の礼拝、がニヤマである。

 外の浄化は、肉体を清潔にたもつことである。不潔な人は決して、ヨーギーにはなれない。内も浄まっていなければならない。それは、第一章第三三句に挙げた諸徳によって得られる。もちろん、内なる浄らかさの方が外がわの浄らかさより大きな価値があるが、両方とも必要であり、内がわを欠いた外だけのきよらかさは、少しも価値がない。

 

(33)ヨーガのさまたげになる思いをふせぐためには、反対の思いをおこすことである。

 それは、すでにのべた諸徳を実践する、方法である。たとえば、大きな怒りの波が心におこったとき、それをどのように制御したらよいか。ただそれに反対する波をおこすのである。愛を思え。ときどき、ある母親が彼女の夫に対して大変に腹をたてている。そこに赤ん坊が入ってくると、彼女は赤ん坊にキスをする。古い波は消えて、新しい波が立つ、子供への愛である。それはもう一つをおさえる。愛は怒りの反対なのである。同様に、盗もうという思いがおこったら、不盗を思うべきである。おくりも贈り物を受けようという思いがわいたら、それを反対の思いと置きかえるべきである。

 

(34)ヨーガの妨害は殺生、いつわり、等々である――それを自分で行なっても人にさせても、またはそれに賛成しても、貪欲のゆえであっても怒りのためであっても、無知のゆえであっても、小さなことであっても中くらいのことであっても大きなことであっても――。そしてそれらは、かぎりない無知と不幸におわる。これが、反対を思う、(という方法)である。

 もし私がうそをつくか、人にうそをつかせるか、または他人のうそを是認するかするなら、それは同等に罪深いことである。たとえそれが軽いうそであっても、それでもそれはうそである。あらゆる悪い思いは、はねかえってくるだろう。あなたがほら穴の中で思ったかもしれない思いさえもことごとく、たくわえられて、いつかは、何かの不幸という形をとって、すごい力であなたのところにかえってくるであろう。もしあなたが憎しみや嫉妬を放射するなら、それらは複利とともに、あなたのところにもどってくるであろう。どんな力も、それらをかわすことはできない。あなたがひとたびそれらを放射したら、あなたはそれらに耐えなければならないのだ。このことをおぼえていれば、悪いことはできないだろう。

 

(35)不殺生が定着すれば、その人の前では、(他者の内にある)すべての敵意は消滅するだろう。

 もし人が、他者をきずつけない、という理想に到達するなら、彼の前では猛獣さえも、おだやかになるだろう。そのヨーギーの前では、トラと子羊とが仲よく遊ぶだろう。あなたがその状態になったとき、そのときにはじめて、あなたは自分が他者をきずつけない境地に定住したことを、さとるだろう。

 

(36)誠実の境地に定住すると、そのヨーギーは、彼自身および他者のために、あるはたらきをしないでそのはたらきの果実を手に入れる力を、獲得する。

 この誠実の力があなたに定着すると、そのときには、たとえ夢の中ででも、あなたは決して、うそは語らないだろう。あなたは、思い、言葉および行為において、誠実であるだろう。あなたが言うことは全て真実となる。あなたがある人に、「さいわいであれ」と言う。するとその人はさいわいであるだろう。ある人が病んでいて、そしてあなたが彼に、「汝いやされよ」と言ったとする。彼はただちにいやされるだろう。

 

(37)不盗の境地に定住すると、すべての富がそのヨーギーのもとにくる。

 あなたが自然から、より遠くとび去ればとび去るほど、彼女はより近くあなたについてくる。そしてもしあなたが彼女をまったく気にとめなければ、彼女はあなたの奴隷になる。

 

(38)純潔の確立によって、エネルギーが得られる。

 純潔な頭脳は、すさまじいエネルギーと、巨人的な意志の力を持つ。純潔を欠いたら、そこには霊性の力はない。禁欲は、人類へのおどろくべき支配力を与える。人びとの霊的指導者たちは、非常に純潔であった。そしてこれが彼らに力を与えたのである。それゆえ、ヨーギーは純潔でなければならない。

(39)彼が贈り物をうけとらぬ境地に定着したとき、彼は過去生の記憶を思いだす。

 人が贈り物を受けないとき、彼は他者のせわにはならず、独立かつ自由の境遇にいつづける。彼の心はきよらかになる。あらゆる贈り物とともに、彼は贈り手の悪をうけとりがちである。もし受けとらなければ、心はきよまり、それが獲得する最初の力は過去生の記憶である。そのときにはじめて、そのヨーギーは彼の理想に完全に集中することができるようになるのだ。彼は自分が何回も来たり行ったりしてきたのを見る。それで、今度こそは自由になろう、もう、来たり行ったりして「自然」の奴隷にはなるまい、と決意するのである。

 

(40)内と外の浄らかさが確立すると自分の肉体への嫌悪が生じ、他者との接触もなくなる。

 肉体の内外両面が真に浄らかになると、肉体を無視するようになり、それを感じの良い状態に保とう、という思いも消える。他の人びとが最高に美しいという顔も、もしそれの背後に知性がないなら、そのヨーギーには単なるけものとしか見えないだろう。世間がごく普通の顔とよぶ顔を、もしその背後に霊が輝いているなら、彼はそれをこうごうしいと見る。肉体へのこの渇望は、人生の大きな障害である。それゆえ、浄らかさの確立の第一の徴候は、あなたが自分を肉体であるなどとは思いもしない、ということだ。われわれはきよらかになって初めて肉体観念を脱却するのである。

 

(41)そこにはまた、サットワ、心の快活さ、集中、諸器官の克服、および「自己」実現への適性が生まれる。

 浄らかさの実践によって、サットワの要素が優勢となり、心は集中し快活になる。あなたが宗教的になりつつあることの第一のしるしは、快活になっている、ということである。人が陰気である場合には、それは消化不良かもしれないが、宗教ではない。よろこばしい感情が、サットワの性質である。サートウィカな人にとってはあらゆるものが楽しく、そうなったらあなたは、ヨーガにおいて進歩しつつあると思ってよろしい。すべての苦痛はタマスからくる。それだからあなたは、それを追いはらわなければいけない。不機嫌は、タマスの結果の一つである。強い人びとと、がっしりとした人びと、若い人びと、健康な人びとと、大胆な人びとだけが、ヨーギーとなるに適しているのだ。ヨーギーにとってはあらゆるものが至福であり、彼が見るすべての人は、彼を快活にする。それが、有徳の人のしるしである。不幸は罪が原因でやってくるのであって、他のものからはこない。あなたは暗い顔になんの用事があるか。それはおそろしい。もしあなたが暗い顔をしているなら、その日は外は出ず、自室にとじこもっていよ。こんな病を世間に持ちこむ、何の権利があなたにあるのか。心が完全に支配されるようになったとき、あなたは全身を支配し得るようになる。あなたはこの機械の奴隷なのではなく、機械が、あなたの奴隷なのである。この機械が魂をひきずりおろすことができる代わりに、それが最大の助手となるのである。

 

(42)足るを知る境地からは、最高の幸福が生まれる。

(43)苦行の結果は、不純性をのぞくことによって諸器官と肉体にさまざまの力をもたらす、というものである。

 苦行の結果は、ただちに見られる、ときにはヴィジョンの力の増大とか、遠くでおこったものごとをきく等々によって。

 

(44)マントラのくり返しによって、めざす祭神の悟りが得られる。

 あなたが悟ろうとする存在の程度が高ければ高いほど、修行は難しい。

 

(45)いっさいをイーシュワラに献げることによって、サマーディがくる。

 主へのまったき帰依によって、サマーディは完全になる。

 

(46)姿勢は、確固とした、そして快適なものである。

 今度は、アーサナ、姿勢がくる。確固とした座を得ることができるまで、あなたは呼吸法およびその他の修行を実践することはできない。座の安定とは、あなたがまったく肉体を感じない、ということである。普通のすわり方であれば、あなたが数分間すわるやいなや、あらゆる種類の動乱が肉体におこるだろう。しかしあなたが具体的な肉体の観念を超越すれば、すべての肉体感覚をうしなうだろう。快感も苦痛も感じないだろう。そしてふたたび肉体をとり上げたとき、肉体は十分に休息したことを感じるだろう。それが、あなたが肉体に与えることのできる、唯一の完全な休息である。あなたが肉体を征服してそれを確固とした状態に保つことに成功したとき、あなたの修行は確固としたものでありつづけるだろう。しかしあなたが肉体によってかき乱される間は、あなたの神経はかき乱され、あなたは心を集中することはできない。

 

(47)(落ち着きのない)自然の傾向を減らし、無限なるものを瞑想することによって、姿勢は安定し、快適になる。

 われわれは、無限なるものを思うことによって、座を安定させることができる。われわれは「絶対無限なるもの」を思うことはできない。しかし無限なる空を思うことはできる。

 

(48)座が征服されたら、二元性がじゃまをすることはない。

 二元性、つまり善と悪、熱さと冷たさのような、すべての対立するものの存在はそのとき、あなたを動揺させないであろう。

 

(49)呼気と吸気のうごきの制御はこのあとにつづく。

 姿勢が征服されたら、それから、プラーナの運動が途切らされ、制御されるべきである。このようにして、われわれはプラーナーヤーマ、すなわち肉体の活力の制御をはじめるのだ。プラーナは通常呼吸と翻訳されているけれど、そうではない。それは、宇宙エネルギーの総計である。それは、おのおののからだの中にあるエネルギーであり、それのもっとも明らかな現れは、肺の活動である。このうごきは、いきをすいこむプラーナによっておこる。そしてそれが、われわれがプラーナーヤーマにおいて制御しようと求めているものである。われわれは、プラーナの制御をするもっともたやすい方法として、呼吸の制御からはじめるのである。

 

(50)それの調節は外のか、内のか、不動であるか、場所と、時と、数と、長いか短いかによって規正される。

 三種類の、プラーナーヤーマの動きがある。いきをすいこむ動き、もう一つはそれをはき出すもの、そして三番目の動作は、いきが肺の中に保たれるとき、または肺に入るのをとめられるときのものである。これらはまた、場所と時間がさまざまである。場所というのは、プラーナが肉体のある特定の場所にとどめられること、時というのはプラーナをある場所にはどのくらいの長さとどめおくべきであるか、ということであって、したがってわれわれは、一つの動きは何秒間、もう一つの動きは何秒間つづけるべきか、ということをおしえられる。このプラーナーヤーマの結果はウッドガータ、すなわちクンダリニーの目覚めである。

 

(51)第四は、内または外の対象を熟考することによる、プラーナの抑制である。

 これは第四の種類のプラーナーヤーマであって、それは、他の三つには見られない、熟考を伴う長い実践によって、クンバカをもたらす。

 

(52)それから、チッタの光のおおいは、うすめられる。

 チッタはそれ自身の性質として、すべての知識を持っている。それはサットワの微粒子でできているのだが、ラジャスとタマスの微粒子でおおわれており、プラーナーヤーマによってこのおおいは、のぞかれる。

 

(53)心はダーラナにふさわしくなる。

 このおおいがのぞかれると、われわれは心を集中することができる。

 

(54)諸器官を内にひっこめる、ということは、それらが、それらの対象をすてて、いわば心という形をとる、ということである。

 諸器官は、心の別個の状態である。私は一冊の書物を見る。それの形は書物の中にあるのではない。それは心の中にある。その形をよび出す何ものかが外にある。真の形はチッタの中にあるのだ。諸器官は、何であれ彼らの前にくるものを自分と同一視し、それの形をとる。もしあなたが心を抑制してこれらの形をとらせないようにするなら、心は静けさを失わないだろう。これが、プラッティャーハーラとよばれるものである。

 

(55)そこから、諸器官の最高の制御が生まれる。

 ヨーギーが、諸器官が外界の対象の形をとることをとめることに成功し、それらを心と同一のままであらしめることに成功すると、そのとき、諸器官の完全な制御ができるようになる。諸器官が完全に支配下に入ると、あらゆる筋肉と神経が支配下に入るだろう。なぜなら、諸器官はすべての感覚とすべての活動の中心なのだから。これらの器官は、はたらきの器官と感覚の器官とにわかれている。諸器官が制御されると、そのヨーギーは、すべての感情と行為を制御することができる。全身が、彼の支配下にくる。そのときに初めて、人は生まれたことに喜びを感じはじめる。そのとき人は心から、「生まれてきてしあわせであった」と言うことができる。この諸器官の制御ができるようになると、われわれは、この肉体は実はどれほどすばらしいものであるか、ということを感じるのである。

 


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