スワミ・ヴィヴェーカーナンダによる
パタンジャリのヨーガ格言集注解

第1章 心の集中、それの霊的効用

(1)さて、心の集中の説明である。

(2)ヨーガは、心(チッタ Citta)がさまざまの形(ヴリッティ(ス)vrttis)をとるのを抑制することである。

 ここでは、実にたくさんの説明が必要である。われわれは、チッタは何であるか、そしてヴリッティは何であるか、を理解しなければならない。私は目を持つ。目は見ない。あたまの中にある脳の中心をとり去ってみよ。目はなおそこにあり、網膜は完全で対象物の絵もそこにうつっているが、目は見ないであろう。それゆえ目は知覚の器官ではなく、補助的な道具にすぎない。視覚の器官は、脳の神経中枢にあるのだ。二つの目では十分ではない。ときどき、人は目をあけたままで眠っている。光はそこにあり、絵もそこにある。しかし第三のものが必要である――心が、器官につながらなければならないのである。目はそとの道具である。われわれは、脳の中枢と心のはたらきを必要とする。馬車が街路をはしっているのにあなたはその音をきかない。なぜか。あなたの心がそれ自身を聴覚器官にくっつけていないからである。第一に、そこに道具、それから器官があって、三番目にこれら二つにつながる心があるのだ。心は印象をさらに内へとつれて行き、それを決定する――反応する――能力、ブッディBuddhi につれて行く。この反応とともに、エゴイズムの観念がひらめく。それから、この動と反動の混合が、プルシャに提供される。それは、この混合の中で対象を認識する、真の魂である。諸器官(インドリヤ(ス))は、心(マナス)、決定する能力(ブッディ)およびエゴイズム(アハンカーラ)とともに、アンタッカラナ(うちなる道具)とよばれるグループを構成している。それは、チッタとよばれる心の中でおこるさまざまの過程にほかならない。チッタの中の思いの波は、ヴリッティ(字義は「うずまき」)とよばれる。思いは何であるか。引力または斥力とおなじように一つの力である。自然の中の、力の無限の倉庫から、チッタとよばれる道具がそのいくらかをとってそれを吸収し、思いとしてそれをおくり出すのである。力は食物を通してわれわれに供給され、その食物から、肉体は運動その他の力を得るのだ。他の力、もっと精妙な力を、それはわれわれが思いとよぶもので放出する。それだからわれわれは、心は知能のあるものではない、ということを知る。それでもそれは、知能があるように見える。なぜか、知能のある魂がその背後にいるからだ。あなたが唯一の有情の存在なのであって、心は単に、あなたがそれによって、そとの世界をとらえる道具にすぎないのである。この書物の場合を考えてみよ。書物として、それはそとに存在するのではない。そとにあるものは、知られていないし、知ることはできないのだ。不可知のものが、心にある打撃を与えるところの暗示を提供する。すると心が、書物という形で反応を示すのだ。ちょうど小石が水中になげいれられると、それに対して水が波という形でなげかえされるのと同じように。ほんとうの宇宙は、心の反応の誘因である。書物の形、ゾウの形、または人の形はそとにあるのではない。われわれが知るすべてのものは、そとの暗示からのわれわれの心の反応である。「物質は、感覚の永遠の可能性である」と、ジョン・スチュアート・ミルは言った。そとにあるのは暗示だけである。例として真珠貝をとり上げよう。あなたは、真珠はどのようにしてできるか、ご存じだろう。貝の中に異物がはいって不快を感じるのでカキが一種のエナメル様のものでそれをつつみ、これが真珠となるのである。経験の宇宙はいわばわれわれ自身のエナメル、真の宇宙は、核としてはたらいている異物である。ふつうの人間は決して、これを理解はしないだろう。それをしようとするとエナメルを放出し、彼自身のエナメルしか見ないから。いまは、われわれはこれらのヴリッティは何であるかということを理解した。真の人は心の背後にある。心は彼の手中の道具である。心を通じてしみ出してくるのは彼の知能なのである。あなたが心の背後に立ってはじめて、それは知能のあるものとなるのである。人がそれをすてるとき、それはこなごなになって何もなくなる。これでみなさんは、チッタとは何であるか、理解なさったであろう。それは心である。そしてヴリッティは、そとからの原因がそれにつきあたったときにその中に立つ大波小波である。これらのヴリッティが、われわれの宇宙なのである。

 みずうみの底を、われわれは見ることができない、水面がさざ波でおおわれているから。波がひき、水面が静かになったときにのみ、水底をチラと見ることができるのだ。水がにごっていたり始終うごいていたりするなら、底は見えないだろう。水が澄んでいてしずかであると、底が見えるのだ。みずうみの底は、われわれの真の「自己」である。みずうみはチッタ、そして波はヴリッティである。また、心は三つの状態になる。その一つはタマスとよばれるやみの状態で、けものやおろか者の中に見いだされる。それの活動はきずつけることだけである。その状態の心には、他の想念はうかばない。それから、活動的な状態、ラジャスがある。それのおもな動機は、力と快楽である。「私は強力になって他者を支配しよう」というのだ。それから、サットワという状態がある。すんだおだやかさ、しずけさであって、そこでは波はしずまり、心のみずうみの水は透明になる。それは無活動ではなく、むしろ強烈に活動的である。しずかである、ということは、力の最大の表明なのである。活動的であることはやさしい。たづなをゆるめよ、すると馬はあなたをつれて走り出してしまうだろう。それは誰にでもできるが、とび出そうとする馬をとめることのできるのは、つよい男である。行かせるのとひきとめるのと、どちらにより大きな力がいるか。しずかな人は、にぶい人ではない。サットワをにぶさや怠惰とまちがえてはいけない。しずかな人は、心の波を制御することのできる人である。活動はよりひくい力の、しずけさはよりすぐれた力のあらわれである。

 チッタはつねに、その本来の、きよらかな状態にもどろうとしているのだが、もろもろの器官が、それをひき出すのだ。それを抑制し、この外にむかう傾向をひきとめ、それを知能の本質へと帰路につかせるのが、ヨーガの第一歩である。なぜならこうしてはじめて、チッタはその正しいコースにつくことができるのだから。

 チッタは最高から最低にいたるあらゆる動物の中にあるけれど、われわれがそれを知力として見いだすのは、人の形の中だけである。心が知力という形をとることができるまでは、それがこれらすべての段階を経てもどり、そして魂を解放することは、不可能である。牝牛や犬も心は持っているが、彼らのチッタはまだ、われわれが知力とよぶあの形はとることができていないから、彼らにとって、いますぐにすくわれることは不可能である。

 チッタはそれみずからを、つぎのような形であらわす――ちらす、くらくする、あつめる、一点になる、および集中した、という形である。ちらす形は、活動である。それの傾向は、快楽、または苦痛という形であらわれるものだ。くらくする形はにぶさであって、きずつける傾向がある。第三の形はデーヴァたち、すなわち天使たちの性質であって、第一と第二はデモンたちの性質である、と注釈者は言う。あつめる形は、それがみずからを中心におこうと苦闘している形である。一点になった形は、それが集中しようとつとめているときであり、集中した形は、われわれをサマーディにみちびくものである。

(3)そのとき(集中したとき)、見る者(プルシャ)は、彼自身の(変えられていない)状態におちついている。

 波がとまって、みずうみがしずかになるや否や、われわれはそれの底を見る。心の場合もそれとおなじこと、それがしずかなときには、われわれは自分の性質が何であるかを見る。自分をまぜることはせず、自分のままでいる。

(4)他のとき(集中したとき以外のとき)には、見る者は、変化したものを自分だと思う。

 たとえば、誰かが私をとがめる。これは私の心に変化、すなわちヴリッティを生みだし、私はそれを自分だ、と思う。その結果は不幸である。

(5)五種類の変化がある、苦痛にみちているものと、苦痛のないものとである。

(6)(これらは)正しい知識、無差別、ことばのまどわし、眠りおよび記憶である。

(7)直接の知覚、推理および十分な証拠が、証明である。

 われわれの知覚の二つがたがいに矛盾しないとき、われわれはそれを証拠とよぶ。私が何かをきき、もしそれがすでに知覚されたものと矛盾するなら、私はそれを徹底的にしりぞけることをはじめ、それを信じない。そこにまた、三種類の証明がある。直接の知覚、プラッティャクシャ。もしそこに感覚をあざむく何ものもなければ、われわれが見かつ感じるものは何であれ、証明である。私は世界を見る、それは、それが存在するという、十分な証明である。第二に、アヌマーナ、推理、あなたはあるしるしを見る、そしてそのしるしから、それが示しているものに到達するのだ。第三に、アープタワーキャ、ヨーギーたちの、つまり真理を見た人たちの、直接の証明である。われわれはみな、知識にむかって苦闘している。しかしみなさんや私は推理という長い、単調で退屈な過程をへて知識にいたるのだが、ヨーギー、すなわち純粋な人は、このすべてをこえてしまっている。彼の心の前には、過去、現在および未来は同様のもの、彼にとっては読むべき一冊の書物である。彼はわれわれのように、知識を得るために単調で退屈な過程をへることを必要としない。彼のことばが証明である。彼は知識を、彼自身のうちにみるのだから。これらが、たとえば、聖典の著者たちなのである。それだから聖典は、証拠なのである。もしそのような人がいま生きているなら、彼らのことばは証拠となるだろう。他の哲学者たちはアープタワーキャについて長い論争にはいり、そして彼らは言う、「彼らのことばの証拠は何であるか」と。証拠は彼らの直接の知覚である。なぜなら、もしそれが過去のどの知識とも矛盾しなければ、私が見るものすべては証拠であり、あなたの見るものすべては証拠であるのだから。ここに感覚をこえた知識があり、それが理性および過去の人間の経験と矛盾しない場合にはつねに、その知識は証拠である。狂人がこの部屋にはいってきて、自分は周囲に天使たちを見る、と言うことがあるかもしれないが、それは証拠ではないだろう。まず第一に、それは真の知識でなければならない。第二に、それは過去の知識と矛盾してはならない。そして第三には、それはそれを発表する人の性格を見て判断されなければならない。その人の性格の如何は彼が言うことの内容ほど重要ではない、と言われるのを、私はきいた。われわれはまず、彼の言うことに耳をかたむけるべきだ、これは、他の場合には真実かもしれない。悪人でも、天文学上の発見をすることはあるだろう。しかし宗教では、それはことなる。なぜなら、不純な人は決して、真理に達する力を持つことはできないのだから。それゆえ、われわれは第一に、自分はアープタであると断言する人は完全に非利己的できよらかな人であることを、第二には彼が感覚を超越していることを、そして第三には、彼の言うことが人類の過去の知識と矛盾しないことを、たしかめなければならない。真理のいかなる新発見も、過去の真理とは矛盾せず、それと調和するものである。そして第四に、その真理はたしかめることのできるものでなければならない。もしある人が、「私はヴィジョンを見た」と言い、しかも私に、お前はそれを見る権利はない、と言うなら、私は彼を信じない。各人が、自分でそれを見る力を持っていなければならないのである。彼の知識を売る者は決して、アープタではない。つぎの条件のすべてがみたされていなければならない。あなたは第一に、その人が純粋であることを、そして彼が利己的な動機を持っていないことを、ものや名声をほしがっていないことを、たしかめなればならない。第二には、彼は自分が通常の意識をこえていることを、示さなければならない。われわれの感覚からは得られない、しかも世のためになるあるものを、われわれに与えなければならない。第三には、われわれは、それが他のもろもろの真理と矛盾しないことを、たしかめなければならない。もしそれが他の科学的真理と矛盾するなら、それをただちにしりぞけよ。第四には、人は決して、特異なものであってはならない。ただ、すべての人びとが到達できるものの代表であるべきだ。そこで、三つの証拠がある――直接の感覚の知覚、推理、およびアープタのことばである。私はこのことばを英語には訳すことができない。それは、"inspired"(霊感をうけた)という意味ではない。インスピレーションは外からくるものと信じられているのに、この知識はその人自身からくるのであるから。文字の意味は、「到達した」である。

(8)無差別は、真の性質にもとづいていない、うその知識である。

 つぎに生じるヴリッティの種類は、真珠の母貝の一片を銀の一片と思うように、あるものを別のものととりちがえることである。

(9)ことばのまどわしは、(それとむすびつく)真実性を持たないことばから、でてくる。

 ヴィカルパという、ヴリッティのもうひとつの種類がある。ひとつのことばが話される、すると私は、慎重にその意味を考えることをせずに、ただちに結論にとびついてしまう。それは、チッタのよわさのしるしである。ここで、みなさんは抑制の理論を理解することができるだろう。人がよわければよわいほど、その抑制の力もよわいのだ。そのテストによって、つねに自分を検査せよ。あなたが腹を立てそうになったり不幸になろうとしたら、やってきたある知らせがあなたの心をヴリッティになげこもうとするのはどういうわけか、ということを理性的に解明せよ。

(10)眠りは、空虚という感じをふくむ、ひとつのヴリッティである。

 ヴリッティのつぎの種類は、眠り、および夢とよばれるものである。目がさめたときわれわれは、自分はねむっていた、ということを知っている。われわれは知覚の記憶だけを持っているのだ。知覚しないものの記憶は、決して持つことはできない。あらゆる反応は、みずうみの中の波である。さて、もしねむっているときには心に波が立たないのなら、心は積極的にせよ消極的にせよ、知覚をしないのだから、したがってわれわれは、それらをおぼえてはいないだろう。われわれが眠りを記憶している、という事実がそのまま、睡眠中にも心の中にはある種の波が立っていた、という証拠である。記憶はスムリティとよばれる、ヴリッティのもうひとつの種類である。

(11)記憶は、知覚された主体(のヴリッティ)が去ってしまわない(で、印象によって意識にもどってくる)ときである。

 記憶は、直接の知覚、うその知識、ことばの上のまどわし、および眠りからくる。たとえば、あなたはあることばをきく。そのことばは、チッタというみずうみになげこめられた一個の石のようなものである。それは一つの波をたて、その波が一連のさざなみをおこす。これが記憶である。眠りの中でもおなじこと。眠りとよばれる独特の種類のさざなみが、チッタに記憶のさざなみをおこすと、それが夢とよばれるのだ。夢は、目のさめた状態の中で記憶と呼ばれているさざなみの、もう一つの形である。

(12)それらの制御は、実践(修行)と無執着とよっておこなわれる。

 心は、無執着であるためには、透明で、善良で、そして理性的でなければならない。われわれはなぜ制御をすべきなのか。なぜなら、一つ一つの活動はみずうみの表面でふるえている振動のようなものである。振動がきえると何がのこるか。サムスカーラ(ス)、印象である。多数のこのような印象が心にのこされると、それらは合体して一つの習慣となる。「習慣は第二の性質」といわれているが、それは第一の性質でもあり、また、人の全性質でもあるのだ。われわれがあるところのいっさいのものは、習慣の結果である。そのことは、われわれになぐさめを与える。なぜなら、習慣にすぎないならわれわれはいつでも、それをつくることもこわすこともできるのだから。サムスカーラ(ス)は、われわれの心を通りすぎるこれらの振動によってのこされる。それらの一つ一つが、それの結果をのこして行くのだ。われわれの性格は、これらのしるしの総計であり、その中で優位を占める波動が、それの傾向となる。もし善が優位であれば人は善良となり、悪が優勢ならわるくなり、もし喜びにみちていれば、幸福になるのだ。わるい習慣の唯一の矯正法は反対の習慣である。あとに印象をのこしたすべてのわるい習慣は、良い習慣によって制御されるべきである。よい行いをしつづけ、たえず浄らかな思いを思え。それが、いやしい印象をおさえつける唯一の方法である。誰であれ、決して見こみがないなどと言ってはいけない。彼はただ一つの性格、ひとたばの習慣をあらわしているだけであり、それらの習慣は新しいものとかえることができるのだから。性格は、くりかえされた習慣であり、くりかえされた習慣のみが、性格をかえることができるのである。

(13)それら(ヴリッティ)を完全に抑制された状態にたもとうとする、不断の奮闘努力が修行(実践)である。

 修行とは何か。心を、チッタの形に抑制しようと、つまりそれが波立つことをとめようと、する努力である。

(14)それは、(到達すべき目標への)深い愛をこめておこなわれる長い、不断の努力によって、しっかりと根づいたものになる。

 抑制は一日ではだめであるが、長い、不断の修行によって、やってくる。

(15)見えたりきこえたりする対象への渇望をすてた人びとのところにやってくる、そして対象を支配しようと決意する、その結果は、無執着である。

 われわれの活動の二つの動機力は、(1)われわれみずからが見るもの、(2)他者の経験である。これら二つの力が心、すなわちみずうみにさまざまの波を立てるのだ。放棄は、これらの力とたたかい、心をしっかりとおさえつける力である。それらの放棄が、われわれの欲するものである。私が街路をあるいている、すると一人の男がきて、私の時計をうばい去る。それは私自身の経験である。私はそれを見、それはただちに、私のチッタに怒りという形の波をたてる。それがくるのをゆるすな。もしあなたにそれをふせぐことができるなら、あなたはヴァイラーギャ(離欲)を得ているのだ。また、世俗的な心の人びとの経験はわれわれに、感覚の楽しみが最高の理想であるとおしえる。これらはおそろしい誘惑である。それらをしりぞけ、それらによって心が波だつことをゆるさないのが、放棄である。私自身の経験と他者の経験から生じる二重の動機力を制御して、チッタがそれらに支配されるのをふせぐのが、ヴァイラーギャである。これらは私に支配されるべきであって、私が彼らに支配されてはならない。この種の心の力を、放棄とよぶのである。離欲(ヴァイラーギャ)は解脱への唯一の道である。

(16)それは、性質さえもすてる、極度の無執着である。それは、プルシャ(の真の性質)の知識から生まれる。

 それが、われわれが性質にひきつけられる力さえとり去るとき、それは、ヴァイラーギャの力の最高のあらわれである。われわれは第一に、プルシャ、すなわち「自己」とは何か、そして性質とは何か、を理解しなければならない。ヨーガ哲学によると、自然界の全部は、三つの性質、すなわち力からなりたっている。一つはタマス、もう一つはラジャス、三番目はサットワとよばれる。これら三つの性質が、闇または無活動、引力または斥力、および二者の均衡、として自然界にみずからをあらわしている。自然界にあるすべてのもの、すべてのあらわれは、これら三つの力の結合および再結合である。自然界は、サーンキャ哲学者たちによってさまざまの範疇に分けられた。人の「自己」は、これらすべてを、すなわち自然界を、超越している。それは光りかがやき、きよらかで、完全である。われわれが自然の中に見る、知性と見えるものはすべて、この「自己」の、自然界への反映にすぎない。自然みずからは、生気のない(非情の)ものである。みなさんは、自然ということばは心もふくんでいる、ということをおぼえていなければならない。心は自然の一部なのだ。思いは自然の中にある。思いから、物質のもっとも粗大な形にいたるまで、いっさいは自然の中にある、自然のあらわれである。この自然が人の「自己」をおおっているのであって、自然がおおいをとり去ると、自己はそれみずからの栄光をもってあらわれる。無執着は、格言(15)に(対象物すなわち自然の制御であると)のべられているように、「自己」をあらわすための最大のたすけである。つぎの格言はサマーディ、すなわちヨーギーの目標である完全な集中を、定義する。

(17)ただしい知識とよばれる集中は、それに推理、識別、至福、絶対のエゴイズムがつづく、ものである。

 サマーディは、二種類にわけられる。一つはサムプラグニャータと、そしてもう一つはアサムプラグニャータとよばれる。サムプラグニャータ・サマーディの中では、自然を支配するすべての力が得られる。それは四種類からなる。第一の種類はサヴィタルカとよばれ、心が一つの対象を、他の対象から切りはなしてくり返しくり返し瞑想するときのものである。サーンキャ哲学の説く二十五のカテゴリーの中には、二種類の瞑想の対象がある。(1)自然界の二十四の非情のカテゴリーと、(2)ひとつの有情のプルシャである。ヨーガのこの部分は、まったくサーンキャ哲学にもとづいている。それについては私はすでに、みなさんにおはなしした。おぼえておられると思うが、エゴイズムと意志と心は、共通の基礎を持っている。チッタ、すなわち心であって、彼らはすべて、それからつくられているのである。心は自然の力をとりいれ、そしてそれらを思いとして放射する。またそこには、力と物質とがひとつであるところの何ものかが、なければならない。これがアッヴィャクタとよばれるもの、創造以前の、外にあらわれない状態であって、一つの周期がおわって後に、自然の全部はそこに帰り、別の一時期の後に、ふたたび出てくるのである。それを超越して、プルシャがある。知性の本質である。知識は力であって、あるものを知りはじめるやいなや、われわれはそれに対して力を持つ。同様に、さまざまの要素を瞑想しはじめると、心はそれらに対して力を得る。外界の粗大の要素を対象とするそのような瞑想を、サヴィタルカと言う。ヴィタルカは問い、サヴィタルカは問いをもって、という意味、いわば、要素を瞑想する者にそれらがみずからの真実をあかし力を与えるだろうか、と要素に問いかける、という意味である。力を得ても解脱は得られない。それは快楽をもとめる世俗的な探求であって、この人生に快楽はない。快楽の探求はすべてむだである。それは、人が容易には理解することのできない、古い古い教訓である。それを理解したら、彼は宇宙を脱出して自由になるのだ。オカルト・パワーというものを持つと、世間が強烈になり、ついには苦痛が強烈になるだけである。一科学者としてではあるが、パタンジャリはかならず、この科学の可能性を指摘しなければならないのであるが、彼は決して、これらの力に対してわれわれに警告する機会をのがすようなことはしない。

 また、まさにおなじ瞑想の中で、瞑想者が要素を時間と空間のそとにとり出し、彼らのあるがままを思おうと努力するとき、それはニルヴィタルカ、問いのない、とよばれる。その瞑想が一歩高くすすみ、タンマートラ(ス)をその対象としてとり、それらを時間と空間の中にあるものとして思うとき、それはサビチャーラ、識別をもって、とよばれる。そしておなじ瞑想の中で瞑想者が時間と空間をのぞき、あるがままの精妙な要素を思うとき、それはニルヴィチャーラ、識別をしない、とよばれる。つぎの段階は、粗大および精妙両方の要素がすてられ、瞑想の対象が内なる器官、すなわち思う器官であるときである。思う器官が活動性および惰性という性質をとり去られた状態で思われるとき、そのときはそれは、サーナンダ、至福にみちたサマーディとよばれる。心自体が瞑想の対象であるとき、瞑想が非常に熟して集中したとき、粗大な、そして精妙な、物質のすべての観念がすてられたとき、「エゴ」のサットワの状態だけが、他のすべての対象からは区別されて、のこったとき、それはサースミター・サマーディとよばれる。この状態に達した人は、ヴェーダの中で、「肉体を失った」とよばれている状態に達したのである。彼は自分を、粗大な体(肉体)を持たないものと思うことができる。しかし彼は、自分は精妙な体(幽体)を持つ、とは思わなければならないだろう。目標には達せず、この状態で自然に融合する魂たちは、プラクリティラヤとよばれる。しかし、そこにさえもとどまらない者たちは、目標、すなわち解脱に達するのだ。

(18)心のすべての活動をとめる、不断の修行によって得られる、もう一つのサマーディがある。そこではチッタは、あらわれない印象のみを保持するのだ。

 これは完全な超意識的アサンプラグニャータ・サマーディ、われわれに解脱を与える状態である。第一の状態は、われわれに解脱は与えない、魂を解放はしない。人はあらゆる力を獲得するかもしれないが、それでもふたたびおちる。魂が自然を超越するまでは、安全ではない。その方法はやさしいように思われるが、それをするのはたいそうむつかしい。方法は、心それ自身を瞑想し、思いがおこるやいなやそれをのぞき、いかなる思いが心に入ることもゆるさず、こうしてそれを完全な真空状態にするのである。ほんとうにこれをすることができたとき、まさにその瞬間に、われわれは解脱をとげるであろう。訓練も受けていず、用意もできていない人びとが心を真空にしようとすると、彼らはおおかた、自分をタマスでおおうことに成功するだけである。タマスは無知の材料であって、心を不活発に、そして遅鈍にし、彼らをして、自分は心をからっぽにしている、と考えさせる。ほんとうにそれをすることができるということは、最大の力を、最高の支配力を、示すということなのである。人がこの状態、アサンプラグニャータ、すなわち超越意識に達すると、サマーディは種なしになる。それはどういう意味か。そこには意識があり、心はチッタの中の波をしずめてそれらをおさえつけることができているだけだ、という集中状態の場合には、波は傾向という形でのこっている。これらの傾向または種子はときがくると、ふたたび波になる。しかしあなたがこれらすべての傾向をも破壊し、心をほとんど破壊してしまったとき、そのときにはサマーディは種なしになる。心の中にはもはや、それからくり返しこの生という植物を、このやむことない輪廻転生を、生み出す種子はないのである。

 みなさんは、そこには心がない、知識がない、というのはどんな状態か、ときくだろう。われわれが知識とよぶのは、知識をこえた状態よりひくい状態である。みなさんはつねに、両極端はたいそうよく似ている、ということをおぼえていなければならない。もし、エーテルの非常にひくい波動がやみととられるなら、中くらいの状態は光、非常にたかい波動はふたたびやみであろう。同様に、無知は最低状態、知識は中くらいの状態、そして知識をこえたところに最高の状態があり、その両極端はおなじと思われるだろう。知識それ自体はつくられたあるもの、一つの結合である。それは実在ではない。

 この、より高い集中の不断の修行の結果は何であるか。おちつきのなさと不活発という、すべての古い傾向が、それらと同時に善の傾向もまた、破壊されるであろう。そのことは、黄金からごみやまぜものをとり去る場合と似ている。鉱石が精錬されるとき、うきかすは化学物質といっしょにもやされるのだ。そのようにこの不断の制御力が、すでにある悪い傾向をとめるであろうし、またついにはよい傾向をも、とめるであろう。これら善悪両方の傾向が相互を抑制し、そのどちらにも拘束されない、遍在で全能、かつ全知の魂をたったひとり、それみずからの光輝の中にのこすであろう。そのとき、その人は、自分は生まれたこともなければ死んだこともない、天も地も必要とはしないのだ、ということを、知るであろう。自分はきたこともなければ行ったこともない、うごいていたのは自然であった、そしてそのうごきが魂にうつっていたのだ、ということを知るであろう。ガラスによって反射された光の形がかべの上をうごくと、かべはおろかにも自分がうごいていると思う。われわれすべてもそのようなものだ。チッタがつねに、自分をさまざまの形にしてうごいているのであり、われわれが、自分がこれらさまざまの形である、と思うのである。これらすべての妄想はきえるであろう。かの自由な魂が命令すれば――祈ったり懇願したりするのではない、命令するのだ――そのとき、「それ」が欲することは何であれ、ただちに成就するであろう。欲することは何であれ、「それ」はおこなうことができるのだ。サーンキャ哲学によれば、神はない。それはつぎのように言う、「この宇宙の神は、存在するはずはない、なぜなら、もし神があるとしたら、彼は一個の魂でなければならない。そして魂は、しばられているか自由であるかの、どちらかでなければならない。どうして、自然にしばられたり、自然に支配されたりしている魂が、創造することなどができよう。それは、それみずからが奴隷である。他方、どうして自由な「魂」が、これらすべてのものを創造したりあやつったりするか。それは願望を持たない。それだから創造の必要を感じるはずがない」と。第二に、それは言う、「神という理論は不必要なものだ。自然がいっさいを説明する。神というものが何の役に立とう」と。しかしカピラはつぎのようにおしえている、ほとんど完成したのだけれど、すべての力を完全にすてることができないために失敗する、多くの魂たちがある。彼らの心はしばらくのあいだ自然にとけこみ、やがてそれの主としてふたたびそこからあらわれ出る。そのような神々があるのだ。われわれはみな、そのような神々になるであろう。そしてサーンキャ哲学者たちにしたがえば、ヴェーダの中に出てくる神は実は、これらの自由な魂たちの一つである。これらをこえて一つでも、永遠に自由でめぐまれた宇宙の創造者が存在するわけではない。他方で、ヨーギーたちは言う、「そうではない。一個の神が存在する。他のすべての魂たちとは別に、一個の魂が存在する。そして彼は、永遠に自由なすべての師たちの師、すべての創造の永遠の主である」と。ヨーギーたちは、サーンキャ哲学者たちが「自然にとけこんだ魂たち」とよぶものも存在する、とみとめる。彼らは完成に失敗したヨーギーたちであって、しばらくのあいだはゴールに達することができないではいるけれど、宇宙の一部分の支配者ではあり得ているのである。

(19)(このサマーディは、それに極度の無執着がともなわない場合には)神々の、そしてふたたび自然にとけこむものたちの、再現の原因となる。

 インドの哲学体系の中での神々は、さまざまの魂たちによってつぎつぎに占められる、高い公職のようなものである。しかし彼らのひとりとして、完全な者はいない。

(20)他の者たちのところには、(このサマーディは)信仰、エネルギー、記憶、集中、および実在の識別によって、やってくる。

 これらは、神々の地位を、周期の支配者の地位さえも、のぞまない魂たちである。彼等は解脱をとげる。

(21)極度に精力的な魂たちの場合、成功はすみやかである。

(22)ヨーギーたちの成功は、彼らのとる態度がゆるやかなものであるか、中くらいのものであるか、強烈なものであるか、によってきまる。

(23)またはイーシュワラへの信仰によっても。

(24)イーシュワラ(至高の支配者)は特別のプルシャであって、不幸とも、活動とも、活動の結果とも、そして欲望とも無関係である。

 われわれはふたたび、パータンジャラ・ヨーガ哲学はサーンキャ哲学にもとづいている、ということを思い出さなければならない。ただ、後者には神の観念はないが、ヨーギーたちは神をみとめている。ヨーギーたちは、しかしながら、神について、たとえば創造をするというようないろいろなことは言っていない。ヨーギーたちのイーシュワラは、宇宙の創造者ではない。ヴェーダによれば、イーシュワラは宇宙の創造者である。そこには調和があるから、それは一つの意志の現れであるにちがいないのだ。ヨーギーたちも一個の神を設定する。しかし彼らは、彼ら特有な形で、「彼」に到達するのである。彼らは言う――

(25)他の者たちの中では胚芽である(にすぎない)あの全知が、「彼」の中では無限になる。

 心はつねに、両極端の間をうごかなければならない。あなたは有限の空間を考えることができる。しかしまさにその観念があなたに、無限の空間をも与えるのだ。目をとじて小さな空間を考えてみよ。そのサークルをみとめると同時に、あなたはそれのまわりに無限次元の一つのサークルを持つであろう。時間についてもおなじこと、一秒を考えてみよ。おなじ認識行為をもって、無限の時間を思わざるを得ないであろう。知識についてもおなじことである。人の持つ知識は胚芽にすぎない。しかしあなたはそれのまわりに、無限の知識を思わずにはいられないだろう。まさにわれわれの心の構造そのものが、無限の知識があることをわれわれに示しているのだ。そしてヨーギーたちはその無限の知識を神とよんでいる。

(26)彼は時の限定をうけていないから、古代の教師たちさえもの、「教師」である。

 すべての知識はわれわれ自身のうちにある、ということは事実だ。しかしこれは、もう一つの知識によってよび出されなければならない。知る能力はわれわれのうちにあるけれど、それはよび出されなければならないし、知識のそのよび出しはもう一つの知識によってのみ、なされ得るのだ、と、あるヨーギーは主張する。死んだ、非情の物質は決して、知識はよび出さない。知識を表現させるのは知識の行為である。われわれのうちにあるものをよび出すには、知っている存在たちがわれわれとともにいなければならない。それだからこのような教師たちはつねに必要であった。世界は決して彼らを欠くことはなかったし、いかなる知識も彼らなしにくることはできないのである。神は、教師たちの「教師」である。なぜならこれらの教師たちはどれほど偉大であったとしても――神々または天使たち――すべてしばられており時によって限定されていたが、神はそうではないのだから。ヨーギーたちは、二つの独特の推論をする。その第一は、限定されたものを考える場合、心は無限者を考えないわけには行かない、というものと、そしてもしその認識の一部分が真実なら、他の部分も同様であるにちがいない、心の認識としての彼らの価値は同等なのだから、というものである。人が少しばかりの知識を持つというまさにその事実が、神が無限の知識を持つことを、示しているのだ。もし私が一つをとるべきなら、もう一つをとるべきは当然ではないか。理性は私に両方をすてるか、または両方をとるかを強要する。もし私が、少しの知識を持つ人がいると信じるなら、彼の背後には無限の知識を持つ誰かがいる、ということもみとめなければならない。第二の推論は、いかなる知識も教師なしには来ることはあり得ない、というものである。現代の哲学者たちが言うように、人の中には彼から展開する何ものかがある、というのは事実だ。すべての知識は彼のうちにある。しかし、それをよび出すにはある環境が必要である。教師たちがいなければ、われわれはいかなる知識も見いだすことはできない。もし人びとである教師たち、神である教師たち、または天使である教師たちがいても、彼らはすべて限定されている。彼らの前に誰が教師であったか。われわれは最後の結論として、時の限定を受けないひとりの教師をみとめざるを得ない。はじめもおわりもない、無限知を持つ、その「ひとりの教師」が、神とよばれるのである。

(27)「彼」のあらわれたことばは、オームである。

 あなたが持つあらゆる観念は、それにあたることばを持っている。ことばと思いとは不可分である。同一事物の外がわの部分を、われわれはことばとよぶのだ。そして内がわの部分が、われわれが思いとよぶものである。誰も、分析によって思いをことばから離すことはできない。ことばは人びとによってつくられた――ある人びとが集まってことばをきめたのだ――という考えはあやまりである、ということが証明された。人が存在するかぎり、ことばはあったのだ。ある観念とことばとのつながりは何であるか。われわれは思いには必ずことばがなければならないのを見るけれど、必ずしも、おなじ思いはおなじことばを要求する、というわけではない。二十のさまざまの国において、思いはおなじであってもことばは違うのだ。われわれは、それぞれの思いを表現する一つのことばを持たなければならないが、これらのことばは必ずおなじ音でなければならぬ、というものではない。音は国々によってちがうだろう。われわれの注釈者たちは言う、「思いとことばの関係は完全に自然なものであるけれど、一つの音と一つの思いとの間にうごかすべからざるむすびつきがある、というわけではない」と。これらの音はさまざまにことなる。しかし音と思いとの関係は自然なものである。思いと音とのむすびつきは、もし意味されるものとシンボルとの間に真のむすびつきがある時のみ、よいのである。そうでなければ、そのシンボルは決して一般には用いられないだろう。シンボルとは意味されるものの表示者である。もし意味されるものがすでに一つの存在であって、経験によってわれわれがこのシンボルはあのものをたびたび表現している、と知るなら、彼らの間には真の関係がある、ということは確実である。たとえそこにものがなくても、それらのシンボルによってそれらを知っている人は、たくさんいるだろう。シンボルとそれが意味するものとの間には自然なつながりがあるにちがいない。それゆえ、そのシンボルが発音されると、あらわされているものが思い出されるのだ。注釈者は言う、神をあらわすことばはオームである、と。なぜ彼はこのことばを強調するのか。神をあらわす言葉は幾百とある。一つの思いは千のことばとむすびついている。神なる観念は、幾百のことばとつながっており、それぞれのことばが神のシンボルとして立っているのだ。結構だ。しかし、これらすべてのことばの中に、一つの総合が、ある基盤が、これらすべてのシンボルに共通のある基礎がなければならず、またその共通のシンボルであるものは最善のもので、ほんとうにそれらすべてを代表するものでなければならない。音を出す場合にはわれわれは、共鳴盤として喉頭と口蓋をつかう。他のすべての音はそれのあらわれである、という、もっとも自然な音であるという、本質的な音があるか。オーム Om (Aum) が、そのような音、すべての音の根底である。最初の文字Aは、舌にも口蓋にもまったくふれることなく発せられる、根本的な音、キーである。Mはくちびるをとじて発せられるのだから、この連続の最後の音を示し、Uは、口中の音響盤の根元からおわりのところまでころがって行く。このように、オームは音の発生の全現象を代表しているのだ。そういうわけだから、それはことなるすべての音の自然なシンボルであり、母体であるにちがいない。それは、つくられ得ることばのすべてとその可能性を示している。このような推論とは別にわれわれは、このオームということばのまわりにはインドのさまざまの宗教思想の、すべてが集まっているのを見る。ヴェーダのさまざまの宗教思想のすべてが、このことば、オームのまわりに集まっているのだ。こんなことがアメリカ、イギリス、その他の国々にと何の関係があるだろうか。要するにこうである、インドではこのことばが、宗教の成長のあらゆる段階においてまもられてき、神についてのさまざまの観念のすべてをあらわすよう、配慮されてきたのだ。一元論者、二元論者、分離主義者、そして無神論者までが、このオームはとり上げた。オームは、人類大多数の宗教的渇仰心のための、唯一のシンボルとなったのである。たとえば、Godという英語をとり上げてみよ。それは限られたはらきだけを意味しており、それをこえようとすると、人格神とか超人格神とか絶対神とかいうように、形容詞をくわえなければならない。他の国々の神ということばの場合もおなじこと、それらの意味はごく小さい。このオームということばは、それの周囲にさまざまの意味を持っている。それだから誰もがうけいれることができるのである。

(28)これ(オーム)をくりかえし、それの意味を瞑想すること(が道である)

 なぜくりかえさなければならないのか。われわれはサムスカーラの説をわすれてはいない。もろもろの印象の総計は心の中に生きている、というのだ。それらは次第に潜在的にはなるが、しかしそこに存続しており、しかるべき刺激をうけるや否や、おもてにあらわれる。分子の振動は決してやむことはない。この宇宙が破壊されると、すべての大きな振動はやむ。太陽、月、星々、および地球はとけてしまう。しかし振動は、原子の中にのこっている。おのおのの原子が、もろもろの大きな世界とおなじはたらきをしている。それだからチッタの振動がやんでいるときにもそれの分子の活動はつづいていて、衝撃をうけるや否や、ふたたびあらわれるのだ。われわれはいまは、くりかえしとは何であるか、よくわかる。それは霊的サムスカーラに与えられ得る、最大の刺激である。「聖者と一瞬間ともにいると、この人生の大海をよぎるための船がつくれる」交際 association の力はこれほどのものである。それだから、このオームのくりかえしとその意味を思うことは、あなたの心中によいつきあい仲間をつくるのだ。学べ、それから学んだことを瞑想せよ。こうすれば、光がやってくるだろう。「自己」があらわれるだろう。

 しかし人は、オームとそれの意味について考えなければならない。わるい仲間とはつきあうな。なぜならあなたのうちには古いきずのあとがあり、わるい交際はまさに、それらをよびだすはたらきをするものなのだから。同様にわれわれは、よいまじわりはわれわれのうちに存在する、潜在的になっている、よい印象をよび出す、ときかされている。この世によい交わりを保つ以上にきよらかなことはない、それによってよい印象が表面によび出されるのだから。

(29)それによって、内観 introspection (の知識)と、障害物の破壊が得られる。

 オームをくり返し、それを思うことの最初のあらわれは、内観的な力がますますあらわれ、心と肉体のすべての障害が消えはじめる、ということである。何が、ヨーギーにとって障害であるのか。

(30)病気、心の怠惰、うたがい、情熱の欠如、無気力、感覚的快楽への執着、まちがった認識、心の集中の不能、および達し得た境地からの脱落、などが、じゃまをする障害である。

 「病気」、この肉体はわれわれを人生の海のむこう岸までつれてゆくボートである。それは大切にされなければならない。不健康な人びとはヨーギーにはなれない。「心の怠惰」はわれわれをして、対象へのいきいきとした興味のすべてをうしなわせる。その興味がなければ、修行をしようという意欲もエネルギーも生まれないだろう。たとえどんなに知的確信がつよくても、遠くできくとか見るとかするようなある特別の心霊的な経験をするまでは、科学上の真理については心中に「うたがい」がおこるだろう。このような瞥見は心をつよめ、学習者を忍耐づよくする。「脱落する」……獲得したときに。修行中、何日間か何週間、心はしずかで、たやすく集中するだろう。それであなたは、自分は急速に進歩しつつあると思うだろう。ある日突然、進歩がとまり、あなたはまるで、自分が座礁したかのように思うだろう。忍耐せよ。すべての進歩は、このような起伏の形をとってすすむのである。

(31)悲しみ、心のなやみ、身体のふるえ、不規則な呼吸があると、集中をつづけることができない。

 集中は、それが実践されればかならず、心と身体に完全な休息をもたらす。実践のやり方がまちがっていたり十分に制御されていなかったりすると、このような障害がくる。オームのくり返しと主への完全な帰依が心をきよくし、新しいエネルギーをもたらす。神経の動揺は、ほとんど誰にでもやってくる。決してそれらを気にせず、ただ実践をつづけよ。実践がそれらをいやし、座を堅固なものとするであろう。

(32)これをいやすには、一つの対象の実践(がなされるべきである)。

 心をしてしばらくの間一つの対象の形をとらしめること、それが、これらの障害を破壊するであろう。これが一般的な助言である。あとにつづく格言(複数)の中では、それが拡張され、詳説されるであろう。一つの修行法が誰にでも合う、というわけではないから、さまざまの方法が提出されるであろう。そして各人が実際の経験を通じて、自分に最もよく合うものを見いだすであろう。

(33)友情、慈悲、喜ぶこと、および無関心がそれぞれに、幸福な、不幸な、よい、そしてわるい対象に関して思われれば、チッタをしずめる。

 われわれはこれら四種類の想念を持たなければならない。すべての人に対しては、友情をもつべきだ。不幸である人びとに対しては慈悲深くなければならない。人びとが幸福であるときには、われわれは幸福であるべきだ。そしてわるい人びとに対しては、われわれは無関心でなければならない。われわれの前にやってくるすべての対象に対しても同様である。もし対象がよいものであれば、われわれは好意的に感じるであろう。もし思いの対象が不幸なものであれば、それに対し、慈悲深くなければならない。もしそれが良いものであれば、われわれは喜ばなければならない。それが悪いものであればわれわれは無関心でなければならない。心の前にやってくるさまざまの対象に対する、心のこのような態度は、それを平安にするであろう。日常生活の中でのわれわれの困難の大部分は、自分の心をこのようにたもつことができないところからくる。たとえば、もしある男がわれわれにわるいことをすれば、われわれはただちに、悪を与えかえそうとする。そして悪の反動はことごとく、われわれはチッタを抑制することができない、ということを証明する。それは波の形で対象の方に向かい、われわれは自分の力をうしなうのだ。にくしみまたは悪の形の反動はすべて、心にとって実に大きな損失である。そしてあらゆるわるい思い、またはにくしみの行為は、あるいはいかなる反動の思いであれ、もしそれが制御されるなら、それはわれわれのためになるようにたくわえられるだろう。このように自分をおさえたからといって、われわれはうしなうわけではない。自分の想像以上に無限にもっと多く、得ているのである。にくしみ、またはいかりの感情をおさえるということは、実に多くのよいエネルギーが自分のためにたくわえられるということなのである。エネルギーのその部分は、もっと高い力にかえられるであろう。

(34)いき(呼吸)をはき出し、そしてとめることによって。

 つかわれていることばはプラーナである。プラーナは正確には呼吸を意味することばではない。それは宇宙にあるエネルギーの名である。宇宙間にあなたが見るすべてのもの、うごき、またははたらき、または生命を持つものは、このプラーナのあらわれである。宇宙に表現されているエネルギーの総量が、プラーナとよばれているのである。このプラーナは、一つの周期がはじまる前にはほとんど不動の状態にある。そして周期がはじまると、このプラーナがそれ自身をあらわしはじめるのだ。運動として――人間またはけものの内部の神経の活動として――あらわれるのはプラーナである。またおなじプラーナが思いとして、およびその他のものとしてあらわれているのだ。全宇宙は、プラーナとアーカーシャの結合である。人間の身体もそうである。アーカーシャから、あなたが感じたり見たりするさまざまの物質は得られる。そしてプラーナから、さまざまの力のすべては得られるのである。さて、この、プラーナをはき出し、そしてとめるのが、プラーナーヤーマとよばれるものである。ヨーガ哲学の父パタンジャリは、プラーナーヤーマについてはあまりくわしい指示は与えていないが、のちに他のヨーギーたちがこのプラーナーヤーマについてさまざまのことを発見し、それから偉大な科学をつくった。パタンジャリの場合には、それはさまざまの方法の中の一つにすぎず、彼はそれをあまり強調してはいない。ただ空気をはき出し、すいこみ、そしてそれをしばらく保持する、それだけ、それで心はすこししずかになる、と言っている。しかし後に、これから、プラーナーヤーマという特別の科学が生まれたのが見られるであろう。ここですこしばかり、後世のヨーギーたちが言うところをきこう。

 このことのいくらかは、私はすでにみなさんにはなした。しかしすこしくり返した方が理解しやすいだろう。第一にみなさんは、このプラーナは「いき」ではなく、呼吸の運動をおこさせるものである、呼吸の活力なるものが、プラーナなのである、ということを思い出さなければならない。また、プラーナということばはすべての感覚につかわれているのである、それらはすべて、プラーナとよばれる。心はプラーナとよばれる。それだからわれわれは、プラーナは力だ、ということを知る。それでも、われわれはそれを力とよぶことはできない。力はそれのあらわれであるにすぎないのだから。それは、運動という形でみずからを、力および他のいっさいのものとしてあらわすところの、ものである。チッタ、すなわち心は、周囲からプラーナを内にひっぱりこみ、プラーナからさまざまの活力――身体を維持しつづける活力――と思いと意志と他のすべての力をつくり出す、エンジンである。右にのべた呼吸の方法によって、われわれは体内のさまざまのうごきと、からだ中をながれているさまざまの神経のながれのすべてを、支配することができる。まず最初に、われわれはそれらを認識はじめ、それから徐々に、それらを支配するようになるのだ。

 さて、これら後世のヨーギーたちは、人体の中にはこのプラーナの三つの主要なながれがある、と考えている。彼らは一つをイダー、もう一つをピンガラー、そして三番目をスシュムナーとよんでいる。彼らによると、ピンガラーは脊椎の右側に、イダーは左側にあり、脊柱の中央にはスシュムナーという、からっぽの通路が通っている。彼らによると、イダーとピンガラーはあらゆる人の中にはたらいているながれであって、これらのながれを通じて、われわれは生命のすべてのはたらきをおこなっている。スシュムナーはすべての人の中に可能性として存在しているが、それはヨーギーの中でだけ、はたらいている。みなさんは、ヨーガは身体をかえる、ということをおぼえていなければならない。実践をつづけて行くうちに、あなたの身体はかわる。それは、実践の前にあなたが持っていたのとおなじ身体ではない。それは非常に論理的であって、説明することができる。なぜならわれわれが思うあらゆる新しい思いはいわば、頭脳を通る新しい通路をつくらなければならないのであって、人間の性質の膨大なたくわえは、それによって可能なのであるから。人間の性質は、すでにそこにできているわだちの中を走ることをこのむ。なぜならその方がらくだから。もし、ただ例をあげるために、心は針のようなもので頭脳の要素はそれの前におかれたやわらかいかたまりである、と考えるなら、われわれが思うそれぞれの思いが言わば、頭脳の中に通路をつくり、この通路は、もし、やってきて路線をひらいたままにしておくように線模様をつくる灰白質がなかったなら、ふさがってしまうだろう。もしそこに灰色質がなかったなら、記憶はないだろう。記憶は言わば、ある思いをたどりつつこれらの古い通路を通ることなのであるから。さてみなさんはつぎのことに気づかれたであろう。人がある主題についてはなすとき、その中に誰にもなじみふかい観念をとり上げてそれをいろいろにくみあわせるなら、その通路はすでに誰の頭脳にもあり、ただそれを思い出せばよいのだから理解はたやすいであろう。しかし新しい主題がくれば必ず、新しい通路がつくられなければならない。だから、すぐに理解されるというわけには行かない。それだから頭脳(それは頭脳であって、人びと自身ではない)は無意識のうちに、新しい観念にはたらきかけられることをこばむ。それは抵抗する。プラーナは新しい通路をつくろうとし、頭脳はそれをゆるさないのだ。これが、保存 conservation の秘密である。頭脳の中に通路が少なければ少ないほど、プラーナの針がつくった通路が少なければ少ないほど、頭脳はより保守的であろうし、よりはげしく、新しい思いには抵抗するであろう。思いがゆたかな人ほど、彼の頭脳の中の通路はこみいっており、もっとたやすく、彼は新しい思いがすきになり、それらを理解するであろう。そのようにしてわれわれは、あらゆる新しい想念とともに頭脳の中に新しい印象をつくり、脳の要素に新しい通路をひらく。それだからヨーガの実習には、(それはまったく新しい、一組の思いと動機であるから)最初は大きな肉体の抵抗が見られるのである。それだから、宗教においても人の性質の世間的傾向をとり挙げる部分がひろくうけいれられ、人のうちなる性質をあつかう他の部分、哲学、心理学などは実にしばしばおろそかにされるのである。

 われわれは、われわれのこの世界の定義を、覚えていなければならない。それは、意識という領域に投影された「無限の存在」、にすぎないのである。無限者のほんの少しが意識の中に投影され、それをわれわれが、わが世界とよんでいるのだ。それだから、それのかなたに無限なるものがある。そして宗教は、両方をあつかうべきなのである――われわれがわが世界とよんでいる小さなかたまりと、そしてそのかなたなる無限者と。どんな宗教でも、この二つのうちのどれか一つだけをあつかっているものは不完全であろう。宗教は両方をとりあげていなければならない。無限者の、意識の領域に入ってきた言わば意識の領域、すなわち時間、空間および因果律というおりの中にとじこめられた部分、をあつかうたぐいの宗教は、われわれになじみが深い。われわれはすでにそれの中におり、この世界に関する想念は有史以前からいだいてきたのだから。かなたなる無限者をあつかうたぐいの宗教は、われわれにとってまったく新しく、それについての観念を得るということは、全組織を動揺させて頭脳中に新しい通路をつくる、ということである。それだから、ヨーガの実習の場合、最初はふつうの人びとには常軌を逸するのが見られるのだ。このような混乱をできるかぎり少なくするよう、パタンジャリがこれらの方法を工夫したのだ。われわれはその中の、自分にもっともふさわしいものを実践すればよい。

(35)感覚の非凡なはたらきをもたらすところのそれらの集中形式は、心の忍耐力を生む。

 これは、ダーラナー、すなわち精神集中から自然にやってくる。ヨーギーたちは言う、もし心が鼻の先端に集中されれば、人は数日後に、すばらしい香りをかぎはじめる、と。もし心が舌の根に集中されるなら、音をききはじめる。もし舌の先ならすばらしい風味を味わいはじめる。舌のまん中なら、まるで何かと接触したように感じる。人が自分の心を口蓋に集中するなら、その人はふしぎなものを見はじめる。もし心の混乱している人が、ヨーガのこれらの行法のどれかをとりあげたいと思いつつまだそれが本当かどうかをうたがっていても、少しの実践ののちにこれらのことを経験するなら、彼はうたがいをはらすだろう。そして彼は、忍耐づよくなるだろう。

(36)または、すべての悲しみをこえる、「まばゆいばかりの光明」(の瞑想によって)。

 これはもう一つの種類の集中法である。花弁はうつむき、スシュムナーがそれを貫通している、ハートの蓮華を思え。いきをすいこめ、そしていきをはき出しながら、蓮華がむきをかえて花弁が上をむく、そして蓮華のうちはまばゆく光りかがやく、と想像せよ。それを瞑想せよ。

(37)または、感覚対象へのすべての執着をすてたハート(の瞑想によって)。

 あなたが尊敬するある高徳の人、ある偉大な人、あなたが完全に無執着だと知っている聖者をとりあげて彼のハートを思え。そのハートは無執着になっている。そしてそのハートを思え。それは心をしずめるだろう。もしあなたにそれができなければ、つぎの方法がある。

(38)または睡眠中にくる知識を瞑想することによって。

 ときどき人は、天使が自分のところにきて話をするのを見たとか、自分が恍惚状態にあるとか、空中にひびく音楽をきいたとかいう夢を見る。そのような夢の中では彼は至福の状態にあるので、目がさめたときには深い印象をうけている。その夢を現実のこととして思い、それを瞑想せよ。もしそれができなければ、何でもよい、自分がよろこびを感じる神聖なものを瞑想せよ。

(39)または何であれ、よいものとして自分にうったえるものの瞑想によって。

 これは決して、悪い主題をさしているのではなく、何であれあなたがこのむよいもの、どこであれあなたが最もこのむ場所、何であれあなたが最も好む風景、何であれあなたが最もこのむ想念、何であれ心を集中させるもの。

(40)ヨーギーの心はこのように瞑想して、原子から無限者にいたるものへの集中を、さまたげられないようになる。

 心は、この実践によって、最も小さなものも最も大きなものも同様に、たやすく黙想するようになる。こうして、心の波はよりかすかになる。

(41)そのヴリッティ(ス)がこうして無力になった(制御された)ヨーギーは、(さまざまの色の対象の前におかれた)水晶のように、うける者、うけること(の道具)、およびうけられるもの、(「自己」、心、および外界の対象)が集中して同一になる。

 この不断の瞑想の結果として何が生まれるか。前にでた一つの格言の中でパタンジャリが、さまざまの形の瞑想、第一は粗大なものの、第二は精妙なもの、そしてそれからさらにすすんでもっとも精妙な対象の瞑想の状態を説明していたことを思いださなければならない。これらの瞑想の結果われわれは、粗大な対象も精妙な対象もおなじようにたやすく、瞑想できるようになる。ここでそのヨーギーは、三つのもの、すなわち受けとる者、受けられるものおよび受けとる道具――それぞれが「魂」、外界の対象、および心にあたる――を見る。われわれに、三つの瞑想の対象が与えられている。第一は、肉体または物質的対象のような粗大なもの、第二は、心すなわちチッタのような精妙なもの、そして第三は、限定されたプルシャ、プルシャそのものではなく、エゴイズムである。実践によって、ヨーギーはこれらの瞑想のすべてに定住するようになる。瞑想するときにはかならず、他のすべての思いをしりぞけることができ、彼の瞑想の対象とひとつになる。瞑想するときには、彼は一片の水晶のようである。花の前では、その水晶は花とほとんどおなじ色になるだろう。花が赤ければ水晶は赤く見え、花が青ければ水晶も青く見えるのだ。

(42)音、意味、およびそこから生まれる知識が、まじりあって問いのあるサマーディ(とよばれる)。

 音はここでは、それをつたえる神経のながれである振動をさす。そして知識は、反応のことである。いままでにのべたさまざまの瞑想のすべてを、パタンジャリはサヴィタルカ(問いのある瞑想)とよんでいる。のちにしだいに、彼はもっと高いディャーナ(ス)(瞑想)をわれわれに示すのである。「問いのある」とよばれるこれらの瞑想の中ではわれわれは、ことばと意味と知識のまじりあいから生まれる、主体と客体の二元性を保持している。そこには第一に、外界の振動すなわちことばがある。これが感覚のながれによって内にはこばれると、その意味である。そのあとでチッタの中に反応の波があらわれ、それが知識である。しかし、これら三つの混合が、われわれが知識とよぶものを形成しているのだ。ここまでにいたるすべての瞑想の中では、われわれはこの混合を、瞑想の対象としているのである。つぎのサマーディはもっと高いものだ。

(43)「問いのない」とよばれるサマーディは、記憶がきよめられたときに、すなわち(瞑想される対象の)意味だけがあらわれていて性質がまったくなくなったときに(くる)。

 これらの三つがまじらない状態にわれわれが到達するのは、これら三つの瞑想の実践によって、である。われわれはそれらを脱することができるのだ。われわれはまず、これら三つは何であるかを理解することにつとめよう。ここにチッタがある。あなたはいつも、心がみずうみに、振動すなわちことばや音はその表面の波動にたとえられることを思いだされるであろう。あなたは自分の内に、そのしずかなみずうみを持っており、私は「牝牛」ということばを発する。それがあなたの耳を通って入るやいなや、同時にあなたのチッタに一つの波がおこる。するとその波が、形と言っても意味と言ってもよい、その牝牛の観念をあらわすのだ。あなたが知る、と見えている牝牛は実は、内と外との音の振動への反応として生まれる、心の中の波である。音とともに、波はきえる。それは決して、ことばなしには存在し得ない。われわれがただ牝牛を考えるだけで音をきかないとき、それはどういうことか、とあなたは聞くだろう。あなたが自分でその音をつくるのだ。あなたが心の中でかすかに「牝牛」と言っており、それとともに波が生じるのである。この音の推進力がなければどんな波もあり得ない。それが外からこない場合は内からくる。そして音がきえるときには波もきえる。何がのこるのか。反応の結果であって、それは、知識である。これら三つはわれわれの心中で実に密接にむすびついているので、われわれはそれらを分けることはできない。音がくると感覚が振動し、反応として波がおこる。それらは実に緊密につづくので、区別は見分けられないのである。この瞑想が長い間実践されると、記憶、すなわちすべての印象のうつわがきよめられて、われわれは一つ一つをはっきりと区別することができるようになる。これがニルヴィタルカ、問いのない集中と呼ばれるのだ。

(44)この方法によって、その対象がもっと精妙である、識別のある、そして識別のない(集中)(もまた)説明される。

 前のとおなじ方法がふたたび、適用される。ただ、とりあげられる対象が前回は粗大であり、この場合は精妙である。

(45)より精妙な対象は、プラダーナ Pradhana でおわる。

 粗大な対象は単に、もろもろの要素とそれらからつくり出されるいっさいのもの、である。精妙な対象は、タンマートラ(ス)、すなわち精妙な微粒子からはじまる。プルシャ(魂)だけは別として諸器官、心(一般の知覚、すべての感覚の集合体)、エゴイズム、心(すべてのあらわれの原因)、サットワ、ラジャスおよびタマスという素質の平衡状態――プラダーナ(主たる)、プラクリティ(自然)、またはアッヴィャクタ(あらわれない)とよばれる――はすべて、精妙な対象のカテゴリーにふくまれる。

(46)これらの集中は種子を持つ。

 これらは、過去の行為の種子を破壊せず、したがって解脱は与えない。しかしそれらがヨーギーにもたらすものが、つぎの格言にのべてある。

(47)「識別のない」集中がきよまると、チッタはしっかりと定着する。

(48)その中での知識は、「真理にみたされている」とよばれる。

 つぎの格言が、これを説明するであろう。

(49)証言や推理から得られる知識は、普通の対象に関するものである。いまのべたサマーディから得られるのは、はるかにもっと高い段階のものであって、推理や証言の貫通し得ないところまで到達し得る。

 その意味は、われわれは普通の対象の知識を、直接の知覚、それをもとにした推理、および資格ある人々の証言から得なければならない。「資格ある人々」を、ヨーギーたちはつねに、リシたち、すなわち聖典――ヴェーダ――にしるされている思想をさとった人のことだ、と解釈している。彼らにしたがうと、諸聖典の唯一の証拠は、それらが資格ある人々の証明であった、ということである。しかし彼らは言う、聖典はわれわれを悟りに至らしめることはできない、と。われわれはすべてのヴェーダをよみつくすことはできるが、それでも何ひとつさとりはしないだろう。しかしそれらの教えを実践したとき、諸聖典がのべているあの境地、理性も知覚も推理も到達し得ず、他の者の証言も不可能な境地、に到達するのだ。これが、この格言が言っていることである。

 悟り、が真の宗教であって、他のすべては準備にすぎない――説法をきいたり、書物を読んだり、論理をたどったりするのは、単に基礎を準備しているにすぎない。それは宗教ではない。知的同意と知的反対はともに宗教ではない。ヨーギーたちの中心思想は、われわれが感覚の対象とじかに接触するのと同様、宗教でさえもはるかにもっと強烈な感じで直接認識することができる、というものである。宗教の真理は、神や魂とおなじように、外にむいた感覚で知覚することはできない。私は、この目で神を見ることはできないし、この手で神にふれることもできない。またわれわれは、感覚をこえて推理することはできない、ということも知っている。推理はわれわれを、まことに不明瞭なある一点で見はなすのである。この世界が幾千年間やってきたように、われわれは一生涯、推理し続けるだろう。しかもその結果、自分たちは宗教の事実を立証することも反証することもできない、と知るのである。直接知覚するものを土台として、それを根拠にわれわれは推理する。それだから、推理は知覚という境界の内がわを走りまわらなければならないのは、あきらかである。決してそれをこえることはできない。悟りの全領域はそれゆえ感覚の知覚のかなたにあるのだ。ヨーギーたちは、人は彼の直接の感覚知覚のかなたに、そして彼の理性のかなたにも行くことができる、と言う。人は彼の内に能力、彼の知力をさえこえる力、あらゆる存在、あらゆる生きものの内にひそむ力を持っている。ヨーガの実践によってその力がめざめさせられると、そのとき人は理性の普通の限界をこえ、すべての理性のかなたにあるものを直接認識するのである。

(50)このサマーディから生じる印象は、他のすべての印象を遮断する。

 われわれは前の格言で、かの超越意識に到達する唯一の道は、集中によるものだ、ということを知った。そして、心の集中をさまたげるのは過去のサムスカーラ、印象である、ということも知った。みなさんのすべてが、心を集中しようとするとおもいがさまよいあるく、ということを見た。みなさんが神を思おうと努力するとまさにそのときに、このようなサムスカーラがあらわれるのだ。他のときにはそれらはそれほど活動的ではない。ところが彼らを活動させまいとするとかならず、彼らはそこにあらわれて、あなたの心にわりこもうと最善の努力をするのである。なぜそういうことになるのか。なぜ彼らは、集中しようとするともっと強力になるのか。それはあなたがそれらを抑制し、それらが全力をつくしてそれに反抗するからである。他のときにはそれらは反抗しない。なんとこれらの古い過去の印象は、実に無数であるにちがいない、すべてチッタの中のどこかにやどっていて、トラのようにとびかかろうとまちかまえているのだ! 他のすべてをしりぞけてわれわれが欲しているあの一つの想念だけが生じるよう、これらは抑制されるべきである。それなのに、それら全部が、同時にうかび上がろうとしてもがく。これらが、心の集中をさまたげるサムスカーラのさまざまの力である。それゆえ、いまのべたこのサマーディは、サムスカーラをおさえる力があるのだから、実践すべき最善のものである。このような集中によって育てられるサムスカーラは実に強力であって、他のそれらの活動をさまたげ、それらをおさえつけるであろう。

(51)これ(他のすべての印象をしりぞける印象)さえをも抑制することによって、すべての印象が抑制され、「種子のないサマーディ」がくる。

 われわれの目標は魂そのものを認識することだ、ということは、みなさん記憶しておられるだろう。魂は自然と、つまり心と、肉体と、まじりあっているものだから認識することができない。無知の人は彼の肉体を魂であると思う。学識ある人は、彼の心が魂であると思う。しかしどちらもまちがいである。何が魂を、これらすべてと混同させるのか。チッタの中にさまざまの波が立って魂をおおいかくす。われわれはこれらの波を通して魂のほんの少しの反映しか見ない。それで、もしその波がいかりの波であれば、魂がいかっているのだと思って、「私はおこっている」と言うのだ。もしそれが愛の波であれば、われわれはその波にうつっている自分を見て、われわれは愛している、と言う。もしその波が弱さという波であり、魂がそれにうつるなら、われわれは自分はよわい、と考えるのだ。これらさまざまの想念はこれらの印象、魂をおおっているこれらのサムスカーラからくるのである。魂の真の性質は、チッタのみずうみにたった一つの波でも立っている間は見えない。この真の性質は、すべての波がしずまるまでは決して見ることはできないであろう。それだから、第一に、パタンジャリはわれわれに、これらの波の性質をおしえている。第二に、それらをおさえる最善の方法を、そして第三に、ちょうど火に火をくわせるように、どのようにして一つの波を、他のすべての波をおさえるほどにつよくするか、ということをおしえている。たった一つがのこったときには、それをもおさえる、ということはたやすいであろう。そしてそれが行ってしまえば、このサマーディすなわち集中が、種子のない、とよばれるものなのである。それは何ものものこさない。そして魂が、そのあるがまま、それみずからの栄光のうちに、あらわれる。そのときにはじめてわれわれは、魂は合成物ではない、ということを知るのだ。それは宇宙間、唯一の永遠の単体であり、それだから、それは生まれることはあり得ない、それは死ぬことはあり得ない。それは不死、不壊、永遠に生きる、知恵のエッセンスなのである。


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