瞑想と霊性の生活

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時の砂の上に残った足跡(1)

インドとヒンドゥイズム

 心の深いイギリス人、ラムゼイ・マクドナルド(一八六六〜一九三七。労働党出身、長く首相をつとめた。訳者注)が意味深い発言をした。「インドとヒンドゥイズムは基本的に、身体と魂のようにつながっている」と。インドが身体で、ヒンドゥイズム、もっと的確な言葉を使うなら、サナータナ・ダルマが魂である。幾百年に及ぶ外国の侵略、および政治上の分裂にもかかわらず、この国は常にヒンドゥ文化でまとまり、巡礼者たちはここからかしこへと、自由に行き来をしつづけてきた。ヒンドゥの宗教文化は不壊であるばかりでなく、ダイナミックでもある。その長い歴史の間に、それは多くの変化をこうむった。ここにまた魂と身体のたとえが適用される。アートマンとブランマンの教義、人生の目標としての神の悟り、カルマの法則、宇宙の周期的進化と退化の学説等々のような、ヒンドゥの宗教の基本的原理は、ヒンドゥイズムの魂であり、これらの諸原理の生活への実地の適用は、それらの身体を形成している。魂は不変であるが、外側の身体は時代の推移とともに変わりつづけた。

 ヒンドゥイズムの最初の大きな革命的変化は、アーチャーリヤ、シャンカラによってはじめられた。彼は、哲学の非二元論学派を、確固とした基礎の上に定住させたのである。アーチャーリヤ・ラーマーヌジャとマードゥワが、彼につづいた。これら三人の偉大な教師たちは、南インドの三つの別々の地域で生まれた。彼らは、ヒンドゥイズムの三つの異なる伝統を復活させ、定着させた。すなわちアドワイタ(非二元論)、ヴィシシュタアドワイタ(限定一元論)およびドワイタ(二元論)である。それらはヒンドゥイズムの古代の原理を組織的な形で説き直し、それにしっかりとした基礎を与えた。彼らはインド中を旅行し、人びとを――主として最高の階級の人びとを――集めて宗教グループをつくり、彼らを通じて、ヒンドゥイズムに新しい活力をそそぎこんだ。これらの哲学体系に含まれている思想の力が、どのようにして一般大衆にとどいたのか。聖者たちを通じて。インドは有史以前から今に至るまで、階級の差別をせずに人びとの間を歩きまわり、到る処に宗教をひろめる聖者たちを輩出してきた。彼らは社会のさまざまの階層からやってきた。彼らの大部分は在家の人びとであったが、世俗への執着からはすでに解放されていた。彼らはアーチャーリヤたちがしたようにサンスクリットでは語らず、その土地の言葉ではなし、そして教えた。これらの聖者たちの多くが偉大な詩人であって、魂をゆるがす彼らの歌は今もなお、インドの僻地の村々ででもうたわれている。彼らは、救いへの主な道として神への愛を教えた。彼らの中のもっとも偉大な人びとの、何人かは女性であった。

南インドのアールワールたち

 仏教後の時代に最も早く現れた聖者のグループの一つは、アールワールたちと呼ばれる、タミールの聖者たちのグループであった。彼らはみな、ヴィシュヌ神の崇拝者であった。この神はヴェーダに出てくる。ヴィシュヌ神を崇拝する、バーガヴァタスと呼ばれる特別の宗派が、インド北西部に、紀元前五〇〇年にすでに存在していた。彼らはクリシュナを、ヴィシュヌの化身として崇拝した。古代のヒンドゥの、特にグプタ朝の、王たちのある人びとはこのグループに属していた。南インドのパラワ朝の王たちも同様であった。アールワールたちの生涯は伝説に包まれていて、時代を正しく知ることさえ不可能である。近代の学者たちにしたがうと、彼らは紀元七世紀から九世紀の間に栄えた。重要なのは、彼らはすべて偉大な神秘家であって、自分たちの経験を詩に記録した、ということである。

 全部で十二人のアールワールたちがいた。その中の最初の四人は同時代の人びとであったと思われる。ポイガイ、ブータおよびペイと呼ばれる最初の三人のアールワールについておもしろい逸話が残っている。ある日、これら三人の聖者たちが遍歴中、嵐にあって、小さな小屋に避難した。そこはかろうじて三人が立っていられるだけの広さだった。間もなく彼らは、目には見えないけれど四人目の一人が彼らのまん中にたっている、と感じはじめた。これは主おんみずから以外の何者でもない、と知り、彼らの各々がその経験を、自分が理解したままに描写しつつ、歌の形で吐露した。ポイガイ・アールワールの経験は、高い直観(パラギャーナ)、ブータ・アールワールのは、高い信仰(パラーバクティ)、ペイ・アールワールのは超越知識(パラマギャーナ)であったと言われている。聖者たちが会うと神のことのみをはなし、「彼」の栄光をうたう。だが世俗的な人びとは、会うと世俗のことのみをはなし、それらについて口論し、争う。

 私たち現代人は、詩の感覚を失いつつある。自分たちの神の愛と至福をすべての者と分かち合いたいと切望した我らの聖者たち賢者たちのハートをみたした、あの最高の感情を理解する能力を失いつつあるのだ。このような感情がなければ、人は無にひとしい。頭とハートが空っぽなら、私たちに何が残されているか。ハートは神の愛で、頭は神の思いでみたされていなければならず、今度はそれらが聖なる行ないを通じてわれわれの人生に表現されなければならない。これが霊性の中心のテーマ、私たちが決して忘れてはならないポイントである。

 アールワールたちは至高霊を、最愛の者より愛しい者と信じた。それだから彼らの中に、あれほどの忘我の愛が見られるのである。これらシュリ・ヴァイシュナヴィズムの偉大な聖者たちは、さまざまのバーヴァすなわち態度で主に近づいた。彼らの中のもっとも偉大なのはナンマールワールで、シャタカーパまたはシャターリとも呼ばれ、比較的低い、ヴェッラーラという階級に属していた。彼は四つの詩をつくったがそれらはしばしば四つのタミール・ヴェーダと呼ばれ、その中のもっとも重要なのは、「ティルワーイマリ」である。この賛歌の中で彼は主について、一切所に遍在する霊性の「原理」であり、同時に信仰者たちのためにもっとも美しい人の姿をおとりになる御方である、と語っている。

 もう一人の偉大な聖者はティルマンガイ、強盗の部族(カッラ)に属していた、聖者になる前の何年かは、盗賊として働いていた。もう一人の有名な聖者はティルッパーン・アールワール、彼はいわゆる不可触賎民の家に生まれた。常に主ヴィシュヌの賛歌をうたい、やがて法悦状態にはいると肉体意識を失った。ある日、彼がこうしてカイヴァリ川のほとり、有名なランガナータの寺院の前にすわっていると、神職の長が祭神の沐浴に供する水を持って通りかかった。低カーストの男のそばを通ると水が汚れはせぬかと恐れて、神職はティルッパーンに呼びかけた。ついに彼は石を投げつけた。傷の痛みで意識がもどり、ティルッパーンは逃げた。しかしながら、神職が聖堂に入ると、聖所の扉がしまっていた。そのとき、神々しい声が彼の暴行を叱り、傷ついた低カーストの信者を背負ってつれて来い、と命じた。神職は走り出て、恐れる信者をむりやりに背負って聖堂の中につれてきた。このとき聖所の扉がおのずから開き、聖者は主の御像の中にとけ込んだ、と、伝説はつたえている。

 もう一人の重要なアールワールはクラシェカラであった。彼は、ケララの南部の王であった。神の愛に圧倒され、後半生をもっぱら主の黙想にささげるべく、シュリランガムのランガナータの寺院の境内で日々をすごした。実に謙虚であって、信者たちの足のちりが自分の身体にかかるよう、寺院の階段に横たわっていた、という。彼はタミール語とサンスクリットの両方で歌をつくった。タミール語の賛歌の一つの中で、彼はこう言っている――

きよらかで善いものがそこにあるのに悪を選ぶ、そのような人びとに、私は縁を持たない。私は主、かの牛飼いをしたって、狂気している。

 それが、至高の「霊」との結合を渇望する信仰者の心である。ムクンダマーラーという彼のサンスクリットの作品、それはインドの信仰歌の中のもっともポピュラーなものの一つであるが、クラシェカラは完全なおまかせの境地について語っている。彼はうたう、

主よ、私はいわゆる有徳の行ないにも、富にも欲望の対象の楽しみにも、興味はありません。過去世のカルマに応じて、来るはずの運命を受けましょう。しかしこれだけは、心の底からのねがいです。今生でも後の生ででも、あなたの蓮華の御足へのゆるがぬ愛は、抱きつづけることができますように。

私を、おお主よ、天国であれ地上であれ地獄であれ、あなたのおすきな所において下さい。死のときにも私は、あなたの聖き御足を思うでしょう。それは、秋の蓮の花より美しい。

 真の信仰者は、誕生からの解放を求めない。彼にとって、この世の束縛から逃れることは、祈るべき目標それ自体ではない。果たすべき最大の目的は、やはり無数の形で現れておられる主への愛である。それが、すべての偉大な聖者たちの望みである。それはまた、すべての求道者の、心の底からの願いでもある。

 ブラーミンの生まれであった二、三のアールワールの中で、もっとも有名なのはペリヤールワール、すなわちヴィシュヌチッタであった。彼は大方の日々を、祭神にささげる花輪をつくって過ごしていた。有名な彼の詩、ティルッパラーンドゥは、南インドの重要なヴィシュヌ派寺院の多くで毎日うたわれている。愛の法悦から生まれたこの独特の賛歌の中では、信者が主を、幾千年も生きられるようにと祝福しているのだ――自分のために祝福をお願いすることを忘れて!

 彼の娘は、インドのもっとも偉大な女性聖者の一人としてうやまわれている。子供の頃から、彼女はクリシュナのことしか思わなかった。あるとき、父親は自分が主のために用意した花輪を彼女が身につけているのを見て、叱った。しかし神の声が、主はそれらの花輪を彼女が身につけることを好んでおいでになるのだ、と彼につげた。彼女は自分を主の花嫁と見ていたのだ。伝承は、土地のヴィシュヌ寺院の神主が主から、彼女を輿にのせて聖堂につれてこいと命じられた、とつたえている。翌朝アーンダールは花嫁のように着飾られ、嫁入りの行列をつくる大勢の人びととともに、輿に乗って出かけた。アーンダールが内陣に入ると主が出迎えられ、彼女はご神体の中にとけ込んだという。後にアーンダールの誕生の地、シュリヴィリップットゥールに壮麗な寺院が建てられ、今日に至るまで、寺の祭礼がこのでき事を祝って行なわれている。

 アーンダールはすぐれた詩人であった。彼女の詩ティルッパーヴァイは、マールガシールシャの月には南インド中でうたわれる。この詩の一節の中で彼女は、主の栄光を深く思い「彼」を瞑想することによって、どのようにすべての不幸がやむか、ということを述べている。

私たちが美しい花をまき、崇敬の思いにみちて、

歌をうたい、ハートに「彼」を――

マーヤン、北マトゥラーの幼な児を、

偉大なヤムナーの聖き流れの支配者を、

牛飼いの仲間の中に現れた輝くともし火を、

「彼」の母の胎を光り輝かせたダーモダランを

瞑想し、こうして完全に浄まるとき、

過去のあやまちも後に来るべきあやまちも消える、

火の中でもえつきて、ちりとなる綿のように。

ああ、エロレムバーワーイ!

 アーンダールはインドの花嫁神秘主義の、最善の実例の一つである。この信者は、彼女みずからを花嫁と、そして主を花婿と見るのだ。浄まった魂は、すべての魂の「魂」であられる主の、永遠の現前をねがい求める。アーンダールは彼女の想像力を余さずに活用して、最愛の主を絶えず深く思った。それは、通常あらゆる種類の病的なことを想像して費やされる、私たちの心の力をどのようにして昇華するかの一例である。非常に感動的に、彼女はシュリ・クリシュナのおあそびを描写している。

一人の女性の息子として生まれ、ある夜、隠されて別の女性の子として育てられなさったあなた、カンサの心を耐え難くかきむしる、まさに火であられた強力なマール(レスラー)あなた、彼が抱いたよこしまなたくらみを抑えて。

あなたをお慕いして、私たちは来ました、そしてもしあなたがドラムを奏してさえ下さるなら、私たちはあなたのゆたかなお恵みをうたいましょう。それはラクシュミーみずからほどの値打ちがある。あなたの御力もうたいましょう。すると私たちの悩みは全部行ってしまい、私たちは歓喜するでしょう。

ああ、エロレムバーワーイ!

 収集できる限りのアールワールたちによる詩と賛歌は、ナータムニというヴィシュヌ派の偉大な師によって、ナーラーイラ・プラバンダムという、不朽の名著の中におさめられている。南インドのヴィシュヌ信仰者たちはこの書物を神聖なものとして崇め、それを、アヌバワ・ヴェーダーンタ、つまり直接経験のヴェーダーンタと呼んでいるが、まさにその通りである。ナータムニの後継者はヤームナーチャリヤ、彼をついだのが、南インドのバクティ運動の復活に大きくはたらいたラーマーヌジャであった。紀元一〇七二年、敬虔なブラーミンの家庭に生まれ、ラーマーヌジャは最初に、ヒンドゥの聖典を、ヤーダヴァプラカーシャという有名なアドワイタの学者のもとで学んだ。しかし彼の信仰者的傾向は非二元論的教義を受け容れることができず、彼は彼自身の思想を生み出し、その中で信仰と知識を統合することを試みた。彼は、ブランマスートラとバガヴァド・ギーターの注釈書を書いた。ヴィシシュタアドワイタ(限定一元論)と呼ばれる彼の哲学は、神、魂たちおよび宇宙はともに一つの実在を形成する、と主張する。神は、すべてに遍在し、しかも超越する至高の霊である。宇宙は、各々が数百万年つづく周期の中で、「彼」から生まれ「彼」に帰る。すべての魂たちは同じように完全に彼に従属している。霊性の道では自己自覚が最初に来て、それから神の悟りが来る。神の悟りは、ラーマーヌジャによると、神の恩寵によってはじめて、可能なのである。彼はこのように霊性の修行としてはバクティに最高の重要性を与えた。

 バクティとヴィシュヌの崇拝を再興させたこととは別に、ラーマーヌジャは彼の信奉者たちをはっきりとした一つの共同体に組織して、サンスクリットとタミール語両方の聖典の研究を力強く奨励し、また宗教をブラーミンでない階級の人びとの間にもひろめる努力をした。彼のリベラルな心は、彼が一人のシュードラを自分のグルたちの一人として受け容れたことや、聖なるナーラーヤナのマントラを大勢の人びとの集まりに伝授したことの中に示されている。彼の師ゴシュティ・プールナは、誰にも明かしてはならぬと指示した上で、このマントラを彼に与えた。自分のグルに従わぬことへの罰は、地獄に行くということであった。しかしラーマーヌジャは寺院の塔に昇って、そこに集まっていた大勢の人びとに、このマントラを公表した。なぜそのようなことをしたのか、と師から尋ねられ、ラーマーヌジャは、もし自分が地獄に行くことでそれほどの多くの人びとが救われるなら、自分はみずからの救済よりその方を望む、と答えた。

 ラーマーヌジャは自分の思想を伝えるためにひろくインド中を旅行した。彼はバクティを哲学的基盤にのせた最初の偉大なアーチャーリヤであった。ヤームナーチャーリヤは、アールワールの聖者たちのはたらきをヴェーダーンタの囲いの中に入れることによってバクティのために偉大な奉仕をし、またヴィシシュタ・アドワイタの土台を築いたのだった。しかし、それ以後のインドにおけるヒンドゥの宗教活動のすべてに影響を与えつづけてきた、そびえ立つ哲学的殿堂を築いたのは、ラーマーヌジャであった。北インドにおけるバクティの運動に、彼の影響を見ることができる。

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