瞑想と霊性の生活

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神についてのさまざまの考え方(2)
 

神々から最高神へ

 信者は、超人格神には近づくことができないが、人格神は、彼の哲学的センスを満足させない。それゆえすべてのすぐれた修行法では、人格神的―超人格神の信仰がもっとも好まれている。これはクリシュナやラーマ、シヴァやヴィシュヌ、ドゥルガーやカーリの信仰者たちに実際に見られることである。

 神的人格、すなわち化身した原理への信仰はたしかに、霊的生活の中に不動の位置をしめている。それは多くの信者たちにとって不可欠の信仰である。シュリ・クリシュナがバガヴァッド・ギーターの中で言われたように、絶対者と、あらわれない存在を信仰する道は非常にむずかしい。そのために多くの宗教では、信者は神的人格である主を信仰し、彼に到達することを人生の最高の目標とみなし、彼に自分のすべての行ないをささげ、信仰と思いをこめて彼を瞑想するのだ。しかし真の信仰者は、主の神人同形的な形の礼拝ではおわらない。彼はしだいに、彼が信仰する神の形を、至高の原理を何かの形で示している、属性の一つの権化と見るようになる。彼はさらに、神の形を神の一つの象徴あるいは観念と見、この観念がまたあらゆるものの背後にある実在の、一つの象徴となるのを見るようになる。

 シヴァは、大衆的なヒンドゥイズムの神々の中の一はしらである。理解のあさい初心の信者は、彼をさびしい山や墓場にすむ、破壊の神であると思うかもしれない。しかし進歩した信者にとっては、彼は放棄の権化である。すべての悪の破壊者である。彼はその上に、瞑想と神意識の人格化されたものである。進歩した信者は彼の栄光をこのようにうたう、「おお、主よ、あなたはブラフマン、第二なるものなき一者です。あなたはあらゆるものです。あなたは唯一の真理、そしてまことにあなた以外には何ものも存在しません」と。

 ヴィシュヌの世俗的な信者は彼の中に、かぎりない慈悲心から信者の幸福のために化身している、保護と維持の神を見る。しかし、最高のタイプの信者は、彼の中に全宇宙に浸透する神的原理の具現者を見る。彼の中で、世界の創造、維持および破壊という遊戯は演じられているのだ。彼らはつぎのように祈る、「あなたはすべてのもののうちに住んでいらっしゃる。あなたはすべてであられる。あなたはあらゆる形をとっていらっしゃる。あなたはすべてのものの根源であられる。あなたはすべてのものの自己であられる。そのあなたを礼拝いたします」と。(ヴィシュヌ・プゥラーナ、一―一二―七二)

 

神を母として礼拝する

 私たちは神を母として礼拝することができるのか。私たちインド人には、このような疑問はおこらない。神霊をさまざまの形で礼拝することができるのは当然、と考えているのだ。イスラムやキリスト教では彼を主として礼拝することしか許されていないが、私たちは、母として、神聖な子供として、あるいは神聖な愛人としても礼拝する。神を母として礼拝することに不自然さはまったくない。赤ん坊が母親によっていだかれ、はぐくまれるように、神はすべての生きものを創造し、維持し、育てて下さるのだ。神を母と見るのは、最も自然なありかたである。それはまた最も崇高で長つづきのする態度である。母なる神と信者の関係は、他の関係よりはるかにのびのびとして自由なものである。シュリ・ラーマクリシュナはいつも、「子どもが強引に母親におねだりできるように、信者は神に強引におねだりできるのだ」と言っておられた。彼はもう一つのたとえもあげておられる、子供がおもちゃで遊んでいるあいだ、母親はいそがしく家の仕事をしている。しかし子供がおもちゃを投げだし、泣いてお母さんをよぶと、彼女はなべを下において、子供のところに走ってくる、と。このうつくしいたとえは、母として見られた神と信者との間の、強いきずなを説明している。

 神を母として見るという考えは、ヒンドゥの独創ではない。それは古代には、多くの国にごく普通に見られたものであった。このような母神崇拝のあるものは衰退した。しかし私たちは、母神崇拝の理想に関心を持っている。彼女はエジプトではアイシス、バビロニヤとアッシリヤではイシュタル、ギリシャではディミータ、フリジア(昔、小アジアにあった国)ではシビリー、と呼ばれた。ローマ人が、カルタゴの英雄ハンニバル将軍によって苦しめられたとき、彼らは戦勝を祈願してシビリーをまつり、この女神を神々の母であると布告した。ユダヤ教が、そしてのちにはイスラム教も、中東地域の母神崇拝をやめさせた。キリスト教もやはりそれを抑圧したが、のちに修正された形でそれを復活させた。

 カトリック教は処女マリヤをテオトコスすなわち神の母としてあがめる、神学上の拘束から、聖処女は教会内では低い地位におかれている。しかし一般大衆はそのような差別をしない。何億人というカトリック教徒、特に貧しい人びとは、ほとんどヒンドゥが母なる神を礼拝するのと同じ仕方で、処女マリアを礼拝する。私はワルシャワで、マドンナに献納された古代の教会を見た。スイスでは一千年以上の歴史を持つ僧院をおとずれたとき、そこで僧たちが黒衣のマドンナを礼拝しているのを見た。そのマドンナの顔と姿は、私にヒンドゥの神カーリを思い出させた。グレゴリー調の賛歌と巡礼の群は、インドの女神の寺院に見られるような親しい雰囲気をかもしだしていた。神の母への信仰は、着実にヨーロッパやラテンアメリカの国々に根をおろしつつある。

 私がヨーロッパに滞在したとき、最初は、西洋の人びとが神を母として見ることができないのを知っておどろいた。ある婦人はこう言った、「まあ、スワミ、私自身が母親であり、また私の母親もまだ健在です。私たちは長所も欠点も持っています。しかし私たちは、母親であるということに何ら特別神聖さを感じません。私たちは自分の内部になんの神聖さもみとめないのです」と。それはもちろん、彼女の不幸であった。このことは、私に一つの話を思い出させる。ある日子供たちが、さわがしくしゃべっていた。うそつきゲームという新しい遊びをしていたのだ。もっとも大きなうそをついた少年が一等になるというのである。そこに司祭がやってきて、何をしているのか、ときいた。彼はそのわけを聞くと、少年たちに注意した、「子供たちよ、うそをついてはいけない。私がきみたちの年のころには、決してうそなどはつかなかった」と。少年たちはそのとき、一斉にさけんだ、「神父さん、あなたが一等賞だ」と。子供は子供のさまざまのあり方を知り、女性は女性のさまざまのあり方を知っている。しかし彼らはその表面、からだとその振舞いを見るだけ、それを超えた神聖さにはまったく気づいていないのだ。

 西洋では、女性は恋人あるいは妻として見られる。母親は、ヒンドゥの家庭におけるような愛と尊敬をもっては見られない。神学者たちがイヴはアダムの肋骨からつくられたと教えて以来、女はつねに男に劣ると考えられている。この姿勢が西洋社会における女性の役割を決定してきたのである。もし西洋の男性が神を母として崇拝したら、彼らはもっと情に厚くなり、性意識はへり、もっと霊的になるであろう。家族のきずなはもっとつよくなり、家庭はもっと平和になるだろう。

 インドでは、母なる神の信仰の伝統は、ヴェーダの時代からたえることなくつづいている。ヴェーダには、デヴィによびかけた多くの賛歌がある。ケナ・ウパニシャッドには、母は霊性の知識の権化としてあらわれている。後世には、その全部が母なる神の礼拝と哲学で占められている文献(タントラ)も生まれた。ベンガルでは、母崇拝はそのとき大きく洗練され、それ以後、人びとの日常生活のかなめとなった。

 シュリ・ラーマクリシュナの出現によって、母なる神の崇拝は若がえった。かすは洗いおとされ、母なる神は新しい光の中に、家庭で、また幾百万の人びとのハートの中で、光りかがやいている。シュリ・ラーマクリシュナは、何を母なる神カーリと呼んだのか。彼は、彼女を宇宙の創造力と見た。さらに彼は、彼女はブラフマンとは不可分の存在だ、と言った。不変の実在がブラフマンである。それが宇宙としてあらわれるとき、それがカーリなのである。空の青さが広さのしるしであるように、カーリの黒い肌色は、無限性を示している。シュリ・ラーマクリシュナはこのように、カーリの神像の礼拝を、無限者の崇拝にたかめている。

 母なる神の力、すなわち神のエネルギーはさまざまの形と象徴を持つ。彼女は知識の女神、富の女神、破壊の踊りをおどる死の女神など、さまざまに象徴化されている。カーリという形で、彼女は創造と保護と破壊の力、およびすべてのものが消滅後にその中で休息するところの、力をあらわしている。彼女は、絶対者をあらわすシヴァの、静かに身をよこたえた姿をふまえて立っている。これは超越的実在を基礎とする、全宇宙の現象過程を象徴するものである。実在は、生と死の両方を超えている、それだから、信者は決して、生に執着することも死をおそれることもいらないのだ。彼は楽しいものと恐ろしいものとの両者を超えて、超越の境地にのぼらなければならない。そこから彼は、「死と不死という影――これらはともに、おお母よ、あなたの至高の恩寵です!」(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ、「母なる神への賛歌」より)と、言うことができるのだ。信者たちは彼女によびかけてつぎのように言う、「あなたには名前も家系もない、生まれも死もない、……束縛も自由もない。あなたは、至高のブラフマンとよばれる、第二なるものなき一者であられる」(スワミ・ヤティシュワラーナンダの著書、「普遍的な祈り」より)。これがヒンドゥイズムにおける母なる神の最高の概念である。

 

ヒンドゥの、化身の概念

 他の宗教とことなり、ヒンドゥイズムは、何人かの神の化身を信仰する。化身とは、普通の人びとが至高神の神秘を理解するのをたすける、一つの理想とみなされている。ヒンドゥは、自由にこれらの化身たちの誰かを自分の霊性の理想として受けいれ、彼を通して絶対者との接触を確立しようとつとめる。西洋の批判的な学者たちは、化身たちのうちに人間的限界を指摘するのに熱心であるが、信者たちはそれらを見ず、彼らのうちなる神性と、神的属性だけを見る。化身たちの人間性は、彼らとの密接な個人的関係を確立するのに役に立つ。人間的な面は、神の一つの象徴にすぎないのである。

 ラーマはヴィシュヌの化身たちのひとりであり、真理と義務への献身の権化である。普通の信者は、彼のうつくしい姿と高貴な性質を強調する。しかし悟った信者は、すべてのものに内在する彼を見、つぎのように祈る、「あなたは最高の美徳の権化です。あなたは内在者、至高の存在です。あなたは人類の、もっとも偉大な隠れ家であり、救い主であられます」(ヴァールミーキ・ラーマーヤナ、六―一一七―一四―一七)、「あなたは無垢の、不変の、純粋の、そして永遠の智恵と真理であられます」(アディヤートマ・ラーマーヤナ、一―五―五六)

 さまざまの姿をとる理想神クリシュナは、非常にひろく知られてはいるがまた、多くの人によってはなはだしく誤解されてもいる。心の未熟な批評家たちは、ブリンダーヴァンにおける彼のゴピーたちとの遊戯を卑猥な意味にとる。しかしシュリ・ラーマクリシュナのような信者たちは彼のうちに、官能的な性質や粗野な性質を完全に脱却した人びとだけが理解できる、神的な愛の最高の理想を見ることができた。シュリ・クリシュナの普遍的な姿があらゆるもののうちにあらわれているのをさとり、アルジュナは次のように言ってうやうやしく彼を礼拝する、「おお、主よ、あらゆる方角においでのあなたに敬礼をいたします。あなたは力において無限、能力において無限、あらゆるものであられます。あなたはあらゆるものに浸透しておられます。あなたはすべてであられます」(バガヴァッド・ギーター、一一―四〇)

 このように、人格的―超人格神、多の中の一者、という概念は、全ヒンドゥの宗教意識にしみこんでいる―― ヒンドゥの聖典の真の精神を洞察できる人びとははっきりと理解することのできる、事実である。

 

宗教上の寛容と調和への願い

 しかし、この偉大な統合と寛容の理想をさとることは、すべての人にゆるされているわけではない。非常に頑固な宗派的な偏見をもつ信者の多くは、彼らの言う神または化身の信仰によってのみ、またはある特定の予言者や教師たちのみを介して人類にお告げを与える、彼らの、無形または有形の神の信仰によってのみ、救いはあたえられるのだ、考えている。しかし、視野のせまい人びとと並んで、つぎのように寛容な人びともいる。彼らは、自分の理想神への愛と信仰においては誰にもゆずらないが、同時に、すべての神的人格を、同一の真理のあらわれと見なす。彼らはつぎのように言う、「私は宇宙の至高の主であるシヴァと、宇宙のもっとも奥なる自己であるヴィシュヌとのあいだに、本質的な違いは認めない。しかしそれでも、私の信仰はどうぞシヴァに向けられるように」と。(バルトラリ・ヴァイラーギヤ・サタカム、八四)

 比較的新しい賛歌はさらに進んで、この底を流れる調和を、この上なく明快な言葉で語っている。「ヴィシュヌまたはシヴァ、ブラフマーまたはインドラ、太陽または月、ブッダまたは完成者マハーヴィール、最高の存在は何と呼ばれようと、私はつねに、執着と憎しみを捨て、世俗と無知にとらわれず、きよらかさと慈悲にみち、すべての高貴な性質を持つ、彼だけを礼拝いたします」(前述、「普遍的な祈り」、詩節三〇五)

 このように、多様の背後の単一という概念は、ヒンドゥの宗教意識の中に連綿と受けつがれてきた根本的な事実であり、マヌによってつぎのように宣言された思想である。「人は至高の霊を知らなければならない。それはあらゆるものの支配者であり、もっとも精妙なものより精妙、輝かしい栄光にみち、瞑想によってのみさとられる。ある人は彼をアグニ(崇拝されるべきもの)とよび、またある人は彼をマヌ(思惟するもの)とよび、またある人は彼をプラジャパティ(被造物の主)とよぶ。またある人は彼をインドラ(栄光にみちたもの)と、プラーナ(生命の根源)と、さらに他の人は永遠のブラフマン(偉大なもの)とよぶ」(マヌ・スムリティ、一二―一二二―二三)

 多様性と限定の観念を超えることのできない人びとは、アグニ等のさまざまの名を、ことなる神々としてしかとらえない。しかしもっと高い見方のできる人びとにとっては、それらは神的存在のさまざまの面と属性をさすものである。ほんとうは、さまざまの神の名は同一の神のさまざまの属性である、とつねに考えてきた、一神教的解釈者たちや一元論的解釈者たちが存在していた。この点では、ヴィシュヌ・サハシュラナーマの注釈者は、現代のアーリャ・サマージの一元論的解釈者たちとほとんどちがわないのである。

 実に、名と形は何であれ、それが神であろうと化身であろうと、もしその人格が超人格の一つの表現とみなされるなら、そのとき、この人格的超人格神、または超人格的人格神、の共通の信仰の中で、すべての宗教と信条の信奉者たちが手と心をつなぐことができるだろう。現代においては、神的存在のこの普遍的な面を認めることに特に力がそそがれなければならない。それはあらゆる国と地方の、真の宗教心を持つ人びとを結合し、彼らを、同胞意識と仲間意識、奉仕と強調の精神をもって共通の福祉のために共にはたらかせる、偉大なきずなとして役に立つだろう。

 「彼――第二なるものなき一者――形なく、彼自身の目的は持っておられないが、彼の多くの力によってさまざまの形を生み出されるお方、創造のはじめには彼から宇宙はつくられ、それはおわりには彼のところに帰って行く、そのお方が、どうぞわれわれに、よき思いを授けて下さるように」(シュウェターシュワタラ・ウパニシャッド、四―一)

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