瞑想と霊性の生活

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超意識的経験の理想(2)

超意識的な悟りの状態

 感覚のたのしみを通して私たちのところにくる喜びは、それにつづいて限りのない不幸をもたらす。最初は、それは甘露水のようであろう。しかしやがてはそれが、挫折と失望になるのだ。知的な快楽はたしかにそれよりは高級である。しかしそれは私たちに究極的な成就の満足感を与えてはくれない。私たちは、瞑想をしているとき、または主の栄光をうたっているとき、内なる喜びを感じる。このような幸福感は非常にすばらしいものであるが、長くはつづかないかもしれない。意識の超越状態にある求道者にくる喜びは、永遠に彼のもとをはなれることはない。それが真の幸福であって、それ以外の幸福は、それの影にすぎないのだ。たとえその高い霊的経験が完全なものでなくても、たとえその求道者が超意識の入り口の敷居に達しただけであっても、一度経験された喜びの記憶はあとまでのこり、そのために彼は、その最高の境地に達して永遠の至福を楽しもうと努力せずにはいられなくなるであろう。

 すべての宗教は、超意識的自覚からうまれている。超意識的経験が、大工の息子イエスを、何億という人びとに崇拝されている救世主、キリストにした。貧しいラクダの御者であったモハメッドをイスラムの予言者にしたのも、それである。それはまた、知的な論争訓練を好んだ偉大な学者、パンディット・ニマーイを、神の愛の伝道者シュリ・クリシュナ・チャイタニヤにした。現代では私たちは、カルカッタの寺院の貧しい一神職のガダーダル・チャットパッダイが超意識的自覚によって、あらゆる宗教の調和の予言者シュリ・ラーマクリシュナに変容したのを見る。もちろん、この人びとは普通の人間ではなかった。

 私たちの多くは神について聞いているが、ほんとうは、その言葉が何を意味しているかを知らない。ある人びとは、霊性の修行によって神性の片鱗をかいま見るかもしれない。また、このような一時的な経験では満足できない人びともいる。彼らは深く自分自身に沈潜し、あらゆる魂の魂である神を見いだす。魂がからだの中に存在すると同様に、神はすべての魂の中に存在する――無執着に、すべてを支配しつつ――。神は、内在していて同時に超越しているのだ。信者は自分と神とのさまざまのの関係を想定し、彼との交流という最高の至福を楽しむ。信者は神を、主人、友、母、または愛人であるとみなす、と私たちが言うとき、それは低俗な意味で理解されてはならない。スワミ・ヴィヴェーカーナンダが言うように、宗教とは永遠の神と永遠の魂との永遠の関係である。この考えが、人と人との間のさまざまの関係をあらわわす言葉で表現されているのである。

 しかしこの状態をも超越する人びとがいる。彼らは、すべての存在はブラフマンの中で、ひとつであることを見いだす。その魂は、至高霊の中に消え去り、そこには第二なるものなき一者が残る。シュリ・ラーマクリシュナはこのことをつぎのようなみごとなたとえで示しておられる、「あるとき、塩人形が海の深さをはかりに行った。はかっているうちにそれ自身がとけてしまい、その存在の源である海と一つになった」(「シュリ・ラーマクリシュナの福音」協会訳、三三頁)

 直接の超意識体験に到達している人はリシ、すなわち「見る人」と呼ばれている。人それぞれがある種の見る人である。感覚の対象を知覚する人は、見る人である。遠くにある恒星や惑星を知覚する人は、見る人である。他者の思いを読みとることができる人は、見る人である。人の思いや心のうごきのさまざまの法則を発見する人もやはり、見る人である。しかしこれらとはまったく別に、リシという言葉は、超越的な真理を直観的に経験した人の場合に用いられる。バガヴァッド・ギーターの中で(バガヴァッド・ギーター、一一―八)ディヴィヤ・チャクシュすなわち「神の目」となづけられているこの直観力は、あらゆる人の中に潜在しているのである。

 

無知とその克服

 何が邪魔をしているので私たちは、この「神の目」をいますぐにひらくことができないのか。ヴェーダーンタの師たちは、「それは無知である」と言う。パタンジャリもまた、プルシャすなわち自己の視力をくもらす無知について語っている。ヨーガスートラには、次のように書いてある、「無知は、かりそめのもの、不純なもの、苦痛にみちたもの、自己でないものを、それぞれ永遠のもの、純粋なもの、幸福なもの、そしてアートマンすなわち自己とうけとることである」(パタンジャリ、ヨーガスートラ、二、五)無知の中毒状態の中では、真理は虚偽よりも悪いものとされるのだ。

 街頭の柱によじ上ってくるったように叫びつづけていた酔っぱらいの話がある。当然、彼は警官にとらえられ、裁判官の前に引きずり出された。裁判官から、「いったい、どうしたのか」と問われた。彼は「私に何ができますか、お役人さま。私は三匹のワニに追いまわされたのです。あの柱によじのぼるほかに、たすかる道はありませんでした」と。都市の大通りにワニがいるとは! しかしそれが、酒の影響で彼が見たものであった。無知の影響により、私たちもまた、究極的には存在しない多くのものを見ているのだ。

 どのようにすれば、この無知を克服して超意識的な悟りに到達することができるか、というのが次の問題である。無知それ自体を知ることはできない。それはさまざまの形でみずからを現す。まず第一に、自己中心癖がやってくる。それは真の自己すなわちアートマンをおおいかくす。第二に、欲望または執着がくる。これらはおさえられたり、さまたげられたりすると、怒りや恐れを引きおこす。人間は無知、自己中心癖、および本能によって、この世界にしばりつけられているのだ。現代の心理学者たちはさまざまのコンプレックスについて語っている。ある分類によると、三つのタイプのコンプレックスがある――性コンプレックス、自我コンプレックス、および集団コンプレックスである。人はこれらのコンプレックスの支配をこえる方法を学ばなければ、霊的生活をはじめることさえできはしない。これが、霊的努力の意味である。一日で本能の影響を克服することは不可能である。私たち自身が、私たちの障害物なのであり、私たちが自分の心の中につくる障害にくらべれば、外からの障害などはものの数ではない。自分の全人格が徹底的に点検されなければならない。それはどのようにしておこなうべきか。ここに、世界のもろもろの宗教の神秘家たちが、私たちのために、いくつかの道を発見した。

 

神秘家たちの道

 神秘家とは、それが神と呼ばれようと、自己と呼ばれようと、とにかく究極の実在を直接に、直観的に経験している人を言う。私たちはサンスクリットで、そのような人をリシと呼んでいる。偉大な宗教はすべて、これまでに無数の神秘家を生んできている。しかし、すべての宗教が彼らの真の偉大さを認識しているわけではない。それは、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教のような一部の宗教では、救われの手段として、信仰と道徳のみを重視しているからである。これらの宗教の信者たちは、彼らの宗教の開祖である予言者への絶対の信仰を持つことを期待される。おのおのの宗教が、その宗教の開祖である予言者の優越を主張し、この主張をみとめない者は、救いをこばまれる――それは、彼らが地獄に行かなければならないことを意味するのだ。このような思想にもかかわらず、これらの宗教も、直接の神の経験をもつ、傑出した聖者たちを生んできた。神秘主義は決して、キリスト教やイスラム教の正当かつ必要な一部として認められたことはない。キリスト教の多くの神秘家が、教会の迫害に直面しなければならなかった。十七世紀のいわゆる静寂主義運動(訳注、十七世紀後半スペインのキリスト教神秘主義)は冷酷な方法でおさえられた。十八、十九世紀の、教会の内外での反神秘主義運動は実にはげしく、そのためにキリスト教は、今世紀のはじめまでには、その偉大な神秘主義的伝統を、ほとんど忘れてしまわざるを得なかった。イスラム教の神秘主義的運動はスーフィズムと呼ばれている。真剣に神を求める多くの求道者を迫害し、死にもいたらしめた。正統派による抵抗、狂信者による暴力にもかかわらず、イスラム教もまた驚くほど多くの神秘家たちを生み、そのあるものは霊性の経験の絶頂に到達している。

 インドと、特にヒンドゥイズムと出会ってはじめて、私たちは宗教の自由と神秘主義のゆたかさを見いだす。ヒンドゥイズムによれば、至高霊の直接の直観的経験が、人の救われに不可欠のことなのである。ヒンドゥイズムにおける救われとは、悲しみと無知からの完全な解放である。人はこのムクティ、すなわち「解脱」という最高の自由に到達しないかぎり、くり返しくり返し生まれ、人生の、苦く甘い果実を経験しなければならない。霊的完成への道が深く研究され、それらがひとつの科学にまでなったのは、ヒンドゥイズムにおいてである。ヒンドゥイズムは、直接の高い直観的経験に達するための、四つの主な道を切り開いた。これらはヨーガと名付けられている。次にこれらを簡単に検討しよう。

  

カルマ・ヨーガ

 まず第一はカルマ・ヨーガである。ここでは、行為の結果から意志を切りはなすことに、重点がおかれる。これがいわゆる、動機をもたずにはたらくということである。これは、多くの人びとが想像するほどやさしいことではない。それは、巨大な意志の力を必要とする。しかし自分を自分の行為の果実から切りはなす、もっとたやすい方法がある。それは、その果実を主のみ足のもとにささげることである。イシャーヴァーシャ・ウパニシャッドの冒頭の、最も崇高な一節を、あなたはご存知だろう、「この世界の中で絶えず移り変わるものはすべて、神によっておおわれなければならない」世界全体が神のものである。このことに気づけば、人はあらゆる種類の欲望を放棄せざるを得ない。「主は与え、主は取り去りたもうた。主のみ名はほむべきかな」(聖書、ヨブ記、一―二一)と旧約聖書のヘブライの賢者は言っている。心が無執着と献身によって浄化されてくると、内なるアートマンが徐々ににかがやき出はじめるのだ。(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ全集、第七巻、一七九、一九八頁参照)

 

ラージャ・ヨーガ

 第二は瞑想の道、すなわちラージャ・ヨーガである。ここでは主な努力は、心の中に感覚の対象についての思いが生じるのをふせぎ、心をより高い通路にそってながれさせるようにすることである。大多数の人びとにとって、これはまったく不可能な芸当である。もしまったく準備をしないでこれを試みれば、おそろしい反動が起きるだろう。それ故、この道の代表的な解説者パタンジャリはそれを、一連の段階づけをした教程にした。まず第一は、ヤマとニヤマ、すなわち、一般および個人の道徳の訓練である。人はつねに、生き物を傷つけないこと、誠実であること、純潔であること、貪欲にならないこと、そして他者にたよらないこと、を実践せよ。自分自身の足で立つことを学べ。心身を清潔にたもち、満足の心をやしなえ。これらの教えを読み、深く思い、わがものとせよ。いっさいを、すべての教師たちの教師であられる神にゆだねよ。これらすべてに成功したのちに、彼は一定の姿勢ですわり、からだと心の中の宇宙エネルギーの流れの制御を意味する、呼吸の制御を学ぶことができるのだ。これがいわゆるプラーナーヤーマと呼ばれるものである。ある人びとはこれを過大に重要視するが、彼らはしばしば、彼らの内部ではたらく力を処理することができない。その結果は、一時的、ときには終生の脳の障害をおこすかもしれない。パタンジャリ自身は彼の霊性の生活の体系の中でプラーナーヤーマには大した重要性をみとめていない。ラージャ・ヨーガの次の二つの段階は外部の対象から感覚を引き込め、ある霊的な想念に心を集中させることである。この内的な心の集中が深まると、人は自分がプルシャすなわち自己であることをさとる。

 

バクティ・ヨーガ

 第三の道はバクティ・ヨーガである。ここでも訓練は必要であるが、人のさまざまの衝動を神の方に向けさせることが、最も重要視されている。世俗への執着は、神への愛に変えられなければならない。憎しみの情は、放棄の心とおきかえられなければならない。恐怖は、神への帰依とおきかえられなければならない。それとともに、彼は絶えず主を思いつづけなければならない。このために信者は、マントラとよばれる音の象徴をかりる。マントラとは、みじかい、神秘的な、きまった文句である。さらにまた、もっと長い賛歌や信仰の歌がある。これらすべての助けをかりて、信者は絶えず主を思いつづけなければならない。すると、彼は主の恩寵によって、霊性の生活におけるあらゆる障害を克服し、主のヴィジョンを得るのである。

 

ジュニャーナ・ヨーガ

 ジュニャーナ・ヨーガまでくると、私たちは、自己実現と呼ばれる霊的冒険に船出する求道者は、もっと高い水準の倫理性、もっと高い資質が要求されることを知る。彼は自分で自分を制御することができなければならず、かぎりない忍耐と信仰を持たなければならず、精神を集中できなければならない。彼は実在と非実在の識別ができなければならないし、現世および来世における快楽へのすべての欲望を放棄できなければならない。最終的には、彼はムムクシュトヴァム、すなわちあらゆる束縛から解放されたいという、はげしいあこがれを持たなければならない。これらすべての条件をみたすことは、決してたやすいことではない。

 ジュニャーナとは本の知識ではない。ウパニシャッドは二種類のヴィディヤーすなわち知識について述べている。一つはアパラーすなわちより低い知識、もう一つはパラーすなわちより高い知識である。アパラーヴィディヤーとは、感覚器官の知覚と推理によって得られる知識である。読書は、この種類に属する。パラヴィディヤーとは、究極実在を直接に、直観で経験することである。ジュニャーナ・ヨーガの全目的は、この超意識的経験を得ることにあるのであって、しばしばおちいりがちな、哲学上のさまざまの問題についての細事にこだわる議論に夢中になることではない。

 人は、シュラヴァナ、すなわち霊性の真理について読んだり、グルからきいたりすることから始める。これらの真理は、ウパニシャッドの四つの偉大なマハーヴァーキヤ(偉大な宣言)の中に、警句的に表現されている。しかし、彼はきくことのみにとどまっていてはならない。真理の性質とそれに到達できるということについての、心の奥底からの確信が得られるまで、きいたことを深く思索しなければならない。このことはマナナと名づけられている。多くの人は彼らが読む普通の事柄についてさえこのようにはしていない。私はある話を思いだす。ひとりの十代の少女が夕食に招待された、彼女はある著名な天文学者の隣にすわっていた。彼の感じのよい容貌が少しばかり少女の関心をそそったので、彼女は彼に、「あなたは何をなさっていらっしゃるのですか」とたずねた。彼は謙虚な態度で、「私は天文学をまなんでいます」と答えた。少女は失望した。彼女は、こんなに威厳のある紳士だから、もっとましな答をするだろうと思っていたのだ。「まあ、そのお年でまだ天文学を勉強なさっていらっしゃるのですか。私は天文学を、昨年おわりました」と言った。彼女の天文学の知識は、数冊の本を読むことで終わっていたのである。マナナの次にはニディディヤーサナがくる。これは、自己の性質の直接の探求である、もっと高い型の瞑想である。それは実際には、ネティ、ネティ、すなわち「これではない」、「これではない」という過程を通して、内に深く実在を探求することである。

 

ヨーガの目標

 人間の魂はすべて、至高霊の永遠の一部分である。シュリ・クリシュナはギーターの中で次のように言っている。

 「至高の霊である私の永遠の一部分が、生命の世界の中のひとつの生きた魂となって、五つの感覚と心を身につける。個別の魂が肉体を得、またはそれを去るとき、それはあたかも、風が花から香りをもち去るかのようにである」(バガヴァッド・ギーター、十五―七、八)

 無知があるかぎり、欲望があるかぎり、人は生死をくり返さなければならない。個別の魂が大霊に、すなわちジーヴァートマンがパラマートマンに、合一するやいなや、この輪廻転生はおわる。

 すべてのヨーガの目標は、知性によってではなく、自分が本来何であるかをさとることによって、この単一性を自覚することである。そのときにはじめて、至高の真理の、最高の霊的経験は現実となるのだ。魂を、エゴ、心、および感覚と同一視するのは、すべての人が生まれつき持っている、無知によるものである。たとえある人が彼の本性は彼の心とからだとは別のものだとさとったとしても、彼は自分のエゴを取り除くのはむずかしい、ということを知るのだ。シュリ・ラーマクリシュナは、そのことをアシュワッタの木にたとえて、いつも、「その木はたとえ切り倒されても、また芽を出してくるだろう」と話された。(「シュリ・ラーマクリシュナの福音」、協会訳、三六頁)

 いつわりの自我(エゴ)はきよめられ、霊化されなければならない。ヨーガのすべての道において、これが最高の目標である。カルマ・ヨーガは、仕事の成果を至高霊にささげ、奉仕の行いを通して、個人の意志を宇宙の意志に調和させるようつとめることを教える。まったく同じ意図のもとに、ラージャ・ヨーガは、ジャパと瞑想によってたえず内なる高い意識を強化することに努力しつつ、その修行のすべては、超越と献身をめざすものである。バクティ・ヨーガは、神の道具としての、愛にみちた献身と奉仕の態度を、くり返し説ききかせる。このようにして「私」は、何らかの方法で霊化される。最初は、神を父または友と考えてさしつかえはない。しかし私たちが不可分の自己の至福を知りはじめるのはただ、私たちの個々の人格の存在が絶対者の認識の中に消え去ったときである。ジュニャーナ・ヨーガは自己分析とタット・トヴァム・アシ(「汝はそれである」)などのウパニシャッドの聖句の意味を瞑想することによって、魂と至高霊の同一であることを経験するのを、目標にしている。

 これらのすべてのヨーガの基礎にあるのが、タパス(修行)である。バガヴァッド・ギーターの中でシュリ・クリシュナは、からだの修行、心の修行、言葉の修行の三重のタパスについて語っている。からだの修行とは清潔、正直、および節制である。人の感情を害することのない、誠実で有益な言葉をはなすこと、および霊的な聖句の朗唱が、話し言葉の修行である。この規則を守るなら、私たちは自分の話し方の習慣を検討し、無益で有害な言葉を話すことをやめなければならない。落ちつき、優しさ、寡黙、感覚の制御、ハートのきよらかさ――これらが心のタパスである。これらすべての修行は、着実な信仰と熱意をもっておこなわれなければならない。その上、視野の広さもなければならない。霊性の生活には、はたらきの果実を放棄するシュリ・クリシュナの修行体系と、シャンカラの直接の自己分析と、チャイタニヤの神への忘我の愛の道とが、必要なのだ。私たちはまた、ブッダの八正道、キリストの山上の垂訓、マホメッドの宇宙的な人類同胞主義からも、恩恵を得ることができる。これらはすべて、魂がその真の神聖な性質をさとるための準備をするさまざまの踏み台なのであり、それらはあらゆる宗教の神秘家たちによって強調されてきたものなのである。

 個体は、普遍者から離すことはできないものである。これが心の浄化につづいて起こるあの高い直観によって示される真理である。すべてのヨーガの道において、霊性の修行は愛から発し、至高霊への合一の意識は、必然的に全人類との合体の悟りに導く。神のみ名をくり返しとなえることと、すべてのもののハートにやどる神聖な霊を絶えず思い起こすことによって、信者は彼の生活を甘美にし、彼のエゴを神の意識に融合させることを学ぶ。彼の個人意識は、波が大海に融合するように、普遍者に融合してしまうのだ。「私は本質においてはブラフマンである。私は至高霊そのものである」と彼はさとる。この悟りが、真にさとった人びとすべてに見られる喜びの源である。人が自分は永遠の存在と一体であるとさとるとき、魂が至福の霊に合一するとき、それは、この全人類との一体性をさとるのだ。誰でもが、すべてのハートの中に影をうつしている神の恩寵と愛を、すくなくともかいま見ることはできる。人生への満たされない思いはそのとき、それを地上の天国に変える、平安の感じに置き換えられる。霊性の道は不幸からはじまるかもしれない。しかし、霊は一つである、ということがほんとうの現実として経験されるとき、私たちは闇の中にすわっている人びとに光をもたらすことができるであろう。このように、霊的な経験は、その人自身の幸福と平和のためばかりでなく、他の人びとの幸福と平和のためにも必要である。

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