瞑想と霊性の生活

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超意識的経験の理想(1)

なぜ私たちは霊的経験を必要とするのか

 私たちは内を深く見つめるとき、自分が自分自身に、自分が住む世界に、そして自分が接している人たちに、すこしも満足していないことを発見しておどろく。このような不満感が、現代の世界に増大していると思われるあらそいと緊張を、つくりだしているのだ。異常なあらそいと緊張は、心とからだを病気にする。原因は何であれ、自分の外面の生活様式に満足できないために摩擦を生じ、結果として心とからだの病気が生まれるのである。すると自分の生活は、無益で無目的であるかのように見えてくる。その上に、私たちが自分に不満を感じているときには、周囲の人びとに、安心ではなく不安をあたえがちである。からだの病気と同じように、心の病気も伝染するのだ。

 私たちは、ふさわしい仕事を得ているのだろうが、まちがった精神でそれにとりくんでいるのだろう。そうであれば、仕事に対するあたらしい態度を開発しなければならない。さもなければ、自分の特殊な才能を生かせない仕事をしているのかもしれない。その場合には私たちは欲求不満を感じ、その不満が、ときには有害でもある、奇妙な行動をひきおこす。おそらく他者にたよりすぎる、あるいは、自分のまわりにありもしない敵意を感じ、その想像上の敵たちとのたたかいに自分のエネルギーを浪費するかもしれない。あるいは、自分を周囲から孤立させて自分の理想像をつくりあげ、愚者の天国にすむかもしれない。心の病気の最悪の症状は自分を憎みはじめたときにあらわれ、それ以後の人生は二重に悲惨なものとなる。

 その治療法は? そのようなことについて私たちは何をすることができるのか。賢明な心理学者は、「それをめざして意義ある人生をおくることができるような、理想を見いだそうと思ったら、私たちはまず、自分の性質を深く理解しなければならない」と教えている。私たちは自分自身の見方を変えることによって自分を変えることができ、このあたらしい態度が必然的に、自分のエネルギーの適切な出口の発見をもたらすのである。どうしたら自分自身の見方を変えることができるのか? それは精神分析によってなし得る、と心理学者は言う。私たちは心理学者に自分をしらべてもらわなければならない。彼は私たちの人格の深層をさまざまの知的な質問によって打診し、かくれたコンプレックスを発見し、実際に私たちのどこがまちがっているかを告げる、理論的にはこの方法はまったく正しいように見え、たしかに、精神分析から多少の利益を得た多くの人はいる。しかしその限界は、心理学者の他者についての知識が通常、彼の彼自身についての非常にあさい知識にもとづいている、という事実にある。

 西洋の心理学者たちはそのあらゆる研究にもかかわらず、人間をその深層において理解することに成功していない。彼らはたしかに、人の意識的な心は広大な無意識の心の支配下にあり、意識的な心と無意識的な心はその動きにおいてしばしば矛盾している、ということを発見した。意識的な心は高い渇望をもち、一方無意識的な心はいやしい情欲にみちていることがありうる。無意識的な動機は意識的な行動や考えと反対にはたらく。しかし西洋の心理学は、人の無意識的な心を統合する、十分に納得できる方法を発見できないでいる。大部分の心理学者がその患者にすすめるのは、無意識的な心の要求をみとめよ、ということである。それはある場合にはたしかに、内面の緊張をゆるめるかも知れない。しかしそれは恒久的な解決法ではなく、むしろ有害である。

 ヒンドゥのヨーガが、考慮され介入してくるのはこの段階においてである。ヨーガはまず第一に無意識の浄化からはじめ、無意識と意識を両立できるようにする。この浄化は決して人工的なものではない。きよらかさは私たちの本性なのだから。それは人の「自己」の、真の性質である。ヒンドゥイズムははるか昔に人の人格のもっと高い次元すなわち超意識を発見した。私たちの真の、もっと高い自己についての知識を私たちにあたえてくれるのは、超意識である。それは「自己」の光をうつしている。この光が心のくらい、無意識という部屋にそそがれなければならないのである。そのとき、無意識の心は浄化される。するとそれは意識的な心およびその渇望と協調するようになる。内面の分裂、あらそい、および緊張は消失する。それゆえ、内面の平安と調和を得るためには、超意識の発見がもっとも重要なポイントである。超意識の発見が、第一の霊的経験である。これが、無意識の心と意識的な心とを統合するものである。私たちは、自分の全人格を、すなわち全自己を、とりもどすのである。

 霊性の経験は私たちに超意識の知識をもたらすだけではなく、無意識的な心の諸問題をも解決する。私たちの問題のあるものは、無意識の心の中にかくされているコンプレックスから生まれている。性欲は多くの人びとには、特に青年前期には、摩擦の原因であるかもしれない。しかしフロイトのようにことの軽重をあやまって、人の生活におけるその役割を誇張することは、たしかにまちがいである。ある人びとの場合は、人の中の、他者を支配したいという攻撃的な傾向が摩擦の原因かもしれない。しかしアドラー博士が彼の心理学として主張するようにその攻撃性の役割を誇張し、それがあらゆる病気の原因であるとするのも、たしかにまちがっている。いわゆる唯物主義の西洋に長いこと滞在するうちに、私は霊的に飢えている多くの人に出会った。彼らの問題は主として霊的な性質のものであった。彼らの多くは通常の生活のよろこびに、また制度化した宗教の因習的なあり方にさえ、満足していなかった。彼らはもっと高い経験を、もっと高い存在をさがし求めていた。

 心理学者カール・ユング博士は人間の霊的な要求をもっとも早く理解した人びとの一人であった。彼は、現代人は自分の魂をさがし求めている、と指摘した。しかしユング博士自身が彼の真の自己を見いだすことばできなかったと思われることは、彼の著書によってあきらかである。私はスイスで彼に会い、私の著書のいくつかを贈呈した。彼は私に、無意識のことを話した。彼は、ヒンドゥたちの言う超意識は無意識に包含される、と言った。それは奇妙な学説である。実は、それはあべこべである私たちは普通、からだは最外層であり、心はその内側のもの、たましいはその中にある、と考えている。その順序は逆にしなければならない。アートマンすなわち「自己」は無限、かつ普遍の意識である。心はその内部に含まれている。さらにその内部に、限定された、もっともひろがりのない肉体があるのだ。

 超意識はいまのところ私たちには知られていない。しかしそれだからと言って、それが心理学者の言う無意識と同じものである、などと言うことはできない。それは霊性の修行によって得られるものである。それは至高の平安と至福の源である。何にもまして、それが人間に、完全無欠感と至高の成就感をあたえるのである。

 ユング博士は人間の性格類型を内向型と外向型に分類したことで有名である。内向型はくよくよと考え自己批判する傾向があり、主として彼自身の心の内部の主観的な世界に生きる。外向的な人は社交的であり、事件という外的世界にいそがしく従事する。彼にとっての現実は行動という客観的な世界である。これらの類型はたがいに相いれないものではない、私たちは自分の内にその両面を見出すことができる。ヴェーダーンタでは、カルマ・ヨギ(仕事に方向づけられた人)、バクタ(信仰の人)ジュニャーニ(知性的な人)というわけ方をする、しかしこれらの類型は完壁な区画というわけではない。私たち各人の中に、これらの類型の要素のいくらかづつがかならず存在している。私たちはさまざまの性質傾向の間に適切な調和をもたらさなければならない。訓練によって、私たちは自分の性質の中のさまざまの傾向を結合し統合し、最終的にはそれらすべてを超越することができる。このように私たちは熱心に仕事をし、高い理想への熱烈な信仰をもち、そしてまた、自分の思いと働きにおいては理性的であることができるのである。しかしそうなるためには、統一する力としての熱烈な霊的渇望がなければならない。

 「神経症的緊張からの解放」という本の中で著者フィンク博士は、弛緩法の実践を積極的に推奨している。彼はつぎのように言う、「最初はあたまとくびを、つぎには左右のひざと脚を、それから胸部、両腕、まぶたなどつぎつぎに、全身をゆるめる練習をせよ」と。そのような断片的な緊張の緩和は、正しく行われるなら、たしかに効果はあるだろうが、私たちの師たちはつぎのように教えている、「私たちは自己分析と瞑想によって、自分の全人格を制御できるようになる」と。これは、からだの部分部分を一度に一つずつゆるめる試みよりも、はるかに有効で永続的な緊張除去法である。

 適当な訓練によって、心を制御し、一度に自分を解放するような霊的経験を得ることができるというのに、苦労して、一部ずつばらばらに解放する必要などがどこにあろうか。私はあるけちん坊の話を思い出す。彼は臨終の床にあった。そして彼を「救う」ために神父が呼ばれてきた。その神父は欲の深い人であったので、彼を一部分ずつ救うことにし、救うべきあらゆる部分に料金を課した。最後の右脚に来たとき、神父は、「彼はこれでいなくなるのだから、ここで大金をとってやろう」と考えた。それでそのけちん坊に向かって大声で、「さて私はあなたの右脚には大金を要求したいと思う」と言った。今にも死にそうになっている彼は、非常に勘定だかい人であったので、あるかぎりの力をふりしぼって言った、「しかし、神父さん、これば義足です」と。神学者たちが人を一部分ずつ救うことについて何を述べようとも、真の霊性の教師たちはもっと有効な救済法を知っている。それは、より高い自己を直接知覚することによって自己を解放する、という理想である。霊的経験は、全人格を変える。深い平安と至福が魂をみたし、心身の完全な解放をもたらすのだ。

知覚――直接の知覚と間接の知覚

 宗教を意味する正しいサンスクリットはダルシャナである。このダルシャナという言葉は二つの意味を持っている。それは見ること、あるいは悟ることを意味する。それはまたこの悟りに導く道、あるいは修行を意味する。私たちは宗教という言葉で両方を意味している。ダルシャナという言葉はまた、哲学の意味に用いられる。ヒンドゥイズムには六つの哲学体系があり、それらはすべてダルシャナと言われている。

 ヒンドゥイズムでは宗教と哲学は不可分で、それらは同意語でさえある。両者の共通の目的は真理の直観的なヴィジョンであり、両者はたがいにおぎないあう。マックス・ミュラー教授が、「この二つが調和して協力しているのはインドだけである。そこでは宗教はそのヴィジョンのひろがりを哲学にまなび、哲学は、その霊性を宗教から得ている」と述べているのは非常に正しい。宗教が哲学の実践型であり、哲学は宗教の理論型である。ヒンドゥの哲学者たちは、第一に霊性のさとりを得た人びとであった。それゆえ、彼らの哲学体系は、超越的な経験にもとづいているので、もし誠実に信仰をもって実践されるなら、同じ目標にみちびくのである。

 人生は、人格と環境との不断の相互作用である。人格はさまざまのレベルを持つ。環境もそうである。物質の体は物質の世界と交流している。心の体は心の世界と交流している。霊性の体、すなわち魂は、宇宙霊、すなわち神と交流している。人格は、これらさまざまのレベルのすべてにおいて、経験をすることができる。私たちはどのレベルにとどまっていても、その特定のレベルの経験が真実である、と思うのだ。目がさめているときには私たちの注意を完全にうばう多くのものを見る。夢を見ているときにも、多くのものを知覚するが、夢を見ている間は、私たちにはそれらが現実である。これらすべては知覚、すなわちダルシャナであるが、かならずしも真実ではない。それゆえ、私たちはうその知覚から正しい知覚を識別しなければならない。インドの哲学では、正しい知覚の判断基準についての多くの論争がある。科学者は物質的なものの真理を知りたいと思う。彼はまた、彼が知覚する事実を実験的に証明する。心理学者もまた彼のダルシャナを持っている。彼はその洞察力で、思いの法則を発見する。霊性の求道者は、神すなわち究極実在を直接に経験したいと思う。それはアパロクシャーヌブーティ(直接経験)と呼ばれるものである。

 私たちは自分の感覚の知覚を重く考えすぎている。自分は外界の事物を直接知覚しているのだ、と思っている。決してそうではない。外界の事物から刺激が目に入ってくる。目からメッセージが心にはこばれ、それから認識者である自己に運ばれてくる。何という間接的な過程か! しかも私たちは、それを直接の知覚と名づけてきているのだ。真の直接の知覚、すなわちアパロクシャーヌブーティは、真理が「自己」すなわちアートマンの光によってじかにあらわされるものである。この内なる光は、心と感覚を通してかがやく。それはまた、それみずからでもかがやくことができる。それが超意識である。それはときにはトゥリーヤとよばれる。私たちの経験は通常、意識の三つの状態の範囲におよんでいる。すなわち覚醒状態であるジャーグラト、睡眠状態であるスワプナ、深い睡眠状態であるススプティである。これら三つの状態とは別に、第四の状態トゥリーヤがある。それは、厳密にいえば他の三つのような「状態」ではない。それは超越意識の一つの形であって、他の三つの状態はそれの部分的なあらわれにすぎないのだ。その状態に入ると魂は、自分が無限の霊の一部であることを悟る。

書物の知識では不十分である

 霊性の修行は、書物から得た知識にたよってこころみられてはならない。もちろん私たちは、情報を得るために書物を読む。しかし、どのような考えはとりあげ、どのような考えはすて去るべきかを知らなければならない。私たちはさまざまの修行法について読むであろうが、まず最初にどれが自分に適しているかを知らなければ、それらを実行しようとこころみてはならない。私たちは多くの修行法を知り、そのために心の視野はひろがるだろう。しかし私たちは、自分にはどの方法がふさわしいかを知らなければならない。通常は試験的である、霊的生活の初期の段階では、私たちは自分におこる心とからだの変化に注意し、それに順応しながらゆっくりと進まなければならない。

 正しい方法でもふさわしくない人によって行われれば悪い結果を生じる。それゆえ求道者には、ふさわしい資格が要求されるのである。しかし現代は誰でもがどんな本でも買って、何かの修行法について読み、それを実行することができる、そしてわざわいも、招くのである指導はつねに、相手によって異なるものである。ある人にとっては栄養物であるものが、別の人にとっては毒物であり得る。各人がみずからの境地の法則にしたがい、その心理的肉体的状態に応じて、危険のないように自分を律して行かなければならない。正しい基礎の上に建物がたてられれば、問題はない。そうでなければ、それは倒壊する。

 一般には、私たちが愛しているのは真理ではなく、私たちはただ、何ものかの中にある自分を愛しているのだ。その考えが真理をあらわしているからではなく、それが自分の考えであるから、その考えに夢中になるのである。そして知識のとぼしさは、つねにもっとも危険なことである。

 「神は、『彼』は知られていないと真に知っている人に知られている。『彼』は知られている、と思っている人には知られていない」(ケナ・ウパニシャッド、二―三)

 誠実で着実な信者に、主は彼の栄光をあらわされる。信者の仕事は、神すなわち無限者と波長をあわせることである。そのとき主は、彼の栄光を彼にあらわされる。人が神に近づこうと努力するのとまったく同じように、神はつねによろこんで人に近づこうとしておられるのだ。

 科学者や哲学者による自然の神秘の知的な探求では、真理をあきらかにすることはできない。たとえ知性によって事物の根本原因を発見しようと努力しつづけても、あなたはそれが不可能であることを知るだろう。現象を切り抜けて真理をさとるには、もっと繊細でもっと精妙な器官が必要なのである。実に非常におかしなことに、私たちのからだ、思い、およびすべてを含むこの現象の世界にはセンスはない――少なくとも私たちにはそう見えるのだ。形なきものが形をとる――その理由は何か。それはまったく、理由もなにもないものと思われる。なぜならそれは理性を超越していることなのだから。マーヤーのこの多様かつ複雑な遊戯には、まったく説明がないだけでなく、これまで相対世界の言葉でそれを説明することのできた人もいない。あなたがそれを、キリスト教信者がいうように神のご意志と呼ぼうと、ヒンドゥのように神のリーラーすなわちスポーツまたはお遊びと名づけようと、相対的世界では、まったく説明することはできない。それは超越することはできるが、説明することはできないものである。

 あらゆるものの究極の証明は直接の知覚である。もし神がおられるなら、『彼』は見られなげればならない。彼は感じられなければならない。単なる推理は何の役にもたたない。私たちは、彼を見た人びとの言葉を信じなければならない。そしてそれから、自分の生命の中に、彼らの経験を実証しなければならないのである。最初は、ただ信じることが必要なのだが、それだけでは役にたたない。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは「ラージャ・ヨーガ」の序文の中でつぎのように言っている。

 「知識のいずれの分野においてであれ、この世界に一つの経験があったなら、その経験はこれからも永久にくりかえされるであろう、ということは理の当然である。……だからヨーガという科学の教師たちは、宗教は古代の経験にもとづいているばかりでない、それと同じ知覚を自分が得るまでは、何びとも宗教的ではありえないのだ、と言明する」と。

 これが、私たちが永久にすがりついていなければならない、神の悟りの理想である。

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