スワミ・ヴィヴェーカーナンダの思い出(7)
私がみたスワミ・ヴィヴェーカーナンダ
シスター・クリスティン

若干の独断の言葉

 幾つかの偉大な思想が特に目立っている。それらが最も重要であるからというよりは、むしろそれらが耳新しく人の意表をつくものであるために。例えば、スワミジがヤージュナヴァルキヤとマイトレイの物語を語って「まことに、愛されるのは夫ではなく、夫の中にある『自我』である」という引用句で結んだときのように。

 愛。「すベての愛はひとつである。私たちは子供、父、母、夫、妻、友人を愛する。それは私たちが彼らの中に『自我』を見るからである」というのは新しい思想であった。それは照り透る浄福の光である。母親は子供の中に神性を感じる。妻は夫の中にそれを見る。それは他のすべての関係においても同様である。私たちはそれをいろいろな仕切りの中に入れて、母親の愛とか、子供の愛とか、恋人の愛とか呼んでいる。まるでそれらがさまざまな形に表現されている同一の愛ではなくて、さまざまの異質の愛であるかのように。

 浄福――歓喜。「歓喜の中に私たちは生まれた、歓喜の中に私たちは生きている、そして歓喜に向かって私たちは復帰する」罪の中に生を受けたのではなく、喜びの中に生を受けたのである。喜びは私たちの本性。それは達成されるべきもの、獲得されるべきものではない。「汝はそれなり」悲しみの、悲劇のさ中にあってもなお、このことは真実である。なお、私は言わなければならない「われは浄福そのものなり、光輝く存在なり、それはなにものにも依存せず、またなにものもそれに依存せず」と。これは恐ろしい、そしてまた同時に美しい真理である。

 成長。いままで私たちは、究極の解脱と覚醒は成長の結果である、すなわち遂に目標に達するまで、より高くより良きものに向ってたえず行われる漸進の結果である、と信じてきた。しかし、私たちはこの「古代の叡智の師」から、この過程は成長の過程ではなく、発見の、実現の過程である、という、ということを学んだ。人間の本性はいますでに「完全」であり「神聖」である。獲得すべきものはなにもない。真理はただ実現するだけでよい。自分は不完全であり、限定されており、無力である、と考えるのは妄想である。私たちは、完全であり、全知全能であり、神聖である。私たちはいますでにそれなのである。それを実現せよ。そうすれば貴方は直ちに自由になるであろう。

 神の化身。彼は、イエス・キリストは神の子、神の化身であると信じていた。彼はイエスを崇拝し、尊敬した。しかし唯一の化身として、ではない。他のもろもろの時代、他の諸国において、神は他の人々にもこの慈悲を授けておられたのである。

 ゾロアスター教徒。彼はゾロアスター教徒の話をした。千年前に回教徒の大群がペルシャを征服したとき、インドに逃れて救われたゾロアスターの信者たちの残存者である。これら火の子たちは、現在でも彼らの古代の儀式を忠実に守っている。彼らはこの儀式を彼らが新しく選んだ国(インド)で誰にも邪魔されることなく自由に守りつづけてきたのである。彼らは、比較的小さな共同生活体であったが、名誉ある地位を獲得し、数多の偉大な人々を生み出した。彼らの中に批判すべき何かがあるとすれば、それは多分、彼らがあまりにもお高くとまっているということであろう。千年近くもこの国に住んでいながら、彼らはインドと同化せず、自分たちをインド人とみなさないからである。(原書の編集者の註=当時は尚かくの如きであったろうが現今は事情がちがう)

 キリスト教。キリスト教は、と彼は私たちに語った、キリストのはりつけがあってから約二十五年後に使徒トーマスによってはじめてインドに紹介された。インドにはいまだかつて宗教的迫害というものはなかった。それで今日でもキリスト教への最初の改宗者の子孫たちが南インドに住んでいる。キリスト教はヨーロッパがまだ未開の状態にあった頃、インドで最も純粋な形でひろめられた。教徒の数はいまでは百万人にも達しないが、一時はそのほとんど三倍以上もあった。

 同一性。ひところ、自分の努力は同一性を成就することに向けられた、とスワミジは私たちに語った。そしてしばしば次の言葉を引用した。「すべてのもの中に等しくいと高き主のすみ給うをみる者、滅ぶるものの中に滅びざる者をみるものは、真に見るものなり。何となれば、主の等しく到る所にましますを見るによりて、彼は自我によりて自我を破ることをせず、やがて最高の目標に到達す」私たちは彼がその頃に書いた詩句を思い出した。「愛と憎しみ、善と悪、およびすべての二元的集り」……「賞賛も非難もあり得ず、賞賛者の称えたるところと非難者のそしりたるところは一つなるものを」

 彼がこのことを日常生活の些細な出来事の中においてどのように実践していたかということを私たちはまのあたりに見ることができた。この実践を特に困難ならしめる感受性と誇りとが、彼の場合にはどれほど強く高いものであったか、そのことを私たちが理解したのはずっとずっと後のことであった。「彼をデトロイトから追い出す」と脅したカルカッタと長年のむすびつきのある宣教師の一家の陰謀に対してなぜ身を守らないのかと尋ねられて、彼は答えた。「大は象に向って吠えますが、象はおどろくでしょうか。象は何を気にしますか」彼が一緒に暮らしていた男は気性が荒かった。「なせあんな男と一緒に暮らすのですか」とある人が尋ねた。「ああ、私は彼を祝福します。彼は私に克己を実習する機会を与えてくれます」と彼は答えた。あらゆる代価を払って安楽を求めようとする西洋的な考え方の私たちにとって、それは何という啓示であったろう。このようにして私たちは日々刻々ギーターの偉大な理想が日常生活の実際経験の中で実践されるのを見た。友の中とひとしく敵の中に、賞賛者の中とひとしく非難者の中に自我をみること、名誉にも不名誉にも動かされないということ、これは彼の不断の霊的修行だったのである。

 彼の年輩の者が一夜にして、というよりむしろ数分のうちに名声をあげるなどということは滅多におこるものではない。しかしこのことが宗教会議におけるヴィヴェーカーナンダに実際におこったのである。それは単なる名声ではなかった。彼がまきおこした熱狂は、時には盲目的な追従にまで発展した。気狂いじみた大衆の感動の中にあって、彼はまるでヒマラヤ山脈の洞窟の中で独居しているかのように、微動だにしなかった。他の人々がそれを得るためには生涯の努力を措しまないこのことを、彼は傍らに斥けて「名声と名誉の汚れたぼろきれ」と呼んだのであった。

 時々彼は予言者的な気分になることがあった。例えばある日、次のようなことを述べて私たちを驚かせた。「新時代をもたらす次の大変動はロシアまたはシナ(中国)からやってくるでしょう。どちらかははっきり分りませんが、ロシアかシナのいづれかです」これを彼は今から三十二年前に言ったのだが、その頃シナはまだ満州人の帝王の独裁的な支配の下にあって数百年以内に解放される見込みなどは全くなく、帝政ロシアは国民の中の最も高貴な人々をさかんにシベリアの鉱山に向けて送り出していた。普通の思想家たちにとって、この二つは世界中で新時代の導入者となる見込みの最もうすい国々と思われていたのである。

 私たちの質問に答えて彼はこう説明した。初め、社会はバラモンすなわち祭祀者階級の支配下にあって神権政体であった。次に、軍人階級、クシャトリヤがこれを嗣いだ。いま私たちはヴァイシャの支配下にあって、商業的利益がこの世界を管理している。経済的考慮が最も重要なのである。この局面は最終段階に近づいており、やがてシュードラ、すなわち労働者階級がこれにかわって台頭するであろう。更に質問が出た。商業時代が終りに近づいているということがどうして分ったのか。もっと不思議なことは、ロツヤまたはシナがそれをうながす国であるということを、彼がどのようにして予見したのか。彼の場合、それは「私はこう思う」という言葉で始まる意見の表明ではなく、権威をもって語られる事実の声明であった。

 しばらくたってから彼は言った。「ヨーロッパは噴火口のふちに立っています。霊性の洪水によってこの火が消されないかぎりヨーロッパは爆発するでしょう」これは繁栄しており平和であった一八九五年のヨーロッパについて言われたことである。それから二十年の後に爆発がおこった。

蒙古人

 豪古人はスワミ・ヴィヴェーカーナンダを魅了したらしい。彼はインド史のこの時期を劇的な迫力をもって描いてみせたので、私たちは時々、彼が自分の過去世の物語をしているのではないかと思うことがあった。私たちはかの強大なアクバルの化身をまのあたりに見ているのではないかといぶかることもしばしばであった。そうでなければ、豪古人の中で最も偉大なこの人の思想、希望、目的を彼がどうしてそのように知ることができたであろう。

 ひとは解脱をとげるべき人生に達する前に、あらゆる種類の経験をつまなければならない。あらゆる悲劇と最も恐ろしい貧苦の苦しみをなめつくし、富、追従、名声、権力、有頂天の幸福、支配権等々、この世が提供する一切のものを極限まで楽しみつくさなければならない、というのが彼の信条の一つであった。「幾百万回、私は帝王になったことがあります」と彼は彼特有の豊かな表情で語るのであった。また、完全な成功が得られなかった努力の幾生涯のあとで、この世の成功をおさめる最後の人生がやってくる。ここで、その魂は偉大な皇帝か皇后になる、というのが彼のもう一つの思想であった。究枚目標を成就する最後の人生は、この生涯の次にやってくるのである。アクバルは皇帝になった生涯の前の生れ替りでは宗教的求道者であった、とインドでは信じられている。彼はわずかのことで最高のものに達し得なかったので、その願望をみたすためにもう一度人生に戻ってこなければならなかったのである。彼にはもう一度だけ生れ替りがのこっていた。

 スワミは私たちのためにこれらの歴史上の人物――支配者、王妃、首相、将軍等々を実にいきいきと描いてみせてくれたので、まるで彼らが実際に生きている私たちの知人になるように思われた。私たちはフェルガナ(中央アジア)の十二才の王、バーバルが豪古人の祖母の感化を受け、母親と共に苦難にみちた生活を送るのを見た。彼が後に、未だ少年ではあったが、サマルカンドの王として百日間王位につくのを、そしてまるで特製の玩具でも得たかのようにその新しい所有物に有頂天になるのを見た。彼の夢である都を失ったときの彼の無念と狼狽、彼の苦闘、敗北および征服を見た。やがて彼とその部下たちが長靴をはき拍車をつけてそびえたつ山々の峠をこえ、インドの平原へくだってくるのを見る日がやってきた。異国人であり侵入者ではあったが、インドの皇帝として、彼はインドに同化し、直ちに道をつくり、樹木をうえ、井戸をほり、街をたて始めた。しかし彼の心はいつも彼が生れそして遂には埋葬されたかの豪古の高原にあるのであった。彼は愛すべきロマンチックな人物で、人類の歴史上最も偉大な王朝の一つの創設者であった。

 彼の死後、王国は他の手に落ち、バーバルの息子フマユンは逃亡者になった。シンドの荒野の中を数人の従者と共にいのちからがらあちこちと逃げまどった。ここで彼は若くて美しい回教徒の娘ハミダに違い彼女と結婚して彼の最も不幸な運命をわかち合った。私たちは彼が自分の馬を彼女にゆずって自分は彼女のそばを歩いていくのを見た。そしてシンドの荒野の中で、後に皇帝アクバルとなる彼女の一人息子が生れた。逆境にあったフマユンは息子の誕生を祝うために従者たちに与えることのできるものといえばわずかのじゃ香しかもち合せていなかった。これを彼らに分配して彼は祈った。「順わくは我が子の栄光地の果てまで広まらんことを。このじゃ香のかおりのはるか彼方に及ぶごとく」

 フマユンは王国を奪回したが、これを長くおさめることはできなかった。四十八才のときデーリーの宮殿で致命的な事故にあって急死し、十二才を迎えたばかりの一人息子アクバルに王座をゆずったのである。以来、六十三才で死去するまで、アクバルはインドの卓越した統治者であった。彼のようにすぐれた資質をかねそなえていた人物は人類の歴史上きわめてすくない。彼の高貴さ寛大さは彼の偉大な将軍バイラムをさえ恥じ入らせた。まだ少年の頃、敵の一人が彼らの前につれてこられ、バイラムが若い王の手に剣を渡して敵を殺すようすすめたとき、彼は言った。「私は陥落した敵は殺さない」彼の勇気は非の打ちどころがなく、すべてのものの尊敬をうけた。スポーツで彼の右に出るものはほとんどいなかった。彼ほどすぐれた射手、すぐれた球戯者、すぐれた騎手はいなかった。しかもこうした一切にもかかわらず、彼はその日常生活において非常にきびしい禁欲者であった。「なぜ自分の胃袋を墓場にしなければならないのか」と言って肉食をしなかった。毎夜二、三時間しか眠らず、多くの時間を哲学上宗教上の討論をしてすごした。回教徒ではあったが、あらゆる宗教の師に耳を傾けた――傾聴して質問した。よびよせたバラモンから幾夜をかけてヒンズーのヨーガの秘密を習得した。

 後年、彼は自分が宗祖となるべき新しい宗教――回教ばかりでなく、ヒンズー教、キリスト教およびゾロアスター教をも含む「聖なる宗教」を打ち立てることを考えていた。

 王の中の王ではあったが、彼はまた真実の友をつくることを知っている人であった。この「神の影」にふさわしい友人として三、四人の者がいた。首相であるアブール・ファズル、桂冠詩人ファイズィ、バラモンの吟遊楽人バーバルおよび義弟の司令官――マン・シンである。彼の友人たちは気らくな時間を彼と共にしたばかりでなく、謁見室でも彼に伴し、戦場までも彼に従った。私たちは、ラジプト人との戦いで彼の生命が危険にさらされるとき、彼らが剣の切先を並べて彼を守護するのを見る。彼らは、回教徒もヒンズー教徒も同様に新しい宗教の信奉者になり、彼が企てる事業のすべてを忠実に支持するのである。彼ほど真実の友に恵まれた人はいなかった。これは普通の世間でも稀なことであり、まして彼のように高い地位にあるものにとってほとんど前例のないことであった。彼の帝国はカブールから南インドの発端までひろがった。為政者としての彼の天才は、後に皇帝ジェハンギルとして知られた彼の息子サリムにその全領土をそのまま譲ることを得させた。この「アクバルの偉大な息子」の支配下に、宮廷は従来のあらゆる贅沢の観念は色あせてしまうほどの華やかさに達した。

 ここでジェハンギルの妃、世の光と言われて二十年間インドの事実上の統治者であったヌル・ジェハンの魅惑的な姿が現れる。この非凡な女性の影響ははかりしれなかった。帝国の安定と繁栄と実力は彼女の叡智と気転に負うところ少くなかった。彼女の夫は彼女の名で金硬貨を鋳造させ「黄金はヌル・ジェハンの像を帯ぶるにより新たなる価値をえたり」という銘を刻ませた。彼女に対する大帝の信用と信仰は量りしれなかった。彼女に権力をゆずってしまったという親族たちの抗議に対して「なぜいけないのか。彼女はこの権力を私よりもはるかに有効に用いるではないか」と答えた。病気になったとき彼はすべての待医たちの治療よりも彼女の看護を好んだ。彼女は彼のいつものならわしをおさえて一日に三杯のぶどう酒で我慢させることのできた唯一の者だった。

 アクバルの建築物にみられる男性的な赤色の砂岩のかわりに宝石や華宝石をはめこんだ白色の大理石を用いる新しい建築法、女性的な建築様式が導入されたのは、ヌル・ジェハンが主権を握っている頃であった。荒けずりの石壁が宝石の壁にかえられたのである。ペルシャの繊細さと優雅さが中央アジア高原の男らしさと力強さにとってかわったのである。この様式の後世への遺産は、タージ・マハールと、アグラやデーリーやラホールにある大理石の宮殿であった。ジャムナ河の対岸にあるイトマド・ウド・ダウラの墓として知られている優雅な建物はヌル・ジェハンが、大蔵大臣であり後にジェハンギルの首相になった彼女の父を記念してたてたものである。これは新しい建築様式による最初の建物の一つであった。この建物の宝石はヌル・ジェハンの奴隷がはめこんだと信じられている。この最初の不完全なこころみをタージ・マハールにおいて達成された完全さ、四十四個のさまざまに異る赤色の石を使って一枚のバラの花びらの繊細な色調を表現している見事さと比較するのは興味深いことである。技術の進歩には驚くべきものがある。

 アグラ宮殿の中にあるヌル・ジェハンの住居サマン・ブルクも彼女みずからの監督のもとに装飾されたものである。彼女はまことに偉大な芸術の後援者であって彼女の慈善は数えきれなかった。

 個人または民族の中にある偉大さを見出すという才能にめぐまれたヴィヴェーカーナンダのような人が回教徒をこれほど深く理解し得だということは不思議ではなかった。彼にとってインドはヒンズーだけの国ではなかった。それはすべてを抱擁していた。「私の兄弟である回教徒」というのが彼がしばしば使った言葉であった。これら回教徒の兄弟たちの文化、宗教的信仰および彼らのたくましさに対して、彼は回教徒の中にも並ぶ人がないほどの深い理解と尊敬と一体感を持っていた。彼の数多くの航海の一つに同行したものは、一行の船がジブラルタルに寄港したとき、回教徒の水夫たちが地に伏して「ディン、ディン」と叫んだのをみてヴィヴェーカーナンダがどんなに感激したかを語ることができよう。

 紀元六○○年の頃、没落した祖国を救おうとしたかの若いアラビヤのらくだ引きのことを、彼は幾時間も語りつづけるのであった。祈り明かされた夜々の話。荒れはてた山中での長い断食の末に彼の前に現れたヴィジョンの話。神への情熱と彼に示された啓示とによって、彼は「覚者」の一人となり神に選ばれた者と永遠に共することになった。このような「偉大な者」たちはごく少ない。その一人一人について、ひとは心から言うであろう。「彼の王国は尽きるところなかれ」

 私たちばアラビヤであろうとパレスチナであろうとインドであろうと、神の子たちは新しい生命を得ると同じ言葉を話すことを知っている。彼は普通の人間には気狂いと思われる予言者の孤独を感じた。数年間というもの、ごくわずかの人々だけが彼を信じ、彼の教えを信じたのである。少しづつ、少しづつ私たちは忍耐と慈悲、すなわちこのアラビヤの予言者の肩にかかっていた使命の重荷を理解した。

 「しかし彼は一夫多妻を主張したではありませんか!」と清教徒的気質をもつある人が抗議した。ヴィヴェーカーナンダは、モハメッドがしたのは妻の数を四人に限定することであったのだと説明した。これよりもずっとひどい多妻制が当時のアラビヤでは行われていたのである。

 「彼は女性には魂がないと教えました」と他の女信徒が声をとがらせて言った。これは回教における女性の地位についての彼の説明をうながした。彼の言葉に耳を傾けていたアメリカ人たちは、回教徒の女性は言わゆる自由なアメリカの女性すら享有しないある権利をもっていた、ということを知ってやや無念に思った。こうしたつまらぬ質疑応答から、私たちは再びもっとひろやかな空気の中、もっと遠大な地平線へと導かれていった。その見解がどんなにせまく低いようにみえても、モハメッドは世界的な偉人であり、そして彼が解放した力はこの世界をゆり動かし、まだ完全に消粍していない、ということは否定することができない。

 彼は故意に新しい宗教を創設しようとしたのだろうか。運動は彼の側の意識的な思わくなしに展開したのであって、最初彼は自分の大なる経験に没頭し、この貴重な結果を他の人々にも分とうという熱意に燃えていた、と信ずるほうがむしろ容易であろう。彼の在世中にその運動がとりた形式は彼の心にかなったものだったのであろうか。その後間もなくおこった戦いが彼の計画の中には含まれていなかった、ということは確かである。一つの大きな力が解き放たれると、誰もそれを制することができない。回教徒の大群はアジアを席巻し、ヨーロッパにもはびころうと威嚇した。スペインを征服したあと、彼らはそこに立派な大学を設立したが、ここに当時知られていた世界の各地から学者たちをひきよせた。ここでインドの叡智が、東洋の伝統が教えられた。彼らは優雅さ、上品さ、美しさを日常生活にとり入れた。彼らは後世にサラセン様式の建築、この上もなく美しい建造物と、学問の伝統を、そして少なからぬ分量の東洋の文化と叡智をのこした。


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