スワミ・ヴィヴェーカーナンダの思い出(6)
私がみたスワミ・ヴィヴェーカーナンダ
シスター・クリスティン

サダーナンダ

 ヴィヴェーカーナンダが彼の最初の弟子をつくったのはこれらい遍歴の間のことであった。ある日、ハトラスに着いた列車の三等客の中に、若い駅長は不思議な眼をした一人の自分と同年輩の修道士を見た。わずか数日前の夜、彼はまさにこれと同じ眼を夢の中で見た。それ以来、この眼が彼につきまとって離れなかったのである。彼は驚きかつ戦慄が全身を走るのを覚えた。彼はその若いサンニヤーシンに近づき、列車から隆りて自宅にくるよう乞うた。さすらい人はこの求めに応じた。

 後刻、駅長としてのつとめを終え、帰依心をもってこの見知らぬ遍歴者の足下に坐ることができたとき、彼はこの僧が「わが愛する者よ、その丸き顔に灰をぬりてわがもとに来たるべし」という折返しのあるベンガル語の歌をうたっているのを見出した。若い帰依者は姿をかくし、やがて顔に灰をぬり、正服を脱ぎ棄てて戻ってきた。スワミ・ヴィヴェーカーナンダをハトラスから運び去った列車は、後にスワミ・サダーナンダとなった前駅長を彼と共に運んだ。数年後、彼は自分は宗教のためにスワミ・ヴィヴェーカーナンダに従ったのではなく、「一対の悪魔のような眼」に惹きつけられたのである、としばしば繰返した。

 今やサダーナンダにとって遍歴者の生活が始まった。旅路の難儀は彼に以前の安楽な生活をなつかしく思わせたであろうが、彼の道づれの与える不可思議な力によって、彼は肉体を忘れてしまった。グルの優しい配慮は自分がどんなに足を痛めているかを忘れさせた。生涯の最後の日に到るまで、サダーナンダはこの当時のことを感動なしには語ることができなかった。「師は私の靴を頭の上に載せて運ばれたのです」と彼は叫んだ。

 それは祝福された、忘れることのできない日々であった。二人とも芸術家肌であり二人とも生まれつき詩人であり二人とも魅力的な容貌の持主であった。芸術家たちは彼らのことを夢中になって説きたてたものである。

 サダーナンダは師に対して実にうるわしい帰依心を抱いていたので、それだけでも大きな魅力であった。彼は真実の弟子であった。ヴィヴェーカーナンダは彼以上に真実で、献身的で、また偉大な弟子は持たなかった。彼の知性はグルを理解する上では小さな役割しか果さなかった。グルの言葉の一つ一つばかりでなく、その表情の一つ一つ、その動作の一つ一つを瞑想した。多くの年を経た後にもなお、自分が親しく触れた師の表情を瞑想していた。その結果、彼は師を恐らく他の誰よりもよく理解した。たしかに彼は、さもなければ未知に終ったと思われるこの偉大な存在のかずかずの面を目撃したのであった。それゆえ、彼が一言または一句で決して忘れることができないようなスワミジの面影を私たちの眼前に彷彿させることができたのは不思議ではない。私たちは、彼ら二人がテライの草原をぬって歩いていくのをまのあたりに見るのであった。師は足を痛めた弟子の靴を運んでいる。ある場所へ来ると、散在ずる黄土色の布切れと人骨の断片とがそこで修道士が虎に喰い殺されたことを物語っていた。「恐ろしいか?」と師が尋ねた。「御一緒ですから恐ろしくありません」と弟子が答えた。そして彼らは歩きつづけた。こうして、この最初の素晴らしい日々を通じて、恐れ、飢え、潟き、疲労および肉体そのものまでも忘れられたのであった。

 もう一つの画面が南インドを背景にくりひろげられた。スワミ・ヴィヴェーカーナンダが西洋から帰国したときの光景である。巨大な群衆が彼を迎えるために集った。海のように、彼らはスワミの車のまわりに押しよせ、波のように彼を押しつぶそうとするのだった。この巨大な群衆の中に、スワミは一つの顔を見出して驚き、かつ感動した――サダーナンダの顔である。

 サダーナンダが愛する師の帰国を迎える群衆の一人となるために北インドからはるばるここまで、どのようにしてやってきたか誰も知らない。ヴィヴェーカーナンダは車をとめて彼を自分の傍らに呼び寄せた。「彼は私の霊の子供です!」と彼は叫んだ。そして彼らは共に車に乗って先へ進んだ。

 グルの仕事が始まった。ヴィヴェーカーナンダがサダーナンダに与えたのは何という聖なる力、何という愛であったろう。駅長としては、彼は宗教についてあまり考えたことはなかった。明るく、若く、人生の喜びにみちていた。しかし、そこには何かがあったに違いない。なぜなら、ハトラスに居た頃でも「例の眼」を持った若いサンニヤーシンがくる前にすでに、自分の駅を通過する巡礼の修道者に粉やバター油や薪をくばるのが彼の習慣であった。彼は、人の欠点に対して寛大であった。スワミジが非常に高く評価した性質である。

 サダーナンダの家族は回教文化の中心地、ジャウンプールに住んでいた。彼はサンスクリット語の代りにぺルシヤ語を学んでいた。彼は例の貴族階級の回教徒が持つ洗練された態度を身につけていた。彼はスーフィ(回教の汎神論者)から大きな影響を受けていた。そして、その点について師と共鳴し合うことができた。師はそのことを非常に喜んでいた。彼らは共に、そのときの気分に没入してしまう能力、討論中の主題にみずからを同化してしまう能力を持っていた。スーフィの詩を朗読している間は、彼らはスーフィ教徒であった。

 サダーナンダはヴィヴェーカーナンダとほとんど同程度に美に対しては本当の詩人の感情を持っていた。二人とも、偉大な神、シヴァの住居である天にもとどくような雄大なヒマラヤ山脈、??と流れる渓谷、丘の上に藩ちる山影、落日の中の緑色や董色の輝き、また万年雪の上に輝く月の光を歓喜にみちて凝視するのであった。彼らの心は天にものぼらんばかりであった。

 彼の回教との接触は、持って生れた民主主義の感覚を一層強化したが、この感覚は、彼の人類愛と寛大な外向的気質のゆえに、すでに立派なものであった。その上に彼がサンニヤーシンになったとき、あらゆる存在の一体性、「あらゆるものの中の自我」というヴェーダーンタの理念が加わった。ある日、牡牛が鞭打たれているのを見かけたが、後に彼は自分の体にその鞭の跡があるのを見出した。遍歴時代のある日、彼は暮れてからその日のダルマシャラー(巡礼のための無料宿泊所)に辿り着いた。そして一日の旅ですっかり疲労してすぐに深い眠りに落ちた。夜があけると、彼は自分がライ病患者の横に寝ていたことに気がついてぞっとした。彼の最初の衝動はその場所から逃げることだった。そのとき、彼はライ病患者もナーラーヤナであることを思い出した。彼は引き返して、三日間その不幸な人間を看護し、体を洗い、傷口を包帯し、彼を人間の形をした神として拝んだ。またあるとき、天然痘の患者を世話しているとき、患者は自分の体に火が燃えているように感じた。これを冷してやるために彼のできることは自分の体を提供することであった。そこで彼は幾時間もこの病人を抱いてやった。こうして何年もすぎた。彼はサンニヤーシンとしては宗教に対する関心が不充分である、と評する人もあった。多分、そうだったかも知れない。しかし、彼の宗教は人間の中の神――罪人の中の神、聖者の中の神、貧者の中の神、富者の中の神、弱者の中の神、強者の中の神、成功者の中の神、失敗者の中の神――を拝むものであった。彼は拝むばかりでなく、奉仕し、愛したのである。

 カルカッタにペストが発生したとき、彼は自分がかき集めた金でバグバザールに清掃シャの一団を組織した最初の一人であった。彼はどんなにこれらの立派な若い不可触賊民たちを愛したであろう。彼は、彼らと共に、その一員として活動し、彼らと同じように清掃の仕事をもした。彼らは一緒になって貧民居住地を清掃し、不潔な場所を清潔にし、さめることのない熱意をもって働いた。彼は、彼らをみずからの精神力で鼓舞した。この仕事をしながら、彼は少し前に入植されたばかりの愛するグルの考えを実行に移していたのである。彼はこの仕事に全身全霊を棒げつくし、自分の堂々とした体?をこき使った。

 この方面における彼の最初の努力は、大学生たちの団体を巡礼旅行でバドリナラヤンへ連れて行くことだった。これらの若者たちは、それまでに家を難れたことがなかった。実にある者たちはカルカッタの外にふみ出したことがなかったのである。彼らにとって、そのような旅行は恐れと不安を伴う一種の冒険であった。ある者は涙を流しながら「私はまだ一度も外国へ出たことがない!」と言った。スワミ・ヴィヴェーカーナンダがなぜそのような旅行を青年たちの教育の重要な一部分、男らしさ、独立独行、度胸を育てる方法の一つであると考えたかがよく解るのである。彼はしばしば「インドを愛するためにはインドを知らなければならない」と言った。

 スワミ・サダーナンダの仕事は容易なものではなかった。ヨーロッパの学生たちが背中に背?ひとつを背負って旅行するのとは違い、これらの若者たちは自分たちのほとんど全財産を携行する計画を立てるのであった。これらは一つ一つ削られて最低必要物だけが残った。彼らのほとんどすべてにとってこれは難行であり、あるものはこの難行をありがたく思わなかった。サダーナンダは彼らをはげまし、彼らが適当な食事をとり、湯浴をし、危険にさらされることのないよう、全力をつくした。彼は愛する母親のように彼らを見守ったのである。そのような巡礼旅行を二回したことが彼の立派な体格を破壊し寿命を縮めてしまった。二回目の巡礼旅行から戻ってきたとき、彼の健康は再び活動的な仕事を行うことを許さなかった。彼の生活は、その後は隠退と黙想の生活でこの期間に彼は「大いなる実現」に達した。余命はもはやわずか、彼は「サダーナンダの犬」と自称する献身的な看護人たちの一団と共にすごした。

 彼らは、パクパザールのボースパラ通りにある一軒の小さな家で暮らした。これは今日「サダーナンダ・アシュラマ(?)」として知られ、彼が居間としていた部屋には礼拝のための厨子が安置されている。ここに、このグループの幾人かがまだ基らしており、彼らにとってそれは「聖きものの中の聖きもの」である。サダーナンダの死後につづいた四年の中でこれを雑持するために彼らの払った犠牲は大きかった。彼らはそれを何としてでも維持しなればならないと思った。ここで、彼らが自分たちの師を看護したのである。彼らの献身は、見る人ことごとくを驚嘆させた。彼らの奉仕には全く骨措しみがなかった。大学に通っている者たちは学業を放棄した。出世の道をすてることも承知の上であった。決して召使いには手を出させず、彼らは師のためにみずから洗い、ふき掃除をし、すりみがき、そして料理をした。師が息が苦しく、横たわることができなくなると、昼でも夜でも彼をその両腕に抱えてすごした。幾夜も幾夜も彼らは寝ずの番をした。師に吹きこまれた愛が、彼らをして肉体とその要求を忘れしめたのである。彼らがひまをぬすんてはまどろんだ仮眠は、師の傍らの床の上で枕も布団もなしにとられた。食事は不規則であり、しかも普段は共通の大皿の上に盛り込まれて出された。サダーナンダは時にはこの皿から、時には他の皿からすこしづつ摘んで口の中に入れた。必要な金はすべて外部からやってきた。インドまたはヨーロッパの市場にあるもので手に入らないものは何ひとつなかった。

 そこには形式的な師弟開係はなかった。それは考えられたこともなかった。しかし、この二、三年の間に、サダーナンダはスワミ・ヴィィヴェーカーナンダについて知りまた感じていたことのすべてを伝授した。彼の知識と解釈は、彼自身のグルを若者たちの前に再びよみがえらせたのでおる。サダーナンダの霊の子供であるこれらの若者たちの中に、人がいまもその精神を感じとることができるのは不思議ではない。「私は貴方がたのために一つのことしかできません」と彼しばしば言った。「貴方がたをスワミジのところへ連れていくことです」、「それで充分です」と、彼らはこれに答えて叫んだのである。こうして過ごした日々は本当に、本当に素晴らしかった。サダーナンダが病苦に悩まされないときは、彼らは恍惚に近い状態で暮らした。そのとき人生には何もなかった。いまも、あの喜びに比べられるほどのものは見当らない。感動と、尊敬と、歓喜があふれんばかりであった。彼は彼らを最高の状態に導き、彼らをそこに保った。彼は彼らに新しい特異な訓練を与えた。彼の愛には際限がなかったが、彼らを甘やかさなかったし、不注意や不行跡を見すごすことも許さなかった。彼は極端に厳格だった。傍観者は時には弟子を扱う彼のやり方が残酷であると考えたこともあろうが、全身全霊を師の奉仕のために棒げているこれらの少年たちは、彼の愛情を知っていて決して喜びを失うことはなかった。彼らの崇拝の念は日々に深まった。彼らの唯一の恐れは彼が間もなく彼らを離れていくだろうということであった。そのような悲しみにどうして耐えられようか。当時彼らは、師が自分の喜びを彼らに残していくだろう、ということを知らなかった。

 このようにして、話したり、笑ったり、歌ったり、礼拝したり、奉仕したりして、幾日も幾ケ月も幾年もが過ぎ去った。人生はまさに天国の前ぶれのようだった。そしてこのような奉仕を約三年間受けたあと、サダーナンダはマハーサマーディに入った。眼は彼のグルの写真に向け、「スワミジ」という言葉を口にして、悲しみをあとに残さなかった。彼の名前そのものが「喜び」を意味するように、彼は「サダーナンダの犬」たちの心の中に深く永続する喜びを残していった。

  

スワミ・ヴィヴェーカーナンダの遍歴時代

それから彼は、問題の解決を自分の内に求めようとしてヒマラヤ山脈の洞窟ですごした孤独な生活、について語った。しかし彼は長い間静かに邪魔されることなく暮らすことができなかった。人生の有為転変が再び彼をラジプタナの荒野と西インドの都会へおしやった。この期間、彼は故意に自分を兄弟弟子たちから引きはなした。孤独の必要を痛く感じたからである。一度、長い間探し求めたあとやっと、彼らの一人がボンベイ州のある町の中を車に乗って走っていくスワミジを見かけたことがあった。「彼の顔は神のように輝いていた」と彼は報告した。「それはブラフマンを知っているものの顔であった」この証人は彼がどのようにして自分の尊敬する兄弟弟子の前に現われたかを述べているが、スワミジに親切に迎えられはしたものの、直ちにまた追いやられてしまった。ヴィヴェーカーナンダはケトリで彼の弟子になったマハラージの宮廷に暫くの間滞在した。ある日、謁見所に坐っていたとき、一人の踊り子が現われて歌をうたおうとした。彼は立ち上ってその場を去ろうとした「お待ち下さい、スワミジ」とマハラージは言った。「この女の歌の中にあなたのお気に召さないものはないはずです。むしろおよろこびになるでしょう」スワミは坐った。そして踊り子は歌った。

 おお主よ、わが悪しき性を見下げ給うことなかれ!

 汝の名は、おお主よ、「ひとしと視る者」

 われらを共に同じブラフマンたらしめ給え!

 一片の鉄は神殿なる聖像の中に、

 他の一片は屠殺者の手にあるナイフとなる。

 されど、そが賢者の石にふれるとき、

 共にひとしく黄金に変ず!

 されば、おお主よ、わが悪しき性を見下げ給うことなかれ!

 汝の名は、おお主よ、「ひとしと視る者」

 われらを共に同じブラフマンたらしめ給え!

 一滴の水は聖なるジャムナ河に、

 他の一滴は道の辺の溝の中に汚れてあり。

 されど、それがガンジスに注ぐとき

 共にひとしく聖きものとなろ。

 (されば、王よ、等々)

 若いサンニヤーシンは言葉につくせぬほど感動した。彼は歌手を祝福した。彼女はその日から自分の職業をすてて完成に至る道に入ったという。ヴィヴェーカーナンダがインドの端から端まで托鉢僧として遍歴したこれらの歳月の間に、彼の念頭を去らなかったのはインドの問題をどのようにして解決するかということだった。

 問題はあとからあとからと現われた――貧困、一般大衆や最下層民のみじめな境遇、彼らに対する特権階級の義務、マラリヤ、ペスト、コレラ、その他の疫病、早婚、女性の、ことに寡婦の境遇、文盲、飲食物、階級制度、衛生、全く暗愚な種族。

 巡礼の効果は彼に徐々に現われた。「インドを救うためには、インドを愛さなければならない。インドを愛するためには、インドを知らなければならない」今日でも、熱心な若い学生たちの団体が彼の足跡を辿りながら、インド中を巡礼し、徒歩で数百マイルを旅するこもしばしばである。それは霊性を育てたばかりでなく、インドの統一にも貢献した。巡礼者たちは、彼らの母国を知り、これを愛するに至った。彼らは、一つの信条、一つの希望、一つの目的をもってやってきた。この広大な国は一つの神聖な言葉を持っている。この言葉から、北方地方のあらゆる言語が派生している。一つの神話、一組の宗教的理念、一つの崇高な目標。キリストの墓が十字軍にとって、またローマがカソリック教徒にとって意味するものと同じように、巡礼はヒンズー教徒にとってそれ以上のものを意味するのである。巡礼者の辿る道順を地図の上で辿るならば、それがインド全面を、ヒマラヤ山脈からラーメシュワラム、プリからドワーラカまでを覆いつくすことが分るであろう。これらの巡礼者たちが求めるものは何であろうか。「この険しき路、いずこに向かいて曲折する?」彼らの顔は人類の永遠の目標に向けられている。彼らは私たちが失ったあるものを求めている。彼らは聖杯を求めて避んでいくのである。

 このような人々がインドを愛し、インドの問題とその困窮を他の誰よりも深く理解し、生涯をインドにつくすために棒げるということは不思議なことであろうか。彼らは単純な改革者が犯すようなあやまちは犯さない人々である。なぜなら彼らが行う仕事は、すべての過去の業績に対する尊敬の念と同時に現在の要求に対する理解および深い信念と愛から生れているからだ。彼らはあらゆる成長は有機的なものであることを知っている。彼らは破壊しない。彼らの仕事は建設的である。

 スワミジ自身は改革者ではなかった。彼は成長を信じ、破壊を信じなかった。彼はインドの組織や制度の歴史を研究して、それらが必ず始めのうちは一つの要求をみたしていたものであることを見出した。時がたつにつれ、必要は過ぎ去り、組織だけが残った。その間に、悪弊につぐ悪弊がそこに加えられたのである。彼は、貧困が広範囲に、そして悲惨にひろがっているのを見た。飢饉と疫病を見た。インドの古代の栄華は単なる思い出にすぎなかった。大なる遺産を受けついだ民族は消滅しようとしているように思われた。これらの光景を目撃してひきおこされた感動の中から、現在もなおつづいている一つ奉仕団体が生れ育ったのである。コレラその他の疫病の流行があるとき、ペストが多くの人々を殺している場所に、自分の健康や生命をかえりみず苦しむ人々に奉仕するヴィヴェーカーナンダの霊の子孫を必ず見かけるであろう。飢饉の時には、彼らはそこに現われ、飢えた人々に食事を配り、身にまとう物もない人々に衣服を与えたりする。洪水のときには救助作業を行う。こうした目的に資するために国中から金が送られてくる。一銭一銭が記帳される上にそれらが最善の用途に使用されることが今や一般によく知れわたっているからである。

 スワミがサンスクリット語の知識を、その発音に特別の注意を払いながらマスターしたのはボンベイ州にいるときであった。彼はデカン地方のアクセントが特に良と思った。彼はそこから、ここに一夜を、かしこに数週間を過ごしながらさらに遍歴をつづけ、ついにマドラスに到着した。そこで彼は、彼を真実のマハ−トマーと呼ぶ献身的な若者たちの一団に逢った。これら正統派のバラモンたちは彼を自分たちのグルとして受け入れた。この人は階級その他の人間的制約を超越するほどの権威を天から授けられた存在である、と感じたのである。彼らは貧しかったが、彼がアメリカへ旅するのを助けるために幾ばくかの金を集めた。

 かの地の人々に与えるべきメッセージと、すでに実行を決意した仕事とに胸をふくらませて、彼の心はすでにアメリカに向けられていた。彼はそこで解決を見出すことを期待した。そこで、世界で最も富める国で、困窮した同胞に対する援助が得られるであろうと思った。「飢えているときには人々は霊的になれません」と彼は言った。彼は援助を乞う目的で出発したのだったが、アメリカに到着したとき、この高貴な魂はただ与えることしかできなかった。彼は何を与えたか。一介の托鉢僧にすぎない彼に何を与えるものがあったろう。

 彼は自分の所有していた最も貴重なもの、インドが現在もなお世界に提供し得る高価な唯一の贈物――アートマンの教えを実際に与えたのである。

 独りで、前ぶれされることもなく、彼はこの遠い大陸へ渡った。宗教会議での自分の経験を語りながら、彼は言った。「私はそれまで講演などというものをしたことは一度もありませんでした。たしかに、自分の周囲に胡坐する小さな一団に話しかけたという経験はありますが、それも打ちとけたやりかたで、普段はただ質問に答えるだけでした。その上、他の人々がやるように自分の話を前もって原稿に書いたことがありません。私は自分の師に、知恵の女神サラスワティに呼びかけてから、壇上にのぼりました。『アメリカの兄弟姉妹』と私は始めました――しかしそれ以上先へは進めませんでした。拍手の風にさえぎられてしまったのです」聴衆は手のつけられねほど熱狂したように思われる。彼は、この驚嘆すべき歓迎が彼の胸裡におこした感動――異怖にも近い戦慄について語った。彼は自分の背後にある力を今までにないほど強く感じた。そのとき以後、天から与えられた自分の使命に関して彼の心に疑いの影は射し込まなかった。彼は開拓者であった。ヴェーダーンタの最初の説教者だったのである。彼の霊性は人々を驚膜させた。「このような人々を生み出す国になぜ宣教師を送り出すのだろう」と人々はいぶかりはじめた。


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