スワミ・ヴィヴェーカーナンダの思い出(5)
私がみたスワミ・ヴィヴェーカーナンダ
シスター・クリスティン

陽気なひととき

 しかし、四六時中ヴェーダーンタ哲学や深い真面目な思索ばかり、というわけではなかった。時折、クラスが終ると純粋なたわむれのひとときがあった。私たちがよそではかって経験したことがないような愉楽のひとときであった。私たちは、宗教家はいつも謹厳なものであると思いこんでいたのだが、浮世の重荷を意のままにおろして無邪気な喜びのうちにしばしを過ごすことができるのは無執着の一つの確証であり、それは「大いなる実在」を見たもののみに与えられる境地である、ということを徐々に理解するに至った。そのときは、私たちはみな一緒になって陽気にはしゃいだ。スワミジは沢山の笑い話を知っており、その中のあるものは幾度も繰り返し語った。ひとつは、人食人種の諸島に派遣された宣教師の話で、現地に到着してから住民たちに前任者をどう思うかと質問すると、「あの人は全くうまかったです!」という返事を受けたという。他のもう一つは、黒人説教師の話で、アダムの創造の話をしながら、「神さまはアダムをお創りなされ、彼を乾そうと塀の前にお立てなされた」と言うと、聴衆の中から「お待ち下せえ、兄弟。どなたがその塀をおつくりなされただ?」という声にさえぎられた。すると、黒人説教師は説教壇の上にのしかかって、おごそかに答えた。「そんな質問もう一つでも出してみろ。お宗旨全部がめちゃめちゃだぞ」またスワミジは、「スワミ、あなたはバディストですか」と彼に尋ねた婦人の話をした。彼女はブディスト、即ち仏教徒か、と尋ねたつもり、しかしこの語の前半をバッドと発音すれば蕾の意味になる。彼はいたずらっぼく、しかし謹厳な面持ちで「いいえ奥さん。私はフロリスト(花屋)です」と答えたというまた彼は、ランツベルクと一緒に暮らしていた下宿の共同炊事場で料理をしていた若い婦人の話をした。彼女はしばしば夫と口論した。その夫というのは霊媒で、公開の降霊術会を行なっていた。彼女はよく、このような口論のあとでスワミジに同情を求め、「夫が私をこのように扱うのは公平なことでしょうか。幽霊にはいつも私がなってやるのに」と言うのだった。

 彼はランツベルクとの最初の出あいについてよく語った。それはランツベルクが「悪魔」について演説したある神智学の集会でのことであった。彼の正面に緋色のブラウスを着た一人の婦人が坐っていた。しばしば、ランツベルクは「悪魔」という言葉にカをいれて発音した。そしてそのたびに必ず、その緋色のブラウスの婦人を指さしたのだそうである。

 しかし間もなく私たちは全く異なった雰囲気に包まれているのに気づいた。彼がシャクンタラーの物語をしていたのである。なんという詩的想像力であったろう。私たちはそれまで、ロマンスについて何かを知っていると思っていたのだろうか。それは青白い血の気のないもの――真実のロマンスの単なる影にすぎなかったのだ。木や、花や、烏や、鹿や、一切のものが、「シャクンタラ−は昇天した」と喚いたとき、大自然は一個の生きものとなった。「シャクンタラーは世を去った」と私たちもまた悲しんだ。その次にはサーヴィトリ、その忠実さによって恐ろしい「死の神」をさえ征服した妻の物語がつづいた。「死ぬまで忠実」であったのではなく、その愛情があまりにも大きかったので死さえもその前でしりごみしたのであった。それから、誰かが自分の夫の悪口を言っているのをふと耳にして死んでしまった妻、サティの話。他の肉体に生まれ変ってもそのことを憶えているウマーの話。シターについては、彼はいつ語っても決して語りつくすことはしなかった。それはサーヴィトリの話も及ばぬほど彼を感動させるらしかった。それは言葉をもって表現するには余りにも深く、そして貴重なものだったのである。ただ時折、一句あるいは一文、せいぜい一段落ぐらいで、それも例えば「シター、清らかで純潔な妻」「シター、完全な妻、彼女の性格はすべて描写しつくされた」「インドの婦人の未来は、シターの典型の上に築かれねばならない」等々である。そしていつもこう言って話を結んだ。「私たちはみなシターの子供です」深いペーソスをこめて。こうして私たちの心の中にインドの婦人の理想像が築きあげられた。時々彼は私たちにインドですごした彼の生活について語った。すでに幼少の頃、僧衣に強く心を惹かれ、修行者が庭に入ってくると手あたり次第の品物を施してしまったという話などを。家の人々はこのような修行者現われると彼を部屋の中に閉じこめた。すると彼は窓から品物を投げるのであった。外界の意識を一切失ってしまうまで坐って瞑想することもたびたびであった。けれども、これとは全く別の一面もあった――彼は手のつけられぬほどわんぱくだったので、彼の母は彼をおさえつけながら、「私はシヴァに男の子をお願いしたのだが、大神さまは悪魔を一匹下さったとみえる!」と言うのだった。後年インドをゆさぶることになった力は、それほどたやすく調教することはできなかったのである!家庭教師がやってきて自分の知識を述べたてると、彼は眼を閉じたまま銅像のように坐った。怒った教師が「講義をききながらよくもずうずうしく居眠りができますね」と叫んだ。とたんに教師の前で彼の喋ったことをひとことも洩らさずに暗誦するのだった。これは信じがたい話ではなかった。彼の記憶力は驚くべきものだったのである。ある時、誰かがそのことに言及すると、彼は「そうです。私の母は同じような記憶力を持っています。『ラーマーヤナ』の朗読をきき終わってから、それをそのまま復誦することとができるのです」と言った。ある日、彼がスウェーデン史のある点について語っている時、同席していた一人のスウェーデン人が、彼の述べたことを訂正した。スワミジは反駁しなかった。自分の述べた事実に間違いないことを確信していたので如何なる論評もしなかったのである。翌日、当のスウェーデン人が大層恥じ入った様子で再びやってきて「あの問題を調べてみたが、貴方が正しいことが分かりました」と言った。このような確認はつぎつぎに起こった。彼は良い記憶力を霊性の一つのしるしであると考えていた。彼が自分の母――彼についての感動や誇りをかくそうと懸命に努力した誇り高き小柄な婦人――について語った話はかぞえきれない程であった。彼女は息子が選んだ人生の道に対する不賛成の気持ちと、彼が独得した名声を誇りに思う気持ちとの矛盾にどれほど悩んだことであろう。最初、彼女は彼のために通俗的な人生、多分結婚と世間的成功とを選ぶことを望んだのであるが、遂には乞食があがめられプリンスたちがその荷に頭を下げるのを目撃することになった。だが一方、彼女の仕事は容易なものではなかった。後年、彼がどんな子供であったかと尋ねられて、彼女は思わず洩らした。「あの子には乳母を二人もつけなければなりませんでした」

 彼の母を見る特権をもった私たちは、彼がその堂々とした態度を彼女から受けついだものであることを知っている。この小柄な婦人は女王のように振る舞った。アメリカの多くの新聞は後年、しばしば彼女の息子を「かの王侯のごとき僧侶、ヴィヴェーカーナンダ」と呼んだものである。彼女は処女のような純潔さを具えており、これを彼女はその最大の贈りものとして息子に伝えたものと思われる。しかし、これほど偉大な魂が完全な棲み家を見出すということが可能であったろうか。インドという土地およびこのような両親は、まず申し分ない乗り物と称し得る棲み家を彼に与えたのである。彼はどんなに母を愛したことであろう!インドの中でも離れた場所に混在している時には、しばしば母がどうかしたのではなかろうかという恐れを感じて、そのたびに問い合わせをするのだった。ベルルの僧院にいる時には必ず急使をつかわした。彼の人生の最後まで、母の安楽やその世話が彼の主な関心事の一つであった。

 こうして私たちは、恐らく幾月間も、カルカッタのシムラ地区にある父の家での彼の幼少時代をもう一度まざまざと生活した。彼が非常に愛していた姉妹たち、息子としての献身をささげていた父などが私たちの脳裏を横切った。「私は父から自分の知性と同情心とを受けています」と彼は言った。彼は父がどのようにして酒飲みに金を与えたかを語った。その金が何に使われるかをみすみす知りながら。「この世は全く恐ろしい。それができるというなら、たとえ二、三分間でも忘れさせてやろうではないか」と、父は弁解したという。彼の父は人にものをやるのに気前がよかった。ある日、彼が普段より一層無鉄砲に散財したとき、若い息子は「お父さん、私には何をゆずって下さるのですか」と尋ねた。「行って鏡の一側に立ってごらん。わたしがお荷に何を残すか分かるだろう」というのが父の答えであった。少年になるにつれて、彼のエネルギーは他の方向に向けられた。彼は仲間を集めて、説教が主要な部分を占めるような宗教儀式を行った。「来たるべき事件は荷もってその影をおとす」数年後、スリ・ラーマクリシュナは言った。もし自分が妨げなかったら、ナレンは世界で最も偉大な説教師の一人となり、自分自身の宗派の長になったであろう、と。

初期の霊的経験

 彼は、青年期に入るとハーバート・スペンサーを熱中して読み、不可知論者になった。著者とすこしばかり文通もした。だが、不可知論著であろうと、信仰著であろうと、神の探求はいつも彼の心の最上部を占めていた。彼がドッキネッショルでシュリ・ラーマクリシュナに逢うまで、一人の宗教家からまた次へと訪れて「神を見たことがおありですか」と尋ねつつ、しかも予期していた答えを得ることができなかった話を聞くと胸を打たれた。シュリ・ラーマクリシュナとの邂逅と共に彼の生涯の新しい時期が始まった。しかし、それは長い物語である。また、すでにたびたび語られている。

 彼は「恐ろしい神」を崇拝するこのカーリの祭司を師として受け容れるまでの彼の内面的審問について語った。伝統を破った不可知論者であり、西洋教育の果実である彼が迷信的な偶像崇拝者の足もとにひざまずくとは!それは全く考えられないことであった。しかもこの質朴な男の中に、そしてこの男の中にのみ、彼は百分が探し求めていたもの−生ける霊性を見出したのであった。もしカーリの崇拝がこのような純潔、このような真実、このような燃えるごとき霊性を生み出すことができるなら、ひとはその前にうやうやしく侍み得るのみである。彼は以前のすべての見解をあらためざるを得なかった。知性は降伏した。しかし、本能はそれほど容易には屈服しなかった。彼がシュリ・ラーマクリシュナを自分のグルとして受け容れたあとにも長い苦闘がつづき、たびたび師と議論もした。遂に、彼はある一つの経験によって征服された。そのことについては彼は決して語らなかった。それは余りにも神聖な経験だったのである。師に対する彼の献身は特異なものであった。愛とか忠誠という言葉は新しい意味を持つよようになった師の中に、彼は「神」の生きた化身を見出した。師の肉体は理想の実現と共に変貌したのである。彼は無学であったが、ヴィヴェーカーナンダは「師は私がかつて逢った人々の中で最高の知性を持っていた」と語った。この言葉は、その華々しい知性によって当時の優れた知識人たちを驚嘆させたその人の口から出たのである。

 ヒンドゥー教への再教育の過程が始まった。彼は偶像礼拝を猛攻した一人だったのであるが、ドッキネッショルの像を自分の「母」として崇拝するこのカーリの祭司の中に、かつて逢った何びとよりも偉大な人格――神の光輝の人、神の愛の権化――を見出した。「もし偶像礼拝がこのような人格者を生み出すことができるなら、私はその前にひれ伏す」と彼は考えた。彼は、各宗教を次々に修行してすべてが同じ目標に到達することを見出した人、を眼前に見た。彼は、「多くの川はさまざまの方向に流れるが、すべては大海に達する」とか、「われわれがそれを水と呼ぼうと、アクア、またはパーニ、またはジャルと呼ぼうと、それはみな同一の水である」というあのサンスクリット語の詩句の真埋を学んだ。最も良いことは、宗教は信ずるだけでなく経験し得るものであるということ、またこの経験をするための方法があるということ、人間はいまここでこの肉体の中で人間から超人間に変貌し得るものである、ということを学んだことであった。スリ・ラーマクリシュナの中に、彼は「神は唯一の実在であるしという言葉をそのまま生きた人を見出した。

 師と共にすごす時は終りに近づきつつあった。あまりにも早く、この神に酔いしれた聖者は、悲しみに沈む弟子たちの小さな一団を残して去った。彼らは最初、羊飼いを失なった羊のようであった。やがて、この頼りなさと心ぼそさは、徐々に、師の現前のゆるぎない自覚にところをゆずった。このとき以来、たとえ粗末なものでも、師を礼拝するセンターが常にあって、多くのものたちが遠出しても、誰か一人はそこに残って祭壇の燈をまもりつづけた。

 今や、彼らの放浪の時が始まった。ドッキネッショルからヒマラヤへ、ヒマラヤからラーメシュワラムへと彼らは旅をした。徒歩で、牛車で、らくだで、象で、車で、シュリ・ラーマクリシュナの子供たちは放浪に出るのであった。或るものはチベットに行った。あるものはヒマラヤの洞窟に住んだ。王侯の宮殿にも泊まれば農夫の小屋にも宿をかりた。彼らがガンジスのほとり、ドッキネッショルの対岸にある僧院に再び集まったのは、それから多くの年月を経てからであった。ヴィヴェーカーナンダもまた自分の国を救うなんらかの手段を見出そうという圧倒的な願いにかられて放浪者になった。彼が最初ご一千五百年前にかの「大覚者」がこの浮世の密林から脱する道を発見した菩提樹の下にぬかずくためにブッダガヤを訪れたのはふしぎなことではなかった。

 仏陀がスワミジにとってどのような意味を持っていたか、それを言うことは容易ではない。仏陀という名前そのものが心の底をゆり動かした。数日間も連続してこれが彼の話の主題であった。彼はその演劇的天才を発揮して私たちに物語を生き生きと描いて見せることができたので、情景がつぎつぎとくりひろげられるにつれて私たちはそれを見たばかりではなく、経験した。それはまるで私たちの上に、しかも昨日起こったかのように思われた。私たちは、若い太子、彼の数多くの宮殿、遊園地、および「来たるべき事件は前もってその影をおとす」と、愛わしい直観をする美しいヤショダラーを見たそれから子供の誕生と、それと共に彼女の心の中に生まれた希望。たしかに、この息子は彼をこの世と彼女とをむすびつけるであろう。しかしシッダールタが彼をラーフラ、足かせ、と名づけたとき、彼女はどんなに落胆したことであろう。このことさえも彼をひきとめることはできなかった。そして、かつての恐れが再び彼女を襲った。恐れは私たちの上にもかげをおとした。双たちは彼女と一緒に苦しんだ。スワミジが私たちにこの物語をしながら、シッダールタの心中に父、国、妻および子に対する義務と彼を呼びつづける理想とのたたかいがあったとは、ただの一度もほのめかしたことがなかったのを、私たちはずっと後になって思い出した。彼が「私は父の独り息子である。父が倒れたとき誰がその後をつぐであろうか」などと考えたことはなかったのである。そのような思いは、かつて彼の心をかすめたこともなかったであろう。自分がもっと偉大な王国の相続人である、ということを彼が知らなかったであろうか。シャカ族よりも無限に偉大な種族に属している自分である、ということを彼が知らなかったであろうか。彼は知っていた――しかし、彼らは知らなかった。そこで彼は深い憐れみを感じたのである。物語をききながら、ひとはその燐愍の苦痛と、それを貫く不動の決意とを感じた。こうして、彼は出てゆき、残されたヤショダラーはできるかぎり彼の後を追った。彼女もまた地の上に眠り、粗布をまとい、一日に一度しか食事をしなかったシッダールタ彼女がどんなに偉大であるかを知っていた。彼女は未来の仏陀の妻ではなかったか。彼と共に長い道を歩んできたのは彼女ではなかったか。

 さて、それから、この後につづく胸を痛ませるような苦闘の年月の物語があった。一人の師から他の師へとゴータマは従った。一つの方法の次に他の方法をと彼はこころみた。彼は大きな苦行を実践し、苦行をして肉体を死の寸前にまで苦しめつつ長い月日をすごしたが、結局はそれが求める道ではないことを見出したのであった。遂に、これら一切の方法を放棄して、彼はブッダガヤの菩提樹の下にきた。そして全世界によびかけた。「この座にあってわが肉体はひからびよ。皮膚、骨、菌はことごとく崩壊消滅せよ。得難き知識を得るまでは私はここを動かない。たとえ幾たび生まれかわるとも」

 彼はそこでこれを見出した。そこで再び声を挙げたこのたびは勝どきの声を。

 うつし世の数多の家が私を捕えた。

 この感覚の獄屋をつくった彼を探し求めつつ、

 悲しみにみちて、私のたたかいは苦しかった。

 然し今は、汝、この幕屋のつくり主よ、私は汝を知る。

 ゆめ、再び、汝にこの苦しみの壁はつくらせない。

 いつわりの棟木も挙げさせない。

 梁の上に新しいたる木も上げさせない。

 妄想が汝をつくった。

 私は無事にそこを去って救いを得る。

 それから父の王国への帰還、年おいた王の喜び、放浪者を迎えるための飾りつけの命令、お祭り騒ぎの首都。すべてのものが待ちわびている――王子が戻ってくるのだ!しかし、戻ってきたのは王子ではなく、乞食であった。しかも、それはなんという乞食であろう!僧侶たちの先頭に立って、彼はやってきた。自室のテラスから跳めながら、ヤショダラーは彼を見た。「行って、父上に御あとを嗣ぐことをお願いなさい」と彼女は、脇に佇んでいる小さなラーフラに一言った。「どれが父上ですか」と子供は尋ねた。「あの道を、此方に近づいてくる獅子があなたにみえませんか」と彼女はもどかしげに叫んだ。そこで私たちは子供がその威風堂々とした姿に向ってかけ出して行き、自分の相続財産――黄の衣を受けるのを目のあたりに見るのである。後になって、私たちはその同じラーフラが父の後に従って歩きながら、「父は美しい。私は父に似ている。父は堂々としている。私は父に似ている」等々と思いつづけて、遂に彼の思いを読みとった「祝福された者」から叱られ、その日は外に出て食を乞わず、樹下に坐して自分の受けた教えについて瞑想するのを見るのである。さて、その最初の日に、シャカ族の王も貴族たちも仏陀の教えをきいてつぎつぎに道に入った。ヤショダラーも平和と浄福とを見出した舞台が次から次べと毎日展開していった。私たちは仏陀の生涯を、その出生以前からクシナガラの臨終の時まで身をもって体験した。クシナガラの場面では、私たちもマラスのように泣いた――おお、「祝福された者」よ。

 スワミジは、ベナレスで修行者や学者たちに交って、質間したり、研究したり、いろいろのことを学んだりして、多くの月日をすごした。ここである日、最も著名で最も古参の僧の一人が、彼の態度を一介の若者の出しやばりと思いこんで立腹し、彼にあくたいのかぎりをつくしたが、「自分の声の雷鳴でインドを揺り動かナまで私は再びベナレスにはきません」という返事を受けただけであった。そしてベナレスが再び彼を迎えたのは一九○二年、彼がこの約束を十分に果してからかなり後のことであった。彼はいつも自分をインドの子供、リシたちの子孫として考えていた。彼は現代人たちの中の現代人であったが、同時に彼のようにヴェーダの時代と古代インドの森の聖者たちの生涯を現代に復活させることのできたヒンドゥーはまれであった。まことに、彼は時にはかの遠い時代のリシたちの一人が活き返ったのかと思われた。それほど古代の叡智に関する彼の教えは生き生きとしていた。聴く者の心を魅了せずにはおかない、あの不思議なほど美しい抑揚のある詠唱を何処で学んだのかと尋ねられて、彼ははにかみながら、かつて自分がみた一つの夢、または毎について語った。その中で彼は古代インドの森の中で、ある声、ほかでもない目分の声がサンスクリットの詩句を詠唱しているのを聴いた、という。また、同時に見たもう一つの幻の中では、聖者たちが神聖な木立の中に集まって究極実在について質疑応答していた。彼らの中の一人の若者が明快に響きわたる声でこう答えたという。「聴け、汝ら不滅の浄福の子らよ、より高き世界に住むものたちまでも。我は『永遠の一者』を見出せり。彼を知ることに依りてのみ、汝らあまたたび死より救わるべし」

 彼は、その初期の遍歴時代に直面した階級制度の偏見との苦闘について語った。ある日、煙草を吸いたいと思った直後、煙草を吸っている賎民の一団のそばを通った。本能的に彼はそこを通りすぎたが、その時、自分と最下級のチャンダーラとは同一の「自我」であることを思い出して踵を返し、不可触賎民の手から水ぎせるを取った。しかし彼は決して階級制度の廃棄論者ではなかった。彼は、それがインド民族の発展につくした役割、それが往時つくした目的を知っていた。しかしそれが遵奉者の心を同胞に対して冷酷にする時、チャンダーラも自分と同一の「自我」であることを忘れしめる時、その時こそ、この制度を打ち破る時なのである。
 


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