シュリ・サーラダー・デーヴィの生涯
 

 ラーマクリシュナはドッキネッショル(ダクシネーシュワル)で続けていた精神修行のしすぎの結果気違いになってしまったという噂がカーマールプクルに広がりました。心配したチャンドラデーヴィは彼を家につれて帰り、村で一番の治療が受けられるように手筈を整えました。彼を検査した医師たちは、彼には何の異常もないことを告げました。彼を近くで調べたチャンドラデーヴィも、彼が完全に正常であることが分かっていました。いつもしていたようにラーマクリシュナは歌を歌ったり、物語を語ったり、冗談を言ったりして人々を笑わせました。ただそれだけのことでした。彼は家族の経済的な事柄以外のすべてに興味を抱いていました。

 チャンドラデーヴィの近所の者たちは、もしラーマクリシュナが結婚することに同意させられたら、彼もまた家族への責任をもっと自覚するようになり、当然のこととして経済的に困難な状態にもっと注意を払うようになるだろうと忠告しました。チャンドラデーヴィは似合いの花嫁を探し始めました。彼女は自分の計画をラーマクリシュナに一切知られたくありませんでした。彼女は、彼が結婚を自分の精神的向上の障害になると考えはしないかと恐れたからです。ところが、ラーマクリシュナは知ってしまい、結婚に反対するどころか、花嫁選びに活発な興味を持ちはじめたのです。彼は実際に、カーマールプクルの北西3マイルのジャイラームヴァーティという村のラームチャンドラ・ムケルジーの家で花嫁が見つかると告げたのです。名をサーラダーという6歳の花嫁が見つかりました。1859年に結婚式がおごそかに行われ、花嫁は父親のもとに帰り、ラーマクリシュナはドッキネッショルに帰り、再び精神修行を始めました。

 何年もが過ぎましたが、花嫁と花婿はめったに会いませんでした。サーラダーは彼女の父親の家で生活を続け、貧しい小作人の両親を助けて牛に餌をやったり、両親のために田んぼで働いている人たちに食事を届けたり、料理に洗濯、弟たちの世話など、毎日家事をしました。あるときジャイラームヴァーティと周辺地域を飢饉がおそいました。飢えた人々が食糧を探して走り回りましたが、どこにも食糧はありませんでした。たまたま、その年、サーラダーの両親は多少の穀物を蓄えていましたので、彼らは、毎日いくらかの食物を調理して、できたての食事を飢えた人々に支給することに決めました。時々、飢えた人たちは、できたての熱い食事を攝(と)りながら、指にやけどを負いました。サーラダーはまだ幼い少女でしたが、食べ物を扇であおいでさましてやりました。彼女は自から進んでそうしたのです。

 サーラダーが大きくなるにつれ、近所の人たちは彼女の不幸をうわさし始めました。彼らは彼女の夫が気違いになったと言うのでした。サーラダーはそんな非難を耳にし、当然のことにとても動揺しました。彼女は夫の状態を自分自身で確かめるために、ドッキネッショルへ行くことに決めました。彼女はそこに行って、夫がきわめて正常であることを知りました。彼女はしばらく彼と住み、その後ジャイラームヴァーティに帰りました。何年かのちになってから二人は生涯を共にしました。

 ある意味では、サーラダー・デーヴィはラーマクリシュナの最初の弟子でありました。彼は彼女に哲学と宗教を十分に教えました。彼は自分がいろいろなグルから習ったすべての事柄を彼女に教えました。彼女が宗教のあらゆる秘訣を彼と同じくらい早く、むしろ彼よりもす早く自分のものにするのを見て彼は喜んだに違いありません。彼女がもっている宗教へのすばらしい可能性に印象づけられて、彼は彼女を宇宙の母御自身として遇するようになりました。彼女は彼が自分のことをどう思っているか尋ねたことがありました。彼は言いました、「私はあなたを自分自身の母親として、また寺にいらっしゃる母神として見ているのです」と。

 1886年に亡くなる前、ラーマクリシュナはサーラダー・デーヴィを、この若者たちの母親、いいえ、人類全体の母親であるかのように感じさせていました。最初サーラダー・デーヴィはその役を演じることをためらっていました。でもゆっくりと彼女はその役を果たしてゆき、彼女自身の力で宗教の教師にさえなったのです。

 ラーマクリシュナが亡くなったあと彼女はおよそ34年間生きて、ラーマクリシュナ自身が教え実践した理想で、僧と家住者双方の人々を鼓舞しつづけました。彼女はそれをラーマクリシュナと同じ方法でやりました  すなわち彼女はそれらの理想を生き抜いたのです。けれども、彼女の人生はラーマクリシュナの人生よりも、もっと試練に満ちており、また複雑でした。理想的な僧としてラーマクリシュナは家族生活の厄介な事柄からいつも遠ざけられていました。彼は、人生と呼ばれる遊びを見ることが大好きでした。けれど、その迷路の中に決して巻き込まれないように十分気をつけていました。サーラダー・デーヴィは反対に、その中心にいたのです。彼女は男女を含む、彼らのほとんどが遠縁でさえもない大家族の指導者でした。そして、彼らの性質はなんという組み合わせだったことでしょう! 彼らの中にはどんな基準をもってしても大人物である人々もいれば、一方ではいやしく、嫉妬深い、明らかに有害な人々も何人もいました。彼女がそのさ中にあって心のバランスを失うことなくみんなをまとめていったのです。そして、彼らの一人一人が彼女は、彼ないし彼女を最も愛しているのだと確信していました。彼らみんなが、精神的なことだけでなく物質的な面でも彼女を頼りにしていました。彼女は彼らの「母親」であるだけでなく、彼らのグルでもありました。彼女は両方の点で彼らに完全な満足感を与えました。

 サーラダー・デーヴィは最初から最後まできびしい人生を送りました。娘として、妻として、そして最終的には言葉や人種をこえた大きな集団の、最愛の母として、彼女のような条件の中にいる女性が通常対応しなくてはならない以上にもっと多くの要求が彼女に求められたのです。彼女は、彼女にしかできないやり方で、それらをなしとげたのでした。でも何がきわだっていたかというと、すべてのものごとに対する配慮のさ中にいながら、一定の超然とした態度を保っていたことです。これこそヒンドゥイズムが、男女を問わず最高で最善の人の特質としているものです。彼女が直面するありとあらゆる様々にもつれた状況を通して、それらがまるで彼女には何の関係もないように彼女は完璧な静けさを保っていました。何度も何度も試された彼女の不屈の精神、勇気、そして知恵はみんなを驚かせたのでした。

 しかし、中でも最も驚くべきことは彼女の放棄の精神でした。夫以上でないとしても、彼と同等に分かちあった特質でした。彼女は餓死が確実であるような状況にしばしば直面しました。しかし、どんな環境にいても彼女はどこからも助けを求めようとはしませんでした。彼女の弟子たちがかなりの数にのぼり、そしてその中には彼女が心地よく住めるようにする財産があって、彼女の役に立ちたいと心から望んでいる人たちがいるときでも、彼女は、何か苦労があるとか、何かが必要だということなど露ほども見せることはありませんでした。

 けれども、男女、善悪、貧富、老若を問わず無数の人々を彼女の方に抗しがたく引きつけるのに使われた彼女の人格的特質は、彼女の「宇宙的母性」でした。彼女はよく次のように言ったものです。「私は善い人の『母親』であると同時に悪い人たちの『母親』でもあるのです。……ある人が私を『お母さん』と呼べば、その人が誰であっても顔をそむけることはできません。……私の息子がほこりや泥まみれになっていれば、彼の体のよごれをふいてやりそして彼を私のひざの上に抱き寄せてやらねばならないのは、私です」と。

 彼女は理論ではなく実例で教えたのでした。彼女をとりまく人々の態度にはいらいらさせるものがたくさあったけれども、彼女は間違いをおかしている子供には手本を示すことが一番の教育の仕方であることを知っている寛大な母親であり、また実際にそうしたのです。彼女は人間の最悪な面も見ました。けれど彼女は、愛情、同情、そして指導さえ与えられれば人間はそれらの限界をこえることができると知っていて、決して人間に対する信頼を失うことがありませんでした。

 彼女は人間でありながら神聖でありました。彼女の神聖さは彼女のするすべての事柄を通して輝いていました。それがたとえ完全に世俗的なことであるような場合でも。彼女は素朴な女性であったけれども、その思い、その言葉、その行動は神と調和していました。彼女は真の聖者でした。でも決して彼女がそうであるとは自称しませんでした。彼女は普通の女性として過ごしましたが、彼女のすべては並はずれていたのです。


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