NIPPON VEDANTA KYOKAI
Vedanta Society of Japan
不滅の言葉 2000年1号

中井ハルさんへの讃辞
一九九九年十二月十九日(日)、本館にて
スワミ・メダサーナンダ

 友人、信者の皆様、よくお越し下さいました。
 皆様ご存じのように中井ハルさんが一九九九年十二月八日に亡くなられました。今日はその中井さんを偲ぶ集まりを持っている訳ですが、中井さんは四〇年間ヴェーダーンタ協会と大変密接な関係を持っていらっしゃいました。
 日本ヴェーダーンタ協会にとって中井さんが亡くなられたことは大変大きな損失です。中井さんはこの日本におけるヴェーダーンタ協会の活動に生涯を捧げてこられました。ですから今日こうして旅立たれる中井さんの魂を皆さんと共にお送りしましょう。
 ここにいらっしゃるほとんどの方は中井さんのことをご存じでしょうが、中井さんは一九〇七年、神戸にお生まれになりました。それから東京女子学院で英語を学ばれ、一九二九年に結婚されました。そしてご主人は中井将一という方で、技術者でした。それから大変悲しいことが起こりました。一九四二年に、たった一人の息子さんを十三歳で亡くされました。それは交通事故でした。そしてご主人も一九五二年に亡くされましたが、中井さんはこのような悲しみに会われても大変強い方でした。そして中井さんの興味はだんだん霊性の方へと向かいました。
 皆さん覚えていらっしゃるでしょうか。一九九四年、東京で開催されたスワミ・ヴィヴェーカーナンダ生誕祝賀会のときに、中井さんはスピーチをされて、その中で、どのようにしてヴェーダーンタ協会を知ったかということを話されました。それは中井さんがある、アメリカが発祥の新興宗教の集まりに出席され、そこで一人のインド人に出会われました。それはロウさん、その後日本に帰化された野間住虎氏でした。集会の後、彼は中井さんにある記事を渡しました。それは一九六〇年のことでした。
 その渡された記事というのは、東京ラーマクリシュナ・ヴェーダーンタ協会というところから発行されたものでした。そのころヴェーダーンタ協会の集会は東京の正則学園の校舎を借りて行われておりました。、月一回行われていたその集会に出席している人は非常に少なかったのですが、その方々は熱心で毎回来られていました。そしてロウさんはそこに来ておられる何人かと大変親しくなられました。その中に中井さんも含まれていました。
 一九五八年、現在のラーマクリシュナ・ミッションの僧院長であられるスワミ・ランガナータナンダジが日本にお越しになって、ある集会で講話をされました。そのときにロウさんをはじめ、何人かの方々に日本でヴェーダーンタ普及の組織をつくるようにとご指示されました。しかしラーマクリシュナ・ミッションの組織を日本につくるということについてロウさんを手伝える人はわずかでした。それでもロウさんは何度も何度も、その集会で組織を結成しようということを訴えました。それに応えた人の一人が中井さんでした。以上が中井さんがどのようにしてヴェーダーンタ協会にはいられたかということのあらましです。
 ロウさんは中井さんにヴェーダーンタの本を何冊か渡しました。その中の一冊がカルマ・ヨーガだったのですが、中井さんはこのカルマ・ヨーガにたいそう感銘され、「これが自分が長年探し求めてきたものだ」と思われました。カルマ・ヨーガに書かれているヴィヴェーカーナンダの教えは大変理論的で、人生の目標についても触れられていました。これがきっかけとなって中井さんを四〇年間、その生涯を閉じられるまでずっとヴェーダーンタにつなぎ止めていたのです。
 ロウさんは中井さんに助けを求めました。それはまず、ヴェーダーンタの教えを英語から日本語に翻訳すること、それからヴェーダーンタ協会が発行している雑誌を編集することでした。それがいかにすばらしく立派なものであったかということは皆さんがご存じだと思います。
 当時中井さんが住んでおられた、渋谷神泉のお宅が日本ヴェーダーンタ協会の連絡所として使われました。その表札はホーリーマザーズ・ハウスに残っています。
 ホーリーマザーズ・ハウスは一九七〇年に建てられました。それ以来ときどきミッションからスワミ方がそこに滞在されました。現在シアトルのセンターの会長であられるスワミ・バスカラーナンダジがよく訪れました。
 一九七八年からは、昨年おかくれになったスワミ・ブテシャーナンダジもよくお越しになりました。そしてこのことによって中井さんをはじめ、日本の信者の方々がラーマクリシュナの教えについて、また、ラーマクリシュナ・ミッションのスワミ方を知るようになりました。スワミ・ブテシャーナンダジがこちらを訪れられたときに、中井さんはブテシャーナンダジからイニシエーションをお受けになりました。それは一九七八年のことでした。
 それ以来、中井さんは何度もインドのカルカッタのベルル僧院を訪れました。一九七八年、協会の本館ができました。この建物を建てる経費は主に二人の方の寄付によりました。一人はインド人ビジネスマンのガジリヤさん、もう一人は中井さんです。もちろんほかのインドのビジネスマンや、日本の信者からの寄付もありました。それ以後しばらくしてから中井さんは現在のホーリーマザーズ・ハウスに常住されるようになりました。
 一九八四年、カルカッタの本部からここが認証されるようになり、一人のスワミが派遣されました。最初に本部から派遣されてこちらの長になられたのはスワミ・シッダルターナンダジでした。それ以来、中井さんは常の翻訳、会報の編集、来客の応対、電話の応答、それからの会計などに加えて、シッダルターナンダジの例会の通訳など、あらゆる面で協会の仕事を手伝ってこられました。
 私が中井さんにインドでお会いしたのは一九九三年で、そのときには私はもうこちらに来ることが決まっていました。そのときは中井さんがどういう方なのか私には全く分からなくて、私にたいそう重要な話をされたのですけれど、なぜそのように重要な話をされるのか分かりませんでした。
 そして私が日本に赴任してから、中井さんがどういう方なのかということをはじめて知ったのです。そのとき中井さんは八六歳でしたが、そんな風には見えませんでした。というのは、とてもお元気で活動的であったし、霊的にも活気があったのでそんなお年とは想像もつきませんでした。
 一九九三年、私がこちらに赴任して、シッダルターナンダジがインドに帰られてから中井さんと親しく仕事をするようになり、シッダルターナンダジがいらしたときと同じく、私の仕事を手伝って下さいました。そして愛情から、また私のことを心配して色々なアドバイスをして下さいました。そのアドバイスを全部聞き入れることはできませんでした。でもいかに私のことを心配して下さっているか、いかに愛情を持っているかということはよく理解することができました。
 また中井さんのように愛情を持った信者がいるということも理解することができました。それから中井さんが下の食堂の部屋の隅に、いつも背中を曲げてすわられて電話に応対されて、信者との会話を楽しまれていたのを今でも覚えています。信者の中には、中井さんに会いに、また中井さんと話すためにこの協会を訪れるという方もいらっしゃいました。その当時、私は全く日本語が分かりませんでしたが、来られた信者と中井さんが長い間話しておられるので、その信者が中井さんとの話をいかに楽しんでいるのがよく分かりました。
 私が一番感謝しているのは、中井さんがその信者との話を通訳して下さったことです。それから大変驚き、また感謝しているのは、毎月新橋で行われた例会のことです。中井さんに、いっしょに行きましょうと言っても、「自分は先に一人で行きます。いつも来ている信者がいますから、その方たちと話をするために早く行きます」と言って、いつも先にいらっしゃいました。そのころの中井さんは少し耳が遠くなられていて、一人で歩くというのは、車のクラクションなどがよく聞こえないので、危ないことではあったのですが、頑として一人で行くと言って、一人でいらっしゃいました。それから中井さんは、女子学院時代の同窓会にも欠かさず出席されていました。その同窓会に集まっている人というのはもちろん中井さんと同じ年齢の方です、そして何人集まったかということを話して下さいました。また中井さんのように耳が遠くなられた方も多くなっていたので、他人の話を聞かないで、自分のことばかりしゃべっているというときもあったそうです。ですから一方通行の会話だったのでしょうね。それから毎年行かれては、ああ、今年は二人来られなかったとか、今年は二人が来られなかったとか、もう同窓会には来られないほど弱っているのか、あるいは亡くなられたのかというようなことも話されました。
 一九九六年、この近所で車が中井さんをはねるという事故があったのですが、そのような事故があるまではずっと同窓会に出席されていました。それほど大きな事故ではなかったのですが、それ以来ホーリーマザーズ・ハウスから出られないようになりました。
 一九九七年、中井さんは手紙を出すために外に出、それを投函された後、道で倒れられ、救急車で鎌倉のヒロ病院に運ばれました。かなり危険な状態でしたが、一応回復されましたが、元の通りの健康状態には戻れず、介護する人が必要であるという状態でした。そのような状態で中井さんをどのようにお世話したらよいのかと皆が思い悩んでいるときに佐藤尚志さん、洋子さんご夫妻がご自分たちの家に中井さんを連れて行ってお世話をするとおっしゃいました。それから二年八ヶ月の間、中井さんが亡くなられるまで、佐藤さんご夫妻は心から愛情と誠意をもってお世話されました。そのためご夫妻は大変な時間と精力を使われました。経済的な援助は中井さんのご一家からもありましたけれど、信者の方々も中井さんをお世話するにあたって費用の一部を援助して下さいました。
 私は毎月中井さんを訪れておりました。十月十三日から六週間インドに帰る前にも中井さんのところを訪れたのですが、何か起こるのではないかと、インド滞在中も心配しておりました。中井さんは日に日に弱っていたのですが、お医者さんは身体の中の臓器は良い状態であるとおっしゃっていました。老いから身体はだんだん弱って来ていても、よく食べ、よく眠ることもできてほとんど亡くなる直前まで健康的な生活を送られていました。
 私がインドから帰って二、三日して、小薗井さんと中井さんのところを訪れたのですが、それから間もなく容態が悪くなったという連絡がありました。中井さんは肺炎にかかっていたのです。それから危篤という連絡が入って、十二月八日の朝、私は中井さんのところを見舞ったのですが、中井さんに話しかけても何の反応もありませんでした。多分私の声は聞こえていたと思うのですけれどもそれに応える力がもうなくなっていたのだと思います。また何日間かほとんど食べたり飲んだりできない状態だったというように聞いていました。
 中井さんは、医師や、小薗井さん、佐藤ご夫妻に生命維持をするような人工的な措置はしないようにとおっしゃっていました。
 インドでも同じように、亡くなる何日か前には何も食べないという状態になり、そのときに人々は神の御名を唱え、瞑想をはじめます。中井さんもそのような状態でしたから、私は中井さんのところから戻ると即座に、信者の方々に、もし中井さんに会いたかったら一刻も早く会いに行くようにと言いました。そして十二月八日、私が夕拝を終えたときに鈴木さんが、私に佐藤さんから電話があり、午後五時五〇分に中井さんが息を引き取られたことを伝えてこられたと言いました。そのとき運良く車を持っていた信者がいらしたのでその車ですぐに佐藤さんに家へと駆けつけました。中井さんはとても安らかに平和そうに横たわっておられました。信者であれば誰でも、中井さんのような死に方をしたいと願うことだと思います。居合わせていた信者の方々はラーマクリシュナの、そしてホーリーマザーの御名を唱えて、バガヴァッド・ギーターの章を朗誦いたしました。
 そのときには中井さんの弟さんの奥さんと娘さんもお出でになったので、佐藤ご夫妻とも話し合い、中井さんのご縁者のたってのご希望で葬儀は、中井さんの家の宗派にのって行うことになり、お通夜を中井さんが長年暮らしておられたホーリーマザーズ・ハウスで行うことに同意されました。そして、この近くの光明寺というお寺が中井さんと同じ浄土宗のお寺だったので、そちらからお坊さんが来て下さり、十二月九日の夜、ホーリーマザーズ・ハウスでお通夜が執り行われました。お通夜にはご近所の方々、信者、そして中井さんのご親戚、合わせて三二名が弔問に来られました。翌十日には同じくホーリーマザーズ・ハウスで葬儀が執り行われました。弔問客は五〇名でした。その後火葬場へ行き、中井さんのお骨の一部は信者がベルル僧院へ持って行き、そこからガンジス河に流すことに決まり、残りのお骨は中井さんのご遺族に渡されました。すべてのことは午後三時三〇分に終わりました。
 以上で中井さんが亡くなられた後の経緯、それから私の中井さんについて思っていることをお話ししました。
 始めの部分でお話しいたしましたように、中井さんは四〇年間この協会のために奉仕なさいました。その熱心な奉仕によって協会がこのように発展したのです。中井さんは日本でのヴェーダーンタの活動で歴史的な人となられるでしょう。
 この協会の一階には中井さんが翻訳あるいは編集された本がたくさん並べられてあります。中井さんは信者であり、たいそう知的な女性であり、そして愛深い人でした。また礼儀正しい人でしたが、確固たるものを持っていらっしゃいました。そして大変ユーモアの富んだ人でした。時間がなくて、そしてそのことすべてを話すことはできませんが、私の中井さんに対する思いの一部を申し上げることで中井さんへのはなむけにしたいと思います。

(テープ起こし、平石知子氏)

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