不滅の言葉 98年1号

スワミ・アドブターナンダ――その教えと回想(17)

スワミ・チェタナーナンダ


スワミ・アドブターナンダ

部分

    愛について

 シュリ・ラーマクリシュナの在家信者が、あるとき、手紙で自分の愛をラトゥ・マハラージに伝えたことがあった。ラトゥ・マハラージは言った、「人に愛を伝えるのはそれほどたやすいことだろうか? 真に愛を伝え得るようになるためには、多くの霊的修行が必要である。普通の人びとが、愛について何ほど知っているというのか? 神のみが真に愛することができるのであり、明知を得た人びとのみが真に愛を伝えることができるのだ」

 別のおりに、彼は言った、「君の愛は、世俗への執着が湧き出したものだ。犬同士は、一緒に遊ぶし、食べ物をめぐって争いもする。君たちの愛はそれと似ている。君たちは、お互いに抱擁を交わし、やさしい言葉をかけあうが、君の私利を誰かが侵した瞬間に、君は怒り出して、殴りかからんばかりになる。その種の愛をおもてに出すな」

    謙遜について

 ある日、富裕な信者が、慣習にのっとったやり方でラトゥ・マハラージに挨拶をした。つまり、手を組み、それを自分の頭のほうに掲げたのだった。これを見てラトゥ・マハラージは言った、「いいかね。神、僧、修行者に対しては、うやうやしく身をかがめて敬礼をしなければならない。シュリ・ラーマクリシュナはよくおっしゃっていた、『この種の斧振り上げ式の挨拶のしかたには何のとりえもない』、と」

 その場にいたもう一人の信者が尋ねた、「マハラージ、斧振り上げ式の挨拶とは何ですか?」

 ラトゥ・マハラージ「通常やるようにして、組んだ手でひたいに触れるのが、師がおっしゃっていた斧振り上げ式の挨拶だ」

 富裕な信者「マハラージ、おゆるし下さい。われわれは、挨拶の本当の意味を知りませんでした。われわれは単に習慣に従っていただけなのです」

 ラトゥ・マハラージ「私は気にしていない。君のせいではない。だが、師がおっしゃったことを覚えておくように。等しい者のあいだでは、君がたった今やったように挨拶を交わせばよい。しかし、その人が、知識や、知性、名誉、力、霊性の点で君よりもすぐれているならば、うやうやしく身をかがめて敬礼しなければならない。彼の前では謙虚にし、彼の言うとおりにしなければならない。他者に敬意を払っているときには、君の考えと言葉とを一致させるようにせよ。見せるためだけの挨拶には何の価値もない」

    名について

 「シュリ・ラーマクリシュナは、主の御名を唱え始める前に、御名に挨拶せよ、とよくおっしゃっていた。人は、主の御名に帰依しなければならない。名と、名づけられたもの、つまり主は、ひとつなのだ。人が一心に御名に祈りをささげれば、その人の祈りは主に届く。「いいか。主の御名そのものがシャクティ、すなわち、神の御力であり、名づけられたものが神御自身なのだ。シャクティに礼拝しなければ、神をさとることはできない」

    神の諸相

 信者「マハラージ、守護神以外の神や女神のヴィジョンを見るのはよいことなのですか?」

 ラトゥ・マハラージ「神の姿を見ることは、常によいことだ。瞑想中に、君の守護神が多くの姿をとって君の前に現われるのがわかるだろう。これは彼の神遊びなのだ。彼の中には多くの姿がおさめられているのだから、それらを区別する必要はない」

 信者「聖典には、神のさまざまの姿が個別に書かれてあって、各々の神格について、所定の瞑想があり、礼拝法があり、何らかのマントラがあります。だとしたら、自分自身の守護神について瞑想しているときに、どうすれば神の他の姿を見ることができるのでしょうか? これらのヴィジョンは人の霊性の進歩に役立つのですか?」

 ラトゥ・マハラージ「君たちは、神々や女神が互いに区別できるものと考えているが、実際には、それらはすべて同じものなのだ。姿が多くてどうだというのだ? よいか。君は一人の人間だ。君が怒ると、君の顔は一つの表情をとる。笑うと、別の表情を見せる。泣けば、さらに違って見える。君の顔の表情は君の感情と共に変わる。しかし、君は一人の人間として、常に同じままでいる。誰かが君の名を呼べば、君は自分の気分がどうであれ、答えを返す。シュリ・ラーマクリシュナはよくおっしゃっていた、『カメレオンは、色を変える。赤くなるときもあれば、緑、黄、灰色、紫、青、その他の色になるときもある。人は、カメレオンは自分が見ているときと常に同じ色でいる、と思うかもしれない。だが、カメレオンが住んでいる木の下にいる人は、カメレオンが時によって色を変えることを知っている。これと同じように、自分の守護神について深く瞑想する人は、さまざまの御名、さまざまのお姿が実際には同じ実在の異なる諸相にすぎないことを、ついにはさとるのだ』と」

    祈りについて

 信者「マハラージ、神についての疑念を晴らすには、祈りと論証のどちらががより容易な方法でしょうか?」

 ラトゥ・マハラージ「シュリ・ラーマクリシュナはよくおっしゃっていた、『理性を通じて神を知ることができようか?彼の力と栄光は、無限なのだ。論証しすぎれば混乱を招くことがあるし、さらには、無神論的な姿勢に通じることもある。だから、あこがれる心で神に呼びかけるほうがよい』と。師はさらにおっしゃった、『ワインをひとびん飲んで酔うことができるならば、居酒屋に酒樽がいくつあろうと知ったことではなかろう? コップ一杯の水で渇きがいえるならば、地球上にどれくらい水があるか計算しようとして脳みそを絞ることもなかろう?」

 信者「私たちは誰に呼びかければよいのですか、マハラージ、グルですか、それとも守護神ですか?」

 ラトゥ・マハラージ「どちらに呼びかけてもよい。同じことだ。グルと守護神とは同じものだ。霊的な修行を積んでいなければ、祈願者の心に疑念が生まれる、そしてその疑念がすべての苦悩の根なのだ。君のグルを信頼せよ。彼に誠実であれ、餌をくれようがくれまいが主人のもとを決して離れない牛のように。『私はあなたのしもべであり、あなたは私の師である』と言え」

    礼拝について

 「礼拝とは何か、知っているか? すべては主の持ち物である。だとすれば主に捧げられるものがあろうか? だが、師はよく私たちにおっしゃっていた、『あるとき、ある富裕な男が自分の果樹園をおとずれた。彼は、園丁たちが忙しく立ち働いているのを見た。管理人が男に近寄ってきて、熟したパパイアを贈り、『御主人様、昨日この熟した果物をあなたのためにもいでまいりました。どうかお受け取り下さい』と言った。さて、所有者は、この庭も、樹も、果物も、すべて彼の持ち物であることを知っている。だが、彼は管理人の愛と配慮とに感謝しないだろうか? 礼拝とはこのようなものだ」

 また別のおりに、ある信者が母なる神への礼拝のために、安手の小さな布きれを買ってきたことがあった。ラトゥ・マハラージはすっかり当惑した。彼は言った、「その布は捨ててしまえ。短すぎる。なぜこんなに安っぽいものを買ったのか。母には常に上等な布を捧げよ。買えなければ、涙を流して言え、『母よ、私はあなたに何も捧げることができません。どうかおゆるし下さい』と。主に礼拝するのに安い薄っぺらの布とか、いたんだ果物とか、ぱさぱさの菓子とかを買ってくる人びとがいる。君たち自身が使ったり食べたりしたくないようなものを、なぜ主に捧げるのだ? 投げやりに礼拝を行なうよりも全く礼拝しないほうがましだ。喜びと愛とを持って主に主の物を捧げる人こそ真に幸いだ。帰依の心でお贈りしたものでなければ、主はお受け取りにならない」......................

 


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