不滅の言葉 97年6号

 ヒマラヤ山脈の膝元にて(3)―神聖なる放浪

スワミ・アカンダーナンダ

部分

   第二章 ヤムノートリ

 私はテフリを出発し、ガンゴートリへの舗装道路を三六マイル(約五七・六キロメートル)歩いた。私はカーンパテ・サドゥー(*カーンパテ=「破れた耳」の意。この宗派のサドゥーたちの耳は引き裂かれている)たちの小さな村ダラスに着いた。ここからはヤムノートリへの近道がある。しかし、道を知らない旅人はこの道をとる危険を決して冒すべきではない。その道は人っ子一人いない深い森を通らなければならない。道の周囲は密林で、いったん道に迷うと正しい道に戻してくれる人は誰もいない。私は旅の次の段階でこの近道をどのようにして通り抜けるべきか思案していた。正午にダラスに到着した。私は一〇人の丘陵民の一団が休息しているのを見た。彼らは頭に楕円形の縁なし帽子をかぶっていた。私は彼らがヤムノートリ高原のヤムダグニャジ・マカム村から来た者たちであることを知った。彼らはデフラドゥンに買い物に来て、今家に帰るところであった。このことを聞いて、私は大いに助かったと思った。私は何人かの仲間なしではこの近道をとることはできないと考えていたのだ。しかし、神は偉大である。神の助けは知ることのできない仕方でやって来る。神が御自分の帰依者を救おうと決心されたなら、誰がその代役をつとめることができようぞ! この森を通り抜ける困難な旅に良い仲間を見つけるべきであるというのが神の御意志であった。丘陵民たちも私がヤムノートリへ行くつもりなのを知って喜んだ。

 ヤムノートリ高原の人々の服装は、ラムプール・ベサハリの人々のものとよく似ていた。

*シムラ地方北部はラムプール・ベサハリとして知られている。ヤムノートリのこの地域とラムプール・ベサハリの一部は西ガルフワールにある。そこで彼らの服装は似ているのである。

 彼らは同じ丸く高い羊毛の縁なし帽子をかぶり、布靴を履き、長い上着を着ていた。東ガルフワールの人々は、概して異なった衣服を着ていた。ヤムダグニャジ・マカムまではダラスから二日間かかる。途中には村一つない。旅行者は夜をキャンプファイアの周りで過ごすのである。道の途中にはキャンプファイアの名残りの灰の山があった。また、松の大きな丸太もあり、私たちはそこで夜を過ごした。山の斜面には松林があり、そこの気候はちょっぴり暖かい。これらの木々はスルの木に似ている。私の旅の道連れたちは松の丸太を二、三本集めて火を燃やした。火はすぐに大きな炎となって燃え盛った。私たちはその火でローティを焼いた。コード(*あわの一種。きめが粗くさほど美味しくない)の粉であった。男たちは大きなローティを二枚ずつ平らげると、衣服を脱いで、焚き火の明かりの下でしらみをとり始めた。この寒い土地では、しらみは着たきりすずめの衣服にとりつき、温かい血を吸って繁殖するのである。

    しらみと歓迎しない村人たち

 しらみは蚊や蚋やゴキブリよりも始末の悪い害虫である。しらみは衣服にとりついて、血を吸って生きる。私たちの焚き火は大層明るかったので、野生動物はよりつきそうもなかった。こうして、その夜は邪魔されることなく過ごすことができた。次の日の夕方ヤムダグニャジ・マカムに着いた。その村はヤムナー河のほとりにあった。村の寺院には古代の神々の像がたくさんあった。私はここで二、三日過ごし、三日目にヤムノートリに向かって出発した。

 ヤムノートリへの道はヤムナー河に沿っている。ヤムダグニャジ・マカムを出発した次の日に、途中でダシャナーミ・ナーガ派のサンニャーシンとヴィシュヌ派のサドゥーに出会った。二人ともヤムノートリを訪れたあと、丘の道を通ってジャンムからやって来たのである。彼らはバドリナラヤンに行くつもりであった。私たちはこの場所で出会うことができて大変うれしかった。私は神が送られた聖なる仲間たちを置いて一人で先に進むことなど全く考えられなかった。したがって、私たちはヤムノートリまで一緒に旅することにした。

 ヤムノートリはガルフワール地区のラマウリ・パルガーナにある。ここの人々は全く不親切である。私たちは日の出前に出発し、日中まで歩き続け、食事をとり、しばらくして再び歩き始め、途中の村に泊って夜を過ごした。道路はヤムナーの流れに沿って続いていた。途中、私たちは大きな山を登らなければならなかった。道は私たちを再び河へ導いた。私は道中、道の上がり下りを数えるために立ち止まった。道すがら多くの歩行者を見たが、すべてが土地の人々であった。ヤムノートリへ向かう巡礼者に対するいかなる種類の設備もなかった。ラングアとカプラという野菜が川の土手にたくさん見つかった。私たちは存分にその野菜を摘み、昼間には私たちの友人のヴィシュヌ派の僧が近くの村に乞食(こつじき)に行った。彼はザンゴーラとシャマカの穀粒に野菜をまぜて水筒で料理を作った。私たちはいつも腹をすかしていたので、この質素な食事を感謝して食べた。この地方にはどの村にも休憩所があった。私たちはいつもそこで休憩した。

 ほかの人たちも皆が私たちと同じ困難を経験しなければならなかったのかどうか分からない。私たちは軒なみ托鉢して回ったのに、三人にとって十分な施物を集めることはできなかった。旅行者が一日中休憩所に坐っていたとしたら、その人は飢えて死んでしまうだろう。その人が食べ物を持っているかどうか尋ねることなど誰もしないからである。旅行者は一軒ずつ回って、「おめぐみ下さい! おめぐみ下さい!」と叫ばなければならない。ガルフワールの住人のすべてが無慈悲であるというわけではない。ダサウリの東パルガナ、特にバドリナラヤンの付近には、比較的慈悲心のある人々がいる。ヒンディー語には、「ガルフワールの人は脅かされたときだけ寛大である」という諺がある。......................


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