不滅の言葉 97年6号

愛の宗教(7)

スワミ・ヴィヴェーカーナンダ

部分

第六章 理想神

 前章で語ったイシュタム(理想神)の理論は注意深く見るに値するものである。この理論を正しく理解することによって、世界中のさまざまな宗教のすべてを理解できるからである。イシュタムという言葉は、欲するとか、選ぶという意味の、ish という語幹から派生している。すべての宗教・宗派の理想、人類の理想は同じだ。自由を達成し、悲惨を根絶することだ。宗教があるところには、必ずこの理想が何らかの形で働いていることが見いだされる。もちろん低い段階にある宗教の場合はあまりはっきりと表現されていないが、表現がはっきりとしていようがいるまいが、それでもなおそれは私たちのすべてが近づこうとしている目標だ。私たちはみじめさ――日常的な、また、その他のみじめさを取り除いて、肉体的・精神的・霊的な自由に到達しようと努力している。これらを包括した考えの上で世界中が動いているのだ。目標は同じだが、そこに到達する道はたくさんあるだろう。そして、これらの道は私たちの性質によって決められる。ある人の性質は情的だ、別の人は知的だ、他の人は活動的だ、などというように。また、同じ性質の中にも、たくさんの小さな違いがある。たとえば、愛――これについては私たちは特にバクティという主題で関わっているのだが――について言えば、ある人は、生まれつき子供に対して強い愛を抱き、他の人は妻に、他の人は母親に、他の人は父親に、他の人は友だちに、強い愛を持っている。別の人は国を愛している。少数の人びとは広い意味で人類を愛している。この最後については、これが彼らの生を導く動機づけの力であるかのようにすべての人々は語るにもかかわらず、このような人々はもちろんきわめて少数だ。ほんのわずかの賢者たちがそれを経験している。人類のうちのわずかの偉大な魂たちがこの普遍的な愛を感じている。そして、この世界にこのような人々がいなくならないように希望しようではないか。

 一つの主題においても、目的を悟るのに数多くの道があることを見いだす。すべてのクリスチャンはキリストを信じている。しかし、キリストについて、なんとさまざまの説明があるか考えてみたまえ。それぞれの教会はキリストを異なった光で、異なった観点で見ている。プレスビテリアンの眼は、キリストの生涯のうちで、両替人たちのところに行ったときの光景だけに集中している。彼はキリストを戦士と見ている。クエーカーに尋ねると、「キリストは敵を許した」と答えるだろう。ローマン・カトリックの人に、キリストの生涯のうちでどの点が一番喜ばしいかと尋ねれば、多分、「ペテロに鍵を渡したときだ」と言うだろう。それぞれの宗派はそれぞれの仕方でキリストを見るように縛られている。

 従って、同じ主題についても、数多くの分類、細分類があるということになる。無知な人々はこれらの細分類の一つを取り上げ、その上に足場を築いて、ほかの人々が宇宙を自分の観点で解釈する権利を否定するばかりでなく、他の人々は完全に誤っている、自分たちだけが正しいと、大胆にも主張する。反対に会うと、彼らは戦いを始める。そして、自分たちが信じていることを信じない奴は誰でも殺すと言う。過去に、ある種の狂信者たちはそのようにしたのであり、あるものたちは、今でもさまざまの国でやっていることだ。彼らは、自分たちは誠実であると信じ、他の総ての人々を否定する。しかし、このバクティ・ヨーガで私たちが採ろうとしている立場は何か。私たちは、狂信者たちのように、他の人々は間違っているとは言わないばかりか、自分自身の道に従っているすべての人は正しいと告げる。あなたの性質が採用するものがあなたに絶対に必要だする道は、正しい道なのだ。前生の経験の結果、それぞれの人はそれぞれ独自の性質を持って生まれている。それを、生まれ変わった過去の経験と呼ぼうと、遺伝した過去と呼ぼうと、どちらでもよい。それをどう言おうと、私たちは過去の結果だ。何かが存在していたとしたら、これだけは確かだ。その過去がどのような道を通って来ようとも。従って、私たち一人一人は結果であって、私たちの過去がその原因だ、ということになる。だから、私たちそれぞれが独得の行動、独得の傾向を持ち、各々が、自分で自分の道を見つけなければならないのだ。

 私たちが自ずから適応する道や方法は、「選ばれた道」と呼ばれる。これがイシュタムの理論だ。私たちのその道を、私たちは自分のイシュタムと呼ぶ。たとえば、ある人の神の観念は、宇宙の全能の支配者だというものだ。彼の性質は多分そのようなものなのだろう。彼はすべてを支配したがる威圧的な人間なのだ。だから当然神を全能の支配者だと考えるのだ。別の人で、学校の先生かなにかで、厳しい性格の人は、正義の神、懲罰の神のようなものとして以外には神を考えることができない。私たちはそれぞれ自分の性格に従って神を見る。私たちの性格によって条件づけられたこのヴィジョンが私たちのイシュタムだ。私たちは、神のそのヴィジョンを見ることができるところまで自分自身を運んできたのだ。それだけのことだ。それ以外のヴィジョンを見ることはできない。あなたは時々、ある人の教えが最善で、自分に一番合っていると思うだろう。翌日、友人の一人に、それを聞いてくるように頼む。しかし友人は、それがそれまでに聞いた最悪のものだと思って帰ってくる。彼が悪いのではない。彼と喧嘩しても無駄だ。教えは良かったのだ。しかし、彼には合っていなかったのだ。さらにいうと、真理は真理でありうるが、同時に誤りでもありうることを理解しなければならない。......................


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