不滅の言葉 97年5号

スワミ・アドブターナンダ:その教えと回想(15) 部分

    霊的な助言

 マーヤーヴァティにあるアドワイタ・アーシュラマにしばらく滞在していたドクター・デ・メロが、ある夕べ、ラトゥ・マハラージに会いに来た。スワミに近づこうとすると、スワミがご自身に向かって「神には形がなく、また形がある」と言っておられるのが聞こえた。不思議なことだが、これはドクター・デ・メロにとって最も気になっていた考えだった。そこで彼は尋ねた。「神に形があるならば、人には神が見えるのですか?」

 ラトゥ・マハラージ「見えるとも」

 ドクター・デ・メロ「マハラージ、マーヤーヴァティにいるとき、私は机の上にイエス・キリストの図像を置いて彼を瞑想していました。あるとき、その図像が生きている姿のように見えたのです。すると突然その姿が消え、代わりにシュリ・ラーマクリシュナが見えました。それからまたその姿は消え、その場所に仏陀が現われたのです。これは幻覚だったのでしょうか?」

 ラトゥ・マハラージ「いや、違う、違う。幻覚ではない。よくあることだ。君は正しい道にいる。そのまま進みなさい。一つの偉大な魂を見た者には、他の多くの魂も見える。シュリ・ラーマクリシュナはよく多くの神々のお姿を見ておられた」

 ドクター・デ・メロ「マハラージ、ときどき私は混乱するのです。誰を瞑想したらよいかわからないのです」

 ラトゥ・マハラージ「君は誰を最も愛しているのか?」

 ドクター・デ・メロ「イエス・キリストとラーマクリシュナを同等に愛しています」

 ラトゥ・マハラージ「いつも愛してきたのは誰か?」

 そこで、ドクターは彼の一族の歴史について少し語った。彼の一族は、前の四世代にわたってキリスト教徒だったのであった。

 するとラトゥ・マハラージは、「キリストを瞑想しなさい。彼を信じ、彼に祈りなさい。君は目標に到達するだろう」と助言した。

    西洋からの訪問者との対話

 あるとき、西洋の婦人が二人、カルカッタのバララームの住まいにラトゥ・マハラージを訪ねて来た。彼女たちは無神論者であったが、人のために善意の仕事をすることは良いことであると信じていた。彼女たちはラーマクリシュナ僧団の人道的な活動のことを聞いていた。チャンドラセーカル・チャタージが通訳にあたった。

 婦人一「他人に善をなすのが人生の理想です――この点では私たちはあなたがたに賛成します。しかし、あなたがたは慈善活動よりも神のほうに高い地位を与えておられます。それには賛成しません。神は知覚することのできないものですし、神の存在を証明することはできません。なぜ、この未知の実体を最初に信じてから他人に善をなすように人びとにお求めになるのか、私たちにはわからないのです」

 ラトゥ・マハラージ「神を信じることなしに人類に奉仕しようとする人びとは長続きしない。少したつと突然疑問を感じ出す。『これによって私は何を得るのか?』と。そしていったんこの疑問が生じると、興味を失い始める。他人に奉仕したいならば、何らかの個人的な犠牲を払わなければならない。他人のために犠牲を払おうという願望は、神を信じない限り生まれないことを君たちはさとるべきだ」

 これを聞くと婦人たちは二人とも笑って、第二の婦人が「それでは説明になっていません」と言った。

 ラトゥ・マハラージ「なぜ君たちは慈善活動をしたいのか教えてくれるか?」

 婦人二「慈善活動はほかの人のためになるから私たちはやっているのです」

 ラトゥ・マハラージ「しかし、それによってこの私は何を得られるのかね? なぜ私は他人のために働かなければならないのだろうか?」

 婦人一「私たちは社会に生き、同胞たちに義務を負っています。その義務を果たすことが私たちの信条だからなのです。私たちの理想は苦しみをやわらげることにあります」

 ラトゥ・マハラージ「君がたった今言ったことよりも高い理想がある。それは、神のさとりだ。そのために励む者が勇者なのだ。他人に善をなすのは、とどのつまりは社会活動にすぎない。神のさとりとは何の関係もない。それに、慈善活動は他人のためになるかも知れないが、君についてはどうか? 他人のために働くことによって、君に何の利益があるか説明することができるか?」

 この時点で婦人たちは二人とも当惑した。

 ラトゥ・マハラージは続けた。「なあ、君たちの主張には抜け穴がある。どんな主張にも必ずすきがあるものだ。君たちが神の実在を認めたときにだけ、すべてが意味を持つようになる。私たちが人生の中に神を導き入れると、食い違いは減り、すべては自分自身にぴったり合っているように感じるものだ。肉体の次元では私自身と他人とのあいだには違いがあるが、霊の次元では私たちは同じサチダーナンダ〔(sat)存在―(cit)知識―(ananda) 歓喜=絶対者。ブラフマンの別名 〕なのだ。この観点からは、誰も他人を助けることはできない――人は自分自身を助けているだけだ。私たちの慈善活動のかなめはこうだ。他人に善をなすときには、私たちは私たち自身と他人とのあいだにある見かけ上の区別を忘れようとする。他人の幸福は、私の幸福だ――それが私たちの姿勢だ。自分の幸福を望まない者があろうか? もし君たちが神を信じ、その上で社会に奉仕すれば、君たちは決して腹立たしい思いをすることはあるまい」

 婦人一「あなたの主張で一点、わからないことがあります。どうして多数の人が私の一部になり得るのですか?」

 ラトゥ・マハラージ「だが、なあ、これは主張ではなくて一つの事実なのだよ。多数の人は、一つのサチダーナンダの一部である――これが真理だ。違いは名と形の上だけのものだ。ちょうど、同じ銀が、コップや皿や指輪その他に形を変えるのと同じだ。これと同じように、君、私、そして他人は、外面上は違っているかも知れないが、本質では私たちはみな同じサチダーナンダなのだ。同じ神が多数になり、違う名、違う形をとって遊んでおられるのだ」

 婦人一「それを証明できますか?」

 ラトゥ・マハラージ「もちろんだ。しかしその証明は他人に示して見せられるようなものではない。自分自身がさとるという出来事なのだ。愛を他人に示して見せることができるか? 愛する者と、愛される者とだけがそれを感じるのだ。部外者にそれがわかるか? これは神の場合と似ている。神と、神の寵愛を受ける者だけがそれを理解することができるのだ。他人にはできない」

 婦人一「うまいたとえです」

 婦人二「それでも疑問は解けません。神を信じていなくて、それでも他人に多くの善をなしている人がいるとします。彼はそれによって利益を得ませんか?」

 ラトゥ・マハラージ「得る。あらゆる行為はそれに応じた結果を生む。ある人は、慈善活動をすることによって、社会的な利益を得るだろう。しかし、その活動に彼のエゴが関係していたなら、霊的な利益は全く得られない。善行ですら、エゴと関係していたなら、その結果は束縛に変わる。私心に動機づけられた行為によっていては、カルマの小車から逃れることはできない。その一方で、無私の行為は、行為による束縛を打ち砕き、人に解脱をもたらすのだ」

 婦人二「私にはそれは納得できません。何の動機もなしに他人に奉仕している人など見たことはありません」

 ラトゥ・マハラージ「全く何の動機もなく他人に善をなすことができると言っているのではない。動機を神に向けよ、と言うのだ。誰もが神を見られるわけではないが、神の実在を信じなければならない、そしてその信仰が神を見る手がかりなのだ。まず神を信じ、それから神の子供たちを愛しなさい。たとえば、誰かがある仕事をひときわうまくこなしたとする。その知らせが王の耳に入り、王は彼を召し出した。仕事がうまくできたから、王と会見することができたのだ。これと同じように、主の子供たちに愛をもって奉仕することによって、君たちは彼の恩寵を得、また彼のヴィジョンをも得るだろう。みな神の子供なのだ」

 西洋の婦人は二人とも感銘を受け、のちに、ローマからラトゥ・マハラージへ感謝の手紙を書いた。......................


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