不滅の言葉 97年1号


スワミ・アドブターナンダ

スワミ・アドブターナンダ その教えと回想(12)

スワミ・チェタナーナンダ

   

第十章 彼の逝去

 生涯の終わりに近づくにつれ、ラトゥ・マハラージは次第に世間から身を引きつつあるように見えた。彼はだんだん少しの人としか話したがらなくなったように見え、話すときはおおむね高次のことがらについての話をした。かつてはきわめて壮健であった彼の肉体は、年齢によって、そして多年にわたる厳しい霊的鍛錬と物質世界への無関心な態度とによって、次第に弱くなっていった。最後の数年間、彼は一見、大したことはないと思われる病気をわずらっていた。その後、生涯の最後の年のあるとき、脚に疱疹ができた。それをちゃんと治療しなかったので、ついには壊疽(えそ)が生じた。一人の信者がカルカッタから医師を連れて来て、医師が傷を手術したので、一時的に感染はおさえられた。その信者は術後の数週間、スワミのもとにとどまって、看病した。ある日、信者の中に一抹の自尊心のあることに気づいて、ラトゥ・マハラージは彼に言った。「君は私に仕えていてくれるが、それを人に自慢してはならない。人は、神、グル、そして病人に対して、大きな愛と謙遜とをもって仕えねばならないということをおぼえておきなさい」

 このころ、ヴァラナシにあるラーマクリシュナ・ミッションの奉仕の家にいたスワミ・トゥリヤーナンダがしばしば彼を訪ね、一時間かそこら黙って彼のそばにすわっていた。ある日、一人の信者がスワミに尋ねた。「マハラージ、なぜそのように黙ってすわっていらっしゃるのですか? ラトゥ・マハラージはあなたにお話をなさいません」

 スワミは答えた。「ラトゥ・マハラージはほとんど常に深い瞑想に入っておられる。どうして私と話せるか? だから私はしばらくのあいだ黙ってすわり、彼と共にいる神聖なひとときを楽しんで、そして去るのだ」

 スワミ・サラダーナンダもまた、カルカッタから彼を訪ねて来た。彼はラトゥ・マハラージの足のちりを取ってから尋ねた。「やあ、サドゥ、調子はどうかね?」

 ラトゥ・マハラージは答えた。「肉体があるというのはわずらわしいことだ」

 あとで、もう一人の僧がスワミ・サラダーナンダに尋ねた。「マハラージ、なぜラトゥ・マハラージに敬礼をなさったのですか?」

 スワミ・サラダーナンダは答えた。「ラトゥ・マハラージは私たちの誰よりも早く師のもとに来た。彼は出家弟子の中で一番の先輩なのだ。敬礼をして当然ではないか?」

 ラトゥ・マハラージは次第に人間関係の束縛を断ち切って行った。信者たちは彼がこう言っているのを何度も耳にした。「私はこれこれの人のマーヤーと手を切った」

 彼らは彼が何を言おうとしているのかわからなかった。尋ねられて彼は答えた。「私は信者たちの重荷をいつもになわなければならないのだろうか? 世間から心をしりぞかせるときには、私は彼らのことを考えない」このように、彼は正式には弟子を受け入れなかったが、他者のよろこびやかなしみを奥深くでわかちあっていたのであった。

 ある日、ラトゥ・マハラージは言った。「神と結ぶことのできる関係は三つある。『私の神』、『私は神である』、そして『私は神のものである』だ。最後のものが最も良い。なぜなら、自尊心をさそわないからだ」

 別の日には、彼は主ラーマの偉大な弟子マハーヴィル(ハヌマーン)のことを語った。「マハーヴィルの信仰をためすために、あるときラーマは彼に尋ねた。『おまえは私のことをどう思うか?』マハーヴィルは答えた。『主よ、私が自分自身を肉体とみなすときには、私はあなたさまの召し使いです。私が自分自身を個人であると考えると、私はあなたさまの一部です。そして私が自分自身を〈霊〉であると見るとき、私はあなたさまとひとつです。――これが私の確固たる信念です』」

 ついに、疱疹にふたたび壊疽が生じた。医師たちは数日にわたって何度も手術したが、今回は不成功に終わり、病は手のほどこしようがなくなった。一九二〇年五月十二日付のジョゼフィン・マクラウド嬢に宛てた手紙で、スワミ・トゥリヤーナンダはラトゥ・マハラージの死没を知らせた。「大変残念なことですが、スワミ・アドブターナンダ――ラトゥ・マハラージ――がもういないことをお知らせします。臨終は四月二十四日でした。彼の死はまことにみごとなものでした。彼は病にたおれた当初から瞑想の境地に入り、肉体を放棄するまでその境地に没入したままでした。右の足首に小さな疱疹ができていたのですが、これが壊疽になりました。地域の最高の医療のあらゆる手が尽くされましたが、むだなことでした。一〇日後、彼は息をひきとりました。病のあいだ、痛む様子は見せませんでした。しかし、みごとな中でもみごとだったことは、死後、いくつかの葬儀の儀式に合わせて彼の肉体がすわった姿勢に置かれると、彼がそれは美しく、それは穏やかで、平安と祝福に満ちていると見えたことでした。彼の顔は光と、えもいわぬ知性とで輝いており、あたかも情け深い祝福のはげましで友に最後のいとまを告げているかのようでした。実に神々しい姿でした。「私たちは三時間にわたって主の御名を唱えてから、花輪とビャクダンの塗香で飾られた彼の肉体を、行列してガンガーのほとりに運びました。「ラトゥ・マハラージは、永遠の平安に入り、シュリ・ラーマクリシュナのもう一人の息子が彼に合流しましたが、私たちはこのつぐなうすべのない喪失でますますさびしくなりました。実に、私たちはラトゥ・マハラージという霊性のな巨人を失ったのです。彼の無学と素朴な生活は、彼がそうであったところのもの、すなわち真の熱烈なシュリ・ラーマクリシュナの帰依者になる上で、最も彼の助けになりました」

  * * *

 ラトゥ・マハラージに心から帰依していたビハーリラル・サルカルは言った。「偉大な霊的人格と接することで、人はかならず何かを得る。そして、ラトゥ・マハラージと接する幸運にめぐまれた人は誰でも、はっきりとしたものを受け取った。彼と共にいると、高められた。何千もの僧の中からも、その生涯をあれほど完全に神に捧げた人、放棄と純潔のあれほどの模範となる人を選ぶことはむずかしい。シュリ・ラーマクリシュナの神のおあそびの中で、ラトゥ・マハラージは、偉大な叙事詩『ラーマーヤナ』の中でマハーヴィルが演じたのと同じ重要な役割をつとめたのである」

 「ラトゥ・マハラージは、生まれつきの放棄の人であり、禁欲の人であった。彼は、在家の信者と自由につき合ったが、この世の誰に対しても個人的な執着を持たなかった。白鳥は水に浮かぶが水がその羽根を濡らすことはないのと同じように、ラトゥ・マハラージはこの世に生きたが、世俗性が彼をけがすことは決してなかった。彼の愛、慈悲、そして全員に対する平等さは、彼の性格の主な特徴であった」

 マヘンドラナート・ダッタは、ラトゥ・マハラージについての彼の著書の中で、こう記している。「ラトゥは、修行によって豊かな霊性の力を得た。『真理』についての彼のわかりやすい説明でさまざまの形でみずからを表わして、人びとを魅了していたのはこの力であった。私たちは、彼が愛の真の化身へと次第に変容していくのを見た。彼は、彼の扉を全員にたいしてひらいていた。よこしまさで知られている人でさえも、彼の愛と同情を受けていた。外面的には、彼は同じ昔からのラトゥのままだったが、内面的には、彼は愛と祝福に満ちた偉大な聖者となったのである」

 スワミ・ブラマーナンダは、あるときラトゥ・マハラージについて言った。「修行生活をおこなうときに、あれほど禁欲的で、あれほど厳格な彼のような僧を何人見つけることができるだろうか? 確かに、彼は粗野な外観を保っている――それは周りに群衆が集まって来ないようにするためだ――しかし、内面は、彼は愛とやさしさそのものだ。彼とほんの数日つき合ってみたまえ、すると、彼にはまったく自己中心的なところがないことがわかるだろう。前世で余程、功徳を積んでいなければ、あれほどの修行者と近づきになれるものではない。

 「あなたの修行者とのつきあい、あなたの聞く霊的な話、そのすべてがあなたの心に影響を及ぼす。時がたつうちに、これらの効果と、それが人生に引き起こすきわめて重大な変化とに気づくだろう。礼拝のときに捧げられたかぐわしい花の中に隠れているマルハナバチは、主の御足に触れる。同じように、修行者の恩寵、そして彼との関わりによって、人は神々をも超えて、解脱を得るのだ」

  

   

  スワミ・アドブターナンダの教え

  

    一信者への助言

  

 ビハリラル・サルカル「マハラージ、在家の者の心にはなぜこれほど多くの浮き沈みがあるのですか?」

 ラトゥ・マハラージ「それは在家の人びとの心が世俗の対象に深く巻きこまれているからだ。彼らの心は霊性の修行の結果、高まることもあるが、ふたたび落ちて戻ってしまう。師はよくおっしゃった、『煉瓦につけたロープのはしをマングースの尾に結びつけると、ロープの丈が許すだけはマングースは壁を登ることができるが、それ以上には、煉瓦の重みで登れない。同じように、在家の人びとの心は神に向かって動くこともあるが、世俗の対象の重みが心を引き戻してしまう』と。心を常に神にとどめておくことは、大変なタパシヤー(訳注=きびしい行)だ。このような心は、高低のあいだを揺れ動くことはない。毛羽立った糸は針のめどを通ることはできないし、同じように、欲望を持つ心は神に没入することはできない。

 「心が完全に神に集中するようになると、人はアートマンの祝福を享受する。だが、それは在家の人の生活では非常に難しい。病、悲しみ、楽しみ、欲望――これらのものすべてがたえず在家の人びとにはつきまとう。それから肉体の無気力と心の不安定も。そればかりでなく、もしその人が神の実在を疑えば、解脱を得る望みはない。しばしばみとめられることだが、世俗の人びとは、家族のこと、子供のこと、その他の現世的なことに忙しい。しかし、彼らには神のことを思う性向はない。このように散漫な心は、霊的生活で進歩することはできない」

 ビハリ・バブー「それなら、私たちは家族との生活を捨てて神だけを求めなければならないのですか?」

 ラトゥ・マハラージ「なぜ家族を捨てなければならないのだ? 家族は神のものではないか? だから、家族の真の長であられるお方によびかけなさい。人はこの世でのつとめを果たさねばならない。どうしてつとめから逃れることができようか? どこへ行こうと世間はついてくる。世界は私たちの外に存在しているのか? ちがう、すべては私たち自身の心の中にあるのだ。もし君の心が楽しみを求めているなら、たとえ森の中にいても君は楽しみを捜し求めるだろう。感覚の対象に対するそのような欲望を持っていなければ、そういうものに取り囲まれていても、それらをほしがりはしないだろう。家庭で暮らしていても、森で暮らしていても、神は、求めなければならない。さもなければすべてはむなしい。「兄弟トゥリヤーナンダは言っていた、『愚か者だけが、波がおさまってから海で沐浴しようと考える』と。この男がいつか沐浴できると思うか? 海の波は決して止まらない。彼は、一生待っても沐浴することはできないだろう。それだからね、どこにいても、心の状態がどうあっても、神の御名に深く没頭しなさい。それのできる人が、至高者に到達するのだ。他方、神をよぶ前にすべての問題をかたづけようとする者は、決して目標に到達しないだろう。なぜなら、肉体があるかぎり、病、悲しみ、おそれ、痛み、苦しみは経験しなければならないのだから。『肉体があるというのはわずらわしいことだ』。これらの問題全部から逃れようと望む者は誰でも神にすがらなければならないだろう。神はサチダーナンダである――、絶対の実在であり、知識であり、至福である。『彼』の至福はすべての苦痛をとりのぞく」

 ある信者「マハラージ、ブランマンの至福について、どうぞ私たちにお話し下さい」

 ラトゥ・マハラージ「ああ、あのね、その至福は、この世に見いだし得るいかなる喜びともくらべることはできない。それを言いあらわすことはできないのだ。世俗の幸福は、マーヤーが生み出すものだ。マーヤーは三つの状態の中ではたらく。めざめている状態、夢を見ている状態、夢のない眠りの状態の三つだ。しかし、これら三つを超越したところに、もう一つの世界がある。それがトゥリヤであり、ここに到達するのはきわめて難しい。その世界の至福は、マーヤーに縛られてはいない。マーヤーの中での喜びがどんなに甘美なものであるかは、知っているだろう。普通の人びとは、それに心を奪われている。彼らは、そのマーヤーがこんなにも甘美なものである神、その神自身がどれほど、はかりしれぬほどもっと甘美であるか、一瞬たりとも考えたことがないのだ!」

 ある信者「マハラージ、なぜ、マーヤーのいわゆる喜びが甘美なものである、とおっしゃるのですか? それは焼きこがす炎以外の何ものでもありません」

 ラトゥ・マハラージ「だがごらん、ほとんどの人は焼けるような感じが好きなのだ」 また別のおりにラトゥ・マハラージは言った、「この世で至福の他に価値のあるものはない。なぜ人びとが金、財産、妻、子をほしがるのかわかるか? 彼らはそれらから肉体と心の幸福を得られると思っているからなのだ。だから、彼らはそれらのために昼も夜も喜んで働く。彼らがそのエネルギーを神にふりむけたら、この世のつかのまの幸福のかわりにサチダーナンダの永遠の真の幸福を得ることができるのに」と。

 

    「お任せ」について

 

 ラトゥ・マハラージ「君は神への「お任せ」ということを実に表面的な意味で話している。一両日、神によびかけても何も答えがなければ、君は気分に応じて自分の道を歩むのだ、まるで彼よりも自分のほうが状況をよく理解しているかのように。自分を神にお任せする、ということは、彼の命令によって動く、ということだ。彼の命令なしには何もしてはならないということだ。それが君に大きな損失をもたらすことであっても、そこから迷い出てはならないのだ。その境地に達して初めて、本当に君自身を神にお任せした、と言うことができる。兄弟ヴィヴェーカーナンダはよく言っていた、『ラーマを得られなければシャーマーと生きようというのか? もし必要ならば、この生涯はシュリ・ラーマクリシュナのために棒にふろう』と。彼がどれほど自分自身を師にささげきっていたことか、見よ! 彼には、「師」のためになら何どきでも、最も小さなことのためにも生命をささげる用意ができていた。これが、「師」にすがるやりかただ。そのとき初めて、彼は君を正しい方向にみちびくことがおできになるのだ」

 ある信者「マハラージ、なぜ私たちは神へのそのような信頼を持っていないのでしょうか?」

 ラトゥ・マハラージ「それは君たちが自分の知性とエゴを神よりも重要視しているからだ。君たちには彼の命令を待つ用意ができていないし、さらに、すぐ忍耐を失ってしまう」

 

    他者への思いやり

 

 「貧しい者だけが貧しい者を愛することができる。豊かな者には貧しい者の苦しみがわからない。なぜなら、同じ苦しみを味わわなければ他者の苦しみを理解することはできないからだ。兄弟ヴィヴェーカーナンダがトゥリヤーナンダに言った、『兄弟、私はこの出家生活を送ることによって何を得たのか、はっきりとはわからない。だが一つだけ確かなことがある。これ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダは自分の心臓を指さした)がものすごく広くなったのだ』と。「豊かな者の心に慈善の仕事をしたいという望みが起こったら、それは彼の心に貧しい人びとへの思いやりが芽ばえたということだ。神は、人を富裕になさることによって彼をお試しになる。そしてそれは合格の難しい試験だ。人が考え出す試験に合格するのはたやすいが、神の試験は非常に難しい。神は一人の人間に多くの富を与えなさるかも知れないが、同じようにマーヤーによってあざむくこともなさるので、彼は一生、慈善的であろうとは望まないだろう。また、神は別の人間には広い心をお与えになるかも知れないが、あまり金をお与えにならない。豊かでありながら貧しい者への思いやりを持つ者たちは、実にめぐまれているのだ。「金は虚栄をもたらす。人は自己中心的になるほど、ますます神から遠ざかり、つまりはますます貧しくなる。持ちもので人の貧しさをはかってはならない。本当のものさしは、人がどれだけ神から遠ざかっているかということだ。主に近づけば近づくほど、人は豊かになる。主を忘れれば忘れるほど、人は貧しく、またみじめになる」

 

    色欲について

 

 ある信者「どうすれば色欲に打ち克つことができるのでしょうか?」

 ラトゥ・マハラージ「シュリ・ラーマクリシュナのお写真を持っておいでなさい。色欲の感じが起こってきたらいつでも、そのお写真を一心に見つめるとよい。次第に感覚が一つにまとまって、心が色欲から解き放たれるのがわかるだろう」

 

    女性に対するふるまい

 

 あるとき、ラトゥ・マハラージは男性信者の一団に語った。「女性を虐待する男性がいるが、彼女らに対して決して手を上げるべきではない。彼女らがどれほど耐えしのんでいるか君たちは知らない――彼女らは忍耐そのものなのだ。女性を虐待したら、彼女らはそれをどこに転じればよいだろうか? 彼女らは母なる神のあらわれなのだ。『母』がさげすまれれば、主はお怒りになる。だから、君たちの安寧は彼女らを幸福にすることにあるのだ。シーターの涙がラーヴァナの民を滅ぼしたように、女性の涙は君たちを滅ぼすだろう」

 

    落ち着きのなさについて

 

 ラトゥ・マハラージはあるとき、落ち着きのない信者に向かって言った。「なぜ君は、瞑想にすわっているときに、つまらないことばかり考えるのだ? 心を制御することができないのかね? たとえそれができなくて、自分がいやになったとしても、座からは離れないでくれ。なぜなら、そのような嫌悪の心持ちで瞑想から立てば、一日じゅう不快な気分でいることになるだろう。そして、誰かをぶちたくなり、もう一人を叱りつけたくなり、三人目をどなりつけたくなるだろう。師は私たちにおっしゃった、『瞑想のあと急に座から立つな』と。アーサナー(瞑想の座)にまだすわっているあいだに祈祷歌を一〇分か一五分歌いなさい。そうすれば、一日じゅう心中に穏やかさを感じていられるだろう」

 

    欲望と感覚対象

 

 ラトゥ・マハラージ「世俗の欲望が心の中に永久に住みついてしまっている。欲望は心の表面に浮かびあがってくるときもあり、またあまりに深く隠されているので欲望など存在すらしないように見えるときもある。だが、神に近づくにつれて、心の中に隠された多くの欲望の結ぼれがますますよく見えるようになる。肉体と心がきよめられるにつれて、何千回もの生を経るあいだに蓄積された多くの汚れやかすがますますつよくかきまわされて、霊性にいどむようになるのだ。霊的鍛錬によって生まれたエネルギーによって不純なものはそのとりでである心から去ることを余儀なくされる。不純なものがどうして主の御名の力に対抗することができようか?「そう、欲望は非常にずるがしこい。欲望は人の心ばかりでなく感覚器官をも占領する。心の中に欲望が起こるやいなや、感覚器官がめざめる。目は見たがり、耳は聞きたがり、舌は味わいしゃべりたがり、鼻はかぎたがり、体は触れたがる。手は働きたがり、そして足は対象のある場所に人を運ぶ。他の感覚器官は油断なく見張っていて、それらもまた、機会が到来し次第、楽しむ。「心が何をするかわかるか? 心は想像力をもちいて魅惑的な絵を作り出す。想像力は人の最大の敵であり、最大の誘惑者である。なぜなら、想像力は感覚を喜ばせる美しい絵を作り、人の良心をほとんど破壊するからだ。このようにして人は感覚対象にひきつけられる。だから、世俗のものごとへの欲望を統御したければ、想像力を統御しなさい。そして感覚の楽しみにあざむかれてはならない」

 信者「ですが、どうしたら想像力を統御することができるのですか?」

 ラトゥ・マハラージ「想像力を統御するには、対象から心をしりぞかせるとよい。もっともこれでは心は静止しないだろうが。シュリ・ラーマクリシュナは言われた。知覚の過程には三つのものが必要だ。知覚の対象と、感覚器官と、心である、と。この三つの一つが欠ければ、対象を知覚することはできなくなる。だから、これらのうちの一つを消すことができれば、心は認識することができなくなる。知覚の対象を消すのは難しい。それらは行ったと思うとやって来る。私たちは常にこれらのものに出会わざるをえない。感覚対象を避けながらどうして生きられようか? 感覚対象を避け得ている間は、君たちの自己統御は完全であろうが、ふたたびそれらに近づくやいなや、君たちはその魅力にあざむかれるだろう。だからそのかわりに、対象から感覚器官か心かのどちらかをしりぞかせるように努めなさい。そうすれば、自動的に対象は知覚されなくなる」「心の性質は、主の御名を唱えることによって変えることができる。次第に欲望と疑いは消え、心は心のもととなったものの中に溶け去る。すると、考えたり想像したりするものごとは存在しなくなる。心の中の欲望の波は、心が活動していることを示す。波がなくなって初めて、心はきよらかになる。きよらかな心には神の御力が不意におとずれて、そのとき初めて人は真の自己をみとめるのだ」


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