不滅の言葉 96年6号

霊的生活の条件(2)

スワミ・ヤティシュワラーナンダ

「瞑想と霊性の生活」から

 

    世間に対する態度の変化

 これは当然、自分と他の人びとに対する私たちの思いの訂正、という意味である。私たちは、自分と他の人びととの関係を、少し考えてみなければならない。霊的な生活は、私たちの世界観を変えずにはいない。家族という絆によって縛られている人びとは、現存の関係を昇華させなければならない。もし他の人びとがあなたの態度を理解せず、あるいはそれを好まなくても、あなたが彼らと調子をあわせて踊らなければならないなどということはない。もし、霊性の生活に関して互恵的な同意が不可能なら、あなたはこのことに関しては、一方的な決断をせざるを得ない。神を通して、他者との関係を確立することを学ばなければならないのだ。いったん、霊性の理想を受け入れたなら、それを自分のすべての態度と人間関係のうちに光り輝かせなければならないのである。

 霊性の生活においては、避けなければならない危険が二つある。一つは、人間的な愛で、人間の形姿を愛し、それを誤って神的な愛と呼ぶことである。もう一つは、正しい感情に対してまで無関心になり、非常に利己的になることである。どちらも霊性の生活に有害である。正しい仕方で他者を愛し、他者に奉仕するには、私たちは、自分の生活の中に、神の栄光を反映させるよう、努めなければならない。そのとき、沈黙は感情的な表現より雄弁であろうしもし話すことが必要になれば、それも、もっと助けになり、効果があがるだろう。他者とのあらゆる関係は、神を介してつくられなければならない。他者に執着することなく、しかも愛情深く、親切で、思いやりのある態度をとることができる。すべては私たちの、自分みずからに対する態度にかかっているのだ。

 霊性の生活は、私たちの、神の見方と世界観に変化をもたらす。しかしそのことは、霊的生活によって私たちの、自分自身を見る目が変わったときにはじめて起こり得るのである。これが、霊的生活の中で、理解しなければならない最も重要なポイントである。人が自分を、魂、すなわち肉体および心とは別の自己である、と見て出発するのでなければ、彼はまだ、霊的生活の出発さえも、してはいないのである。自分というものの古いイメージは、新しい自己像に置き換えられていなければならない。この、自分というものの見方の変化が、一般のいわゆる宗教的な人びとから真の求道者を区別するものなのである。最初、変化が生じたときには、その求道者は、魂とは何であるかということをはっきりとは理解していないかもしれない。その概念がどのようなものであれ、彼がそれを、肉体と心からは離れているあるものであって、それが自分である、と考えているなら、それで十分である。

 ある中国人についてのつぎのような実話がある。彼は六十年間牢獄に監禁されていた。新しい皇帝が即位したときに解放されたが、外に出るやいなや、「私はこんな強い光には耐えられない、こんな大きな自由には耐えられない」と叫んだ。それで、彼自身の願いによって土牢につれもどされた。私たちの場合にもこれに似たことが起こっている。私たちは自分の無知と苦しみに慣れすぎていて、新しい生活を欲しないのである。自分のエゴの暗いイメージに慣れすぎていて、真の「自己」の輝く光明に耐えることができないのである。

 私たちのあるものは精神病院に送られるほどではなくても、ある種の神経症に悩み、分裂した生活を送っている。手遅れにならぬうちに、自分をいたわる方法、良い生活の理想を実現する方法を学ぼうではないか。有名な精神医学者、ユング博士は、つぎのような意味深い発言をしている、「私の患者たちの三分の一は、臨床的に定義されている神経症患者ではない。彼らは、自分らの人生の意味の無さと虚しさに悩んでいるのだ」と。

 現代人の、「意味」の探求の背後にあるのは、もっと高い理想を実現しようとする衝動なのである。アインシュタインの相対性理論、マックス・プランクの量子理論、放射能や広大な数の銀河の発見、ダーウィンの進化論、フロイトの人間の無意識の探求、その他の現代科学のもろもろの進歩は、これまで不変と思われていた人間のさまざまの価値を粉砕した。これまで明瞭確実と思われていた事柄が、移ろいやすい、未知の事柄になった。二つの世界大戦とその他の社会変化は、道徳を相対的概念とした。この、価値の移ろいやすさと人生無価値の感覚が、現代の芸術、文学、哲学にその影をおとしている。

    神と恩寵に対する、正しい態度

 なぜ、私たちは生まれたのか。存在の意味は何か。西洋の多くの人たちは、私たちはすべて、物質からできた被造物であって、それの強力な法則に無力にとらえられたのである、と信じている。人間はまちがって生まれたのだ、と信じている人たちもいる。ある著名な化学者たちは、心を、物質から精製された産物であるとし、それに霊的な目標を与えようと試みた。このような思想の混乱すべての中を、制度化されたもろもろの宗教が、「無からの創造」とか「原罪」とか言う、彼らの古い思想をかかげつつ、何とかかんとかして歩みつづけているのだ。

 その多くが魂の永遠性を信じていない仏教徒は、人は、無知から来る煩悩によって生と死のサイクルをくり返し経験する、もろもろの無常なる実体の結合体である、と考えている。彼らは、人間を、川の流れ、あるいは明滅する炎にたとえている。彼らは、また変化する面をあまりに強調しすぎて、人間における不変的な「実体」を見失っているのだ。

 現代の心理学者の大多数は、心は大脳の随伴現象すなわち、肝臓が胆汁を分泌するように、思想を分泌する有機的な大脳の副産物である、などという考えはすてている。彼らの多くにとって、心は肉体と同じリアルなものである。個々の人間は、心プラス肉体でも、肉体プラス心でもなく、身心統一体であると、彼らは言う。さらに大胆に、見ることも、触れることも、測定することもできない、非物質的なものであると主張する思想家がいる。それは「霊的な」ものであると、彼らは言う。西洋では、霊的な人間とは、彼の心とその要求を肉体よりすぐれていると考えている人のことである。宗教的な人は、この心すなわち「霊」は、肉体が死んだ後も生き続けると考えている。心は、活動の生きた動機力である。人の人格は、心の諸因子につながる彼の全行動の総計であるが、心の力を現わすには彼は肉体を必要とするのだ。しかしながら、西洋の心理学は、人を単なる心理学的存在、すなわち心と感情の複合体としてしか見ないで、中途で立ち止まっている。

 ヒンドゥの見方は、さらに深く行く。人の人格は複合体である。人は本来、精妙な心の体と粗大な肉体との両者で覆われた、自己意識を持つ霊的実体である。「自己」すなわち「アートマン」は、肉体および心からは離れている。精妙な体は肉体より永く存続するが、それもまた、「自己」が最終的な自由を得たとき、それによって捨て去られる。この精妙な体と同一視される個体意識は、誕生のとき、肉体と結びつけられる。死とは、精妙な体が肉体から離れることである。解脱すなわちムクティは、「自己(アートマン)」が精妙な体からも離れることである。

 ヒンドゥの見方は、オルフェウスがうたった「人は、大地と星空との間に生まれた」という歌詞に映されている。ユダヤ教、キリスト教に共通な聖書には、人は、神に似せてつくられ、身体という聖堂の中にしばらくの間入れられているのだ、と述べられている。バガヴァッド・ギーターはつぎのように言っている。

 肉体に宿った自己は、まさに少年、青年、および老年という境地を経てこの体の中を通過するように、別の体の中に入って行く。

 人が使い古した衣服を脱ぎ捨てて新しい衣服を身につけるように、肉体に宿った自己は、使い古した体を脱ぎ捨て、新しい別の体の中に入る。(バガヴァド・ギーター、二―一三―二二)

 シュリ・ラーマクリシュナは、彼の甥が死んで行くのを見つめて、そのできごとのあとでつぎのように述べた、「幽体が、剣のように、肉体という鞘から引き抜かれた」(スワミ・サラダーナンダ「大師シュリ・ラーマクリシュナ」)。シュリ・ラーマクリシュナはときどき、彼自身の魂が彼の肉体を抜け出すのを見た。また、信者たちは彼の存命中にもしばしば、彼の身体が他の場所にあるにもかかわらず、彼を見た。彼の聖なる配偶者、シュリ・サラダ・デヴィは一度、彼女の魂が身体を離れて、もっと高い霊的世界に上る、という経験をした。魂がふたたび降りてきたとき、最初、それはふたたび肉体にはいることをいやがったという。

 「シュリ・ラーマクリシュナの福音」の中に、夜の暗闇の中を、手にランタンを提げて巡回する巡査部長の話がある。「誰も彼の顔を見ない。だがその光によって、巡査部長は他の人びとの顔を見るし、他の人びともたがいの顔を見ることができる。しかし、もしお前が巡査部長の顔を見たいと思ったら、お前は彼に頼まなければならない、『部長さん、どうぞ灯りをご自分の顔の方に向けて下さい。あなたのお顔を見せて下さい』と。同じように、人は神に、『おお主よ、私にあなたのお顔を拝むことができますように、お慈悲をもって、知識の光をあなたご自身の上にお向け下さい』と祈らなければならない」と。さらにつづけてシュリ・ラーマクリシュナは言う、「家に灯りのないのは貧しい証拠だ。だから人は、自分のハートに知識というランプをつけておかなければいけない」と。(協会訳、「シュリ・ラーマクリシュナの福音」一一五頁)

 神の恩寵は、みずからの努力、渇仰心と奮闘、という形で到来する、と、私たちの霊性の師たちは教えている。これらが求道者に、魂と神、ブラフマンとの結合をもたらすあの、神の恩寵の直接の形を経験させるのである。ヒンドゥの聖典はつぎのように述べている。

 人は、彼のより高い「自己」によって自分を高めるべきである。自分を弱くしてはいけない。低い方の自己は、正しく育てられるなら彼の友としてはたらく、放置されるなら彼の敵として行動する。(バガヴァッド・ギーター、六―五―六)

 人びとにとって、束縛または解脱の原因は、彼らの心のみである。(アムリタビンドゥ・ウパニシャッド、二)

 それでも、多くのヒンドゥは宿命論的になって、偶然に身を任せている。

 キリストが、「それゆえ、天にましますあなた方の父なる神が完全であるように、あなた方も完全であれ」と教えたにもかかわらず、キリスト教の世界においても、同じことが起こっている。彼は、霊的努力をすすめたのである。「主よ、主よ、と私に呼びかける者たちすべてが、天国に行くわけではない。私の父の御心を行なう者が行くのだ」と。イエスは、活動的な霊的生活、熱烈な努力と奮闘の生活を教えたのである。これは、偉大なキリスト教神秘家たちの生き方であった。しかし、キリスト教の中にひそかに忍び込んだ罪、身代わり受難による贖罪、および安易な救済の思想が強調されすぎたために、物質世界では成功をおさめている多くの活動的な人びとが、自分たちは霊的な面では何ひとつできないのだ、という自己催眠に陥っているのである。偉大な神秘家たちが強調した霊的自発性を奪った、この自己催眠の結果、巨大な量のエネルギーが物質的な目的のためだけに流用されている。物質的業績が重要視されすぎている。霊的な理想を無視し、現代文明は、まっしぐらに、崩壊に向けて突進している。今、手遅れにならぬうちに、必要な手段がとられるなら、防ぎ得るのであるが。

 ある酒に酔った男が判事の前につれてこられた。判事は連行してきた警察官にたずねた、「この被告人が酒に酔っているとどうして分かったのか」と。警察官は答えた、「彼はタクシー運転手と口論していたのであります」。「それだけでは何の証拠にもならないではないか」と判事は言った。「しかし、閣下、タクシー運転手などどこにもいなかったのです」と警官は反論した。さて、私たちの多くが、これと同じようなことをしている。私たちは、感情的に酔っぱらっているので至るところに、敵を見て一生懸命に彼らと戦い、自分の内部には道徳的および霊的に自分を破滅させようと身構えている、もっと悪い敵たちがいるのだ、ということを忘れているのである。私たちの闘争精神が、自分のエゴ、自身の情欲などと戦うために用いられるなら、もっと効果的であろうに。私たちが無知と破壊的傾向という酒に酔っているときには、これらが私たちの最大の敵である。スワミ・ヴィヴェーカーナンダによると、人は自己催眠によって、自分のエゴをとりちがえているのだ。(全集第二巻二九五頁)

    自分に対する態度の変化

 ギリシャ神話の中に、池の水に映る自分の姿に恋をした美しい青年、ナルシスの物語がある。自己愛は悩みに終わらざるを得ないから、彼は嘆き疲れて、そして死んだ。そのような自己愛は、カール・ユング博士がつぎのように適切な診断を下した一種の病気である。彼はつぎのように言っている、「……エゴは、全体から切り離されており、人類および霊――真の自己――とのつながりを失っている、というまさにその理由によって、病気である」(「魂を探求する現代人」一四一頁)。「無知という酒に酔って、全世界は狂っている」というヒンドゥの金言がある。

 シュリ・ラーマクリシュナは、よくつぎのように言っておられた、「縄に縛られているとき、人はジヴァである、そして縄を解かれたとき、人はシヴァ(神)である」と。

 偉大なヨーガの教師パタンジャリは、エゴティズムとよばれる危険な幻想を作り出す無知、すなわち決して消極的な存在ではない無知によって、どんなに魂がゆり動かされるかを述べている。エゴティズムは、執着をはぐくみ、執着は嫌悪の情を生み出す。このような連鎖反応の結果は、人生への強い執着と苦しみである。自己中心的であることは、霊性の上から見れば、病気なのである。すべての霊性の道は、エゴという病気をなおすように工夫されている。ヒンドゥの教えでは、私たちはこのような道をヨーガと呼んでいる。まず第一にカルマ・ヨーガ、すなわち無私の働きの道が来る。ここでは、仕事のすべての成果が献身の心で「至高霊」に捧げられる。徐々に、あらゆる種類の活動は、自己を神に捧げる奉仕となり、利己的なエゴは克服されるのである。

 私たちはまた、次第に人格のより高いレベルに心を集中することによって進んで行く、ラージャ・ヨーガという道も持っている。この探求をつづけるうちに、魂は、自分はエゴでも心でもなく、一個の離れた実体なのだ、ということを知る。求道者は、「自己」の性質を深く思いつづけることによって、彼のエゴを捨て去ろうと努力する。このことが、魂を、身体と心であると思い違いしている大きな迷妄を破壊するのである。

 ギャーナ・ヨーガにおいては、求道者は、さらに深くまで進む。彼は個別意識から宇宙意識にまで昇る――エゴはブラフマンに融合する。この知識のヨーガにおいては、「私」意識のもっとも精妙な形さえ、破壊されるのだ。

 しかし、カリ・ユガ、私たちが生きている現代にもっともたどり易い道は、信仰の道、バクティ・ヨーガである。求道者は神を父として、母として、友人または仲間として、――熱烈な愛と帰依心をもって――礼拝する。私たちの生活は、主への間断なき奉仕となる。シュリ・ラーマクリシュナはつぎのように言われた。「一人や二人はサマーディによって『私』を脱却することができる。しかしこのような例は非常にまれである……それゆえ、もしこの「私」が残らなければならないのなら、こいつを、召使いとして残らせよ」と。この愛の奉仕によって、エゴは次第にその悪い性質を失い、主の御手のうちの道具としてはたらくもっと高いジーヴァへと変容する。シュリ・ラーマクリシュナの言葉によると、未熟なエゴは無害な、成熟したエゴに変えられるのである。

 私たちは、「自己」が肉体ばかりでなく心からも離れていることを、実際に感じることができる。ヨーガの道徳的かつ霊的な修行を実践しているうちに、人は、不可分の唯一の霊が、特定の人の体内に個別の魂として宿っていることを、はっきりと知るようになる。別れているのは、ジヴァートマンではなく、個別の心である。私たちが別れていると思うのは、心の亀裂のせいなのである。道徳的教養と霊性の修行は、自分は身体でも心でもない、ということを私たちに啓示する新しい感覚、直感の能力を目ざめさせる。私たちは、自分の思いと感情の照覧者であり得るのだ。ウパニシャッドはつぎのように言っている。「魂は感覚を通してみずからを表現する。感覚は魂の道具である」と(ケナ・ウパニシャッド、一―二)。魂は、身体から離れていることができる、自分は実は、人生という限定によって縛られているのではない、というこの自覚は、偉大な喜びをもたらす。

 自分の本性に関するこの真理を忘れて、自分はエゴである、と思うと、私たちは、自然の翻弄物になる。自己中心的な個人は、気まぐれな子供の手の中にある野球ボールのようである。彼にはまったく自由はない。彼は自然の力のなすがままである。非常に自己中心的な人は、霊的な生活を非常にむずかしいものと感じるであろう。彼らは自分の低級な衝動を非常にすばらしいものと思い違え、それにしたがう。立ち止まって、自分の内なる良心の、「まだ小さな声」に耳を傾けようとしない。エゴを、ある程度、縮小させることが、霊的冒険に船出しようとするすべての人びとに、不可欠なことである。必要なのは、偽りの外面的な卑下ではなく、自分に潜在する神性への信仰に基づく、威厳のあるつつしみである。神への全面的な帰依の態度、離欲の精神、道徳的反省の精神がなければ、霊的生活は非常にむずかしい。言いかえれば私たちは、自分に対する、世界に対する、そして神に対する態度を全面的に変えるよう努力しなければならないのである。
 


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