不滅の言葉 96年4号特別号

     

世間の義務と霊性の生活(2)
「瞑想と霊性の生活」から

スワミ・ヤティシュワラーナンダ
   

 私たちの義務として考えられなければならない、もう一つのことがある。私たちは、学生時代をすぎても、少しばかりの勉強は続けるようにしなければならない。勉強やまじめな読書の習慣が突然とまるのは、私たちの心と思考能力の発展にとって非常によくない。多くの人が学校を出たり、年をとったりすると、考える習慣を失う。これはほんとうによくない。散漫な、漠然とした思考ほど危険なものはない。考える習慣を失って、彼らは単なる行動の人となり、考える人ではなくなるのだ。行動と思考の両者は結合され、調和していなければならない。そうでないと、非常に好ましくない結果が生まれるだろう。大部分の人にとって、いったん中断した学習をまたとり上げることは、考える習慣が失われているために、ほとんど不可能であり、成功するごくわずかな人たちでも、おそるべき奮闘と努力の時期を経なければならない。浅い、表面的な読書、軽薄なおしゃべり、無思慮な、見せかけの活動が、彼らの思考能力をまったく台無しにしてしまっているのだ。もし目を開くなら、あなたは私たちの現代世界のなかにそれの結果を見るだろう。高い理想を抱いているでもなく、真理とより高いおきてを理解しているでもない、無考えで熱狂的な活動、人びとがどんなにそれを自慢しても、それは怠惰のための怠惰に比べて、大してすぐれているとは言えない、活動のための活動である。私は何かをつくり出している、と言うだけでは十分ではない。私がつくるものは、良いもの、建設的なものでなくてはならず、破壊的なもの、人間を堕落に向かわせるものであってはならないのだ。

 だから、私たちは、十分に読書する時間は見いだせなくても、まじめに考えることを、毎日の日課としなければならない。もっと高い、建設的な方向に沿った思いに使えるはずの時間が、無益な、有害でさえある思いに不断に浪費されているのだ。一日の中には、非常に多くの、ぼんやりとしている瞬間がある、そしてこのぼんやりしている瞬間こそ、もっと高い思いのために使われるにふさわしい時間である。無益なことを思うかわりに、その時間をもっと高いことのために利用しようではないか。片隅にすわってぼんやりしているかわりに、私たちはそのような瞬間を、もっと高い、もっと真実な思いに費やすことができるのだ。もしほんとうにこれを実行するなら、私たちは、自分の修行、研究、知的な思索のために十分な時間があることに気づくだろう。私たちの思いは決して、漫然と成りゆきに任せてはならない。

 私たちはしばしば、大なり小なり漠然とした気分で三十分ぐらい、ただすわっていたり、軽いものを読んだり、つまらないものにきき言ったりしている。馬鹿者のように、こんなことをしているのだ。ときにはそれを楽しいとさえ感じる。しかし、この三十分が信仰に関する読書かまじめな勉強に、有益なことや健全なことのために使われようとすると、頭脳全体が反乱をおこして抵抗する。

 仏陀の有名な次の言葉を、深く考えることは有益である、「さあ、兄弟たち、どうぞ忘れないでくれ。まじり合ったものはことごとく、朽ち果てる運命にあるのだぞ。常に、用心深くあれ」この忠告は、私たちに現象のはかなさを悟らせることによって、無益な仕事や行き当たりばったりの考え方をしないよう、私たちを大きく助ける。私たちは人生で、常に変化し、無数に形を変えて行くもの、ではなく、不変の「根本原理」を重視するよう、常に心がけるべきである。人の最高の義務は、まさ今生でこの根本原理を悟り、そのうえで、他者もそれを悟るよう助けることである。

 もし、無駄なおしゃべりと無益な仕事や思いに失われている時間に気づいて、それを活用するよう心がけるなら、私たちは、有り余るほどの時間を見いだすであろう。修行によって、私たちは、普通なら二時間の思索を必要とするところを三十分ですませることができるような、集中力を養うことができるのだ。質と量という二つのものがある。もしあなたが量を増やすことができないなら、質――あなたの瞑想、学習の質――を改善せよ。

 すべての人が、祈り、ジャパ、瞑想の時間を持つだけでなく、修行の後には少なくとも十分間、ウパニシャッドのある章句を読む、というような定まった学習の時間を持つことが望ましい。無気力と怠惰は、霊的生活のあらゆる段階における、二つの最大の敵である。また、心身両面の無気力に陥っている多くの人びとがいるが、これは非常に危険である。このような無気力な気分が自分を支配するのを許すなら、私たちは、自分の修行の時間も読書や研究の時間も、まったく見いだせなくなる。そのような気分になると、確かに時間はそこにあるのだが、「見る」ことができなくなるのだ。あまりにものぐさになって時間にさえ気づかなくなるのである。

 感覚の制御は、私たちが深く考えることを、真剣に、目的をもって生きることを、助ける。常に感覚の世界に住まなければならない、などということはない。感覚が制御がされれば、思考の面に留まることがらくになる。常に外界からぶったりけられたりする必要はないではないか。気が散ることがなくなれば、私たちは、もっと真剣な自覚的な生活を送り、あらゆる状況のもとに、できる限り目覚めた状態を保ちつづけることができるであろう。しかし、外界への気散じと世俗の営みという刺激が除かれるとかえって、勉強や修行の時間をますます見いだせなくなり、木石のように鈍くものぐさになる人も、いることはいる。

 義務と執着

 私たちは自分の仕事を、一、人びとや事物への執着から、二、義務の感覚から、または三、すべての存在の内にやどる「至高の霊」への信愛から、するであろう。よく、最初の二つは混同されるので、大部分の人びとは、真の義務の感覚を執着から区別することができない。すると、執着を義務として正当化することになる。それゆえ、ある思索家は、「義務は、私たちが自分の執着に対して支払わなければならない罰である」と言っているのだ。これは一見、非常に奇妙な不満足な定義と見えるかもしれないが、それはもっと高い立場から理解されるべきである。仏陀のような人たち、キリストのような人たち、ラーマクリシュナのような人たちはまったく義務を持たない。彼らの場合、そこには愛の奉仕があるだけで、義務はない。彼らの活動には拘束がない。そこには、働きによって何かを得ようとか何かの成果を挙げようとかいう望みはない。完全な人間は、義務も執着もない。彼には、義務として遂行しなければならないものはないのである。彼の行為は単に、拘束感または「私と私のもの」という思いはまったく無い完全な自由のもとになされる、愛の奉仕である。

 義務とは、この小さな私たちのエゴの世界、私たちの肉体意識、私たちの心などに執着したり、しがみついたりすることではなく、従って私は、それがどのような性質のものであれ、執着によってか、または欲望の満足のために行われた仕事を義務と呼ぶことはできないし、義務として扱うこともできない。そのような仕事は、私たちの卑小な性格への執着であり、しがみつきであって、もっと高い意味の義務と自由の、果実ではない。

 真の義務は、感覚の制御中に、無私の中に、愛の奉仕の中に、心の浄化と正しい集中の中に、そしてすべての能力をより高い方に向けて神の道具にふさわしいものとすることの中に成り立つ。純粋になればなるほど私たちは、すべてのものの中に宿る神への愛の奉仕、という形の仕事を、よりよく行なうことができるようになるが、私たちはそれに執着しないよう、注意しなければならない。他はどうであれ、執着には、決して義務という名は与えられない。多くの人びとはいわゆる義務を、粗大なまたは精妙な形の感覚的快楽への執着から、人や物への執着から行なっている。しかしこれは義務ではない。ここで私たちは、何かの形をとっているが実際には根強い自己中心主義にすぎないものと、言葉通りの義務であるものとを、はっきりと見分けることを学ぶ必要がある。

 自分の小さなエゴとその小さな欲望への、さまざまの感覚的快楽と所有物への、過度のしがみつきをすてる覚悟ができていないかぎり、私たちは、もっと高い立場に立つことはできず、従って、「義務とは私たちが自分の執着に対して支払わなければならない罰である」という定義の意味も、理解することはできない。実は、義務は私たちの霊的成長を助けるものである。これは、すべての人に共通の原則と見なされるべきである。自分のさまざまの義務を果たすこと――自分の肉体の必要をみたすこと、または他者を助けること、または主に奉仕すること――が、私たちの霊的進歩をうながすべきなのである。もし私たちが霊的に進歩をしないなら、私たちの仕事に対する態度、または義務の感覚にどこか、まちがったところがあるにちがいない。

 無関心な気分を養おうとする人びともいる。彼らは多分、自分の私的な事柄以外のすべてに無関心である。この無関心は、利己性と怠惰の結果であることが多い。それはタマス的な状態であって、霊的な人の真の離欲と混同してはならない。そのような無気力な怠惰な人びとは、生きているというより死んでいると言ったほうがよい。真の離欲、真の傍観者の態度は、あなたを目覚めさせ、仕事であれ瞑想であれ、すべてのものに熱意を与える。

 義務の葛藤

 多くの場合私たちは、自分はなすべき義務を持つ、と考えているが、それは自分の理解を超えたものだと感じている。それは私たちにとってあまりに高すぎるのである。そのような場合には、どうすればよいか。いま果たされつつある義務を助けとし、それを目標に向けての踏み石とせよ。義務にとって、固定的な基準というようなものはない。私たちの成長とともに、義務は常に変化する。子供の義務は青年の義務ではない。青年の義務は老人の義務ではない。家住者の義務は僧の義務ではない。それゆえ、それぞれの場合が、それぞれに判断されるべきである。

 私たちの義務の感覚は、楽しさの感覚と相容れないことが非常に多いが、私たちは、自分の義務感を楽しさの感覚と一致させ、思いとしたいこととを一致させ、そのようにして莫大なエネルギーの消耗を意味する不必要な苦労と心配をさけることを学ばなければならない。

 ときどき私たちは、人生の努めに忙しくて修行をする時間がないと不平を言う。通常、そのような不平には根拠がない。もっと高い生活への真の、誠実で根の深い渇仰心があるなら、あなたは修行と勉強に必要な時間は必ず見いだすであろう。そして、もしあなたが真の渇望を感じているのに、それをしなかったら、あなたは完全に混乱してしまうに違いない。魂がほんの少しでも目覚め始めたなら、それにはどんなことがあっても必ず、栄養が与えられなければならない。そうでないと人格に重大な亀裂が入り、大きな混乱と不安、甚だしい不満足感とバランスの喪失がおこる。そのような場合、魂を飢えつづけさせているかぎり、あなたは決して安心を得ることはできないだろう。

 私たちは、ある日は修行を少し急いで行わなければならず、ある日には、もっとひまがあってもっと注意深く行なうであろう。しかし、もしそれをまったくしないなら、一日中その思いに責められて、心が乱れるだろう。あわただしくであれ、ゆっくりであれ、霊的修行は毎日、着実に、ひたむきに、規則正しく行なわれなければならない。

 霊性の修行と読書のための時間がまったくない、と言うのは本当ではない。もし私が睡眠に六時間を取っているなら、まあ、それを十分間減らすことができよう。そして五分ぐらいを食事の時間から、さらにその他から五分間を、というようにして、私は少なくとも三十分間を、霊性の修行と読書のために確保することができるだろう。そしてたとえ心が乱れていても、たとえ十分に注意を集中することができなくても、たとえ修行が機械的になるとしても、たとえ勉強とか集中とか、思っただけで私の頭脳全体がはげしく抵抗するとしても、これは、どんな状況のもとにあっても、必ずしなければならないことである。そして、これもまた義務である。なぜなら、他者に奉仕する目的でまず自分に奉仕するなら、私は遥かにもっと効果的に、そしてよい気持で彼らに奉仕することができる。もし自分の利益は求めない、正しい精神で他者のために働くことができるなら、私たちはもっとよい形で瞑想をすることができるようになるであろうし、そしてそれがまた私たちが、神への全面的な帰依による、いっそううやうやしい態度で他者のために働くのを助けるであろう。

 仕事に従事しているときでさえジャパをしつづけている人たちもいる。私たちがどのようにして心を制御し、浄化し、正しい方向に沿って発達させるかを知りさえするなら、心は、驚くべき能力を持つようになる。人は無条件に神に帰依しつつ、完全にお任せの態度で仕事を見事に成し遂げることができるのだ。それから、すべての仕事が礼拝であるという時がくる。私たちが祈りに満ちた帰依の気分にある時もまた、仕事は礼拝になる。仕事と帰依心の両者を結合し、しなければならないことを、完全に無私の心で行なうことができるのである。


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