不滅の言葉 96年4号特別号

     

  現代への、スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
からのメッセージ

スワミ・バスカラーナンダ
   

 現代は科学と理性の時代であります。それはまた、市民が力を持つ民主主義の時代でもあります。

 正確に中世がいつ終わり、現代がいつ始まったかは、学者間の論議の主題となり得る問題ですが、私は、現代の出現は次の三つの歴史的な出来事に関連していると考えます。すなわち(1)一七七六年七月四日のアメリカ独立宣言(2)一七八九年七月十四日に始まったフランス革命、および(3)一八世紀の科学および、技術の発明をもってヨーロッパから始まった産業革命、であります。

 これらの三つの事件の前、中世には、君主の、また宗教の専制政治が、言論および思想の自由や、自分で自分を処する一般市民の権利のような人の基本的権利を、冷酷に抑圧していました。アメリカの独立宣言が、「初めて権威をもって、民主主義が市民社会の唯一の合法的な基礎であることを宣言した」のでした。それは人びとに、多数決で自らを管理する権利を与えました。それはまた、フランスの国民に、世界的な民主主義、民族主義、および社会主義への道を開いた偉大なフランス革命を始めさせました。

 産業革命は科学を促進し、科学に威信を与えました。産業革命以前の中世の時代には、ヨーロッパの科学者は皆、宗教裁判の犠牲者になる可能性をもっていました。彼らはいつも恐怖のなかで研究をしなければなりませんでした。確定された神学的な理論すなわちドグマに矛盾する科学的な理論は、教会によって挑戦と見なされ、異端者のラベルをはられました。中世の時代に、教会は、王族たちの保護と大きな富の獲得によって巨大な権力を持っていました。教会は、いかなる反対勢力にも非寛容であって、異端者すなわち教会への敵対者に対し死刑を含めた非常に厳しい罰を課することができました。ガリレオが、地動説を信じていたために教会によって異端者であると判決されたことは非常に有名な事件であります。彼は、三年間の間、一週間に一度の割で、七つの懺悔詩編を朗誦するという刑をくだされました。

 イギリスで始まり、次第に他の西洋世界に広がった産業革命は、急速に、西洋の産業社会に経済成長と人びとの生活水準の向上をもたらしました。その結果、かって教会によって反対され非難されていた科学が、人びとの間に受け入れられるようになりました。この、科学が認められたことが、世界に現代のあかつきをもたらしたのです。そのときから、すばらしい科学の発見と技術の進歩が、次第に科学をしてかって宗教が独占していた尊敬すべき社会的地位にまで昇らせました。科学的真理は、福音書の真理と同じように取り扱われ、科学者は予言者のように崇拝されはじめたのです。

 科学と技術が突然、尊敬されるべき高い地位に上がったので、教会は目立たない背後の席に退かざるを得なくなりました。科学は人びとに、疑問をいだき物事を合理的に考えるよううながしました。それはその信奉者に、理性と科学的な実験によってあらゆるものの妥当性を吟味せよと教えました。その結果、人びとは、さまざまの神学上の学説や教理を疑いはじめました。そしてそれらの多くが理性の吟味に耐え得ないので、根拠のない無価値なものと考えました。

 世界はわずか数千年前に創造されたのだという聖書の考えは、近代の科学による発見が明らかにした世界のなかではもはや妥当ではない、と考えられました。科学に由来する不可知論と懐疑主義が、教会に対して、すさまじい挑戦の態度を示しました。このような状況下で、教会は守勢の立場をとらざるを得ませんでした。

 既得の利益が激しい挑戦によって脅かされるなら、それは自らを守るために命がけの抵抗をするでしょう。中世には教会は、その権威が脅かされたと感じたときには、王侯たちの庇護からその防衛の力を引き出そうとしました。

 民主主義の現代には、教会はその特権を奪われたので、生き残りのために失った力を取り戻そうとしました。それはすでに大衆の支持をほとんど失っていました。民主主義制度の中では、政治が、権力獲得の主な手段です。それゆえ教会は、ポピュラーな政治問題に関与することによって失った力と信奉者を回復しようと努め始めました。それはふたたび政治に巻き込まれ始めました。しかしこれは非常に危険な傾向でした。中世にも教会の政治への関与が、それの堕落をもたらしたのです。

 社会的な条件から見れば、今日の世界は確かに昔より遥かに住みやすくなっています。今日の大衆は、今までよりはるかに多くの個人の権利や自由を享受しています。完全な民主主義はまだ実現してはいません。しかし、現在の民主主義の中でも、人びとは、暴力的な仕返しをおそれることなく、公然と政府を批判することができます。人びとは不当に干渉されることなく、彼ら自身の宗教を実践する権利を持っています。人びとは、彼らの民主政府によって提供された教育その他の快適な施設を平等に利用することができます。世界の大部分が君主や貴族によって支配されていた時代には、そのようなことは考えられませんでした。

 しかし、科学が与える全ての恩恵にも関わらず、世界はいまだにユートピアにはなっていません。科学は物質的安楽はつくったが、平安をつくることはできなかったのです。それは知識は得たが、知恵は得ることができなかったのです。それは生活の質は改善しましたが、心の質を改善することは、できませんでした。

 あるとき、四人の者が、森の中を歩いていました。その中の一人は動物の解剖学の豊かな知識を持っていました。小さな骨の破片を調べるだけで、彼は、それがどの動物の骨であるかを知ることができました。もう一人は、一片の骨から動物の体全体を再構成する方法を知っていました。三人目は、死んだ動物を生き返らせる方法を知っていました。しかし四人目は、そのような知識を全く持っておらず、持っているのは知恵だけでした。

 やがて彼らは、森の中に落ちている、一片の骨を見つけました。第一の人は注意深く検べて、それが大きなベンガルタイガーの骨であることを確認しました。第二の人は、その骨からその虎の身体を再構成しました。第三の人が、そのトラの身体にまさに命を吹き込もうとした、そのとき、第四の人が叫びました、「やめよ! それをしてはならない。そのトラに私たちは殺されてしまう」と。しかし他の三人は誰一人としてその警告を聞こうとしませんでした。第四の人は、自分の命を救うために、急いで高い木の枝によじのぼりました。トラが命を得たとき、それは他の三人を殺してしまいました。彼らは恐ろしいトラを生き返らせる方法は知っていましたが、それから自分を守る知恵は持っていなかったのです。

 この物語の中で、多くの知識は持っていたが知恵がなかった三人は、現代の科学と技術を示しています。命を救う知恵を持っていた第四の人は、霊性です。人はそのような知恵を、真の霊的な経験からのみ、得ることができます。

 スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、科学者でも政治の指導者でもありません、強いていえば、彼は、偉大な聖者であり、社会の改革者でありました。彼は現代社会にどのように貢献しているのでしょうか。

 彼のこの世界への最大の貢献は、科学と技術が与えることができなかった、あの非常に重要な霊性の知恵です。

 彼の貢献を理解するためには、私たちは、人びとの宗教感情のある面に注目しなければなりません。

 心理学によれば、人びとの劣等感が彼らに、他者にまさりたいという気持ちを起こさせるといいます。現実の世界では、そのような優越性がたやすく得られるはずはありません。しかし、何らかの宗教グループに属することで、そのような衝動を満足させる機会を得ている人たちがいます。

 ある宗教を信じるということは、ある排他的なクラブの一員になるようなものです。それは所属の感覚を与えます。私利を争うこの世界では、個人はしばしば、自分の力の不足を経験します。彼は不安と劣等を感じます。あるグループに属すると、強くなり、安全になったように感じます。それで彼は、自分と同一視するそのクラブに盲信的な忠誠心を持ちはじめます。彼は自分のクラブを賞賛したいと思います。そのような賞賛によって、彼は間接的に自分を賞賛しているのです。それで、彼は劣等感から逃れます。優越感を感じます。彼は自分の宗教を最善のものであると主張します。また、それが唯一の真の宗教であって、他はすべて偽りであると考えるのです! このような考えが、狂信や、非寛容や憎悪を生み出します。このような心の態度が、宗教の名のもとに世界に多くの流血をもたらしたのです。

 それからまた、宗教への興味が、自己欺瞞や現実逃避からくることもあります。ある人びとは宗教を、心理学的な松葉杖、として使います。この松葉杖は、彼らの誤った希望、吟味されていない信仰、物欲しげな想像などによって、つくられます。誤った希望は、幻滅となり、吟味されない信仰は迷信となります。また誤った想像は、狂信以外の何ものでもありません。松葉杖への依存は、彼らの心を片輪にし、弱くします。

 スワミ・ヴィヴェーカーナンダの宗教の概念は、これらすべてとは全く異なったものです。彼にとって宗教は、単に信じる、あるいはある宗教的な教えや教説に信仰を持つということではありません。彼にとっては、「宗教は、教説のなかにも、ドグマのなかにも、知的な論争のなかにもない、それは、あること、そして成ることである、それは悟りである」なのです。

 言い換えれば、ある人の宗教とは、彼が実際にあるもの、なのです。もし彼が怒り、暴力的であり、憎悪し、利己的であるなら、彼の宗教は、怒り、暴力、憎しみ、および利己性です。一方、もし彼が愛し、慈悲深く、非暴力的で、非利己的であるなら、彼の宗教は愛、慈悲、非暴力、および非利己性なのです。ある人の宗教は、彼が実際にあるところのものであって、単に宗教的な教説やドグマを信じることではないのです。

 信仰をあまりに強調する宗教があります。それは、理性のはたらく余地を認めません。このような宗教にとって、科学と理性の挑戦に立ち向かうことは困難です。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、人は推理だけでは神は悟り得ない、ということを認めていました。しかし、彼は、神が人間だけに与えた特別な能力である理性の重要さについて語っています。スワミは、宗教への盲信は奨めませんでした。彼は言いました、「……人類は、何ものかの権威にもとづく二億の神々を盲信するよりも、理性にしたがって無神論者となる方がよい。……( II/336 )」また、「盲信する人よりも、理性にしたがって、信じることができない人の方を、神はお許しになる、と私は信じる」( VI/13 )といっています。彼は現代社会の不可知論者からの挑戦に対しては、「神は悟ることができる」といって、応戦しています。彼自身が、不可知論者であった時期もあったのです。しかし彼の不可知論は、真剣な修行によって彼が神を経験したとき、永遠に消え去りました。彼はすべての人が、この神の経験を得ることを欲したのです。彼は次のようにいっています。「もし神が存在するなら、私たちは神を見なければならない。もし魂が存在するなら、私たちはそれを知覚できなければならない。そうでないなら、信じない方がはるかによい。偽善者であるよりも素直な無神論者である方がよい」と。彼はまた「宗教は想像するものではなく、直接知覚するものである」( VI/13 )と言っています。

 しかし神の直接の知覚すなわち悟りは、汗と労働なしには、やってきません。彼の言葉にしたがうと、『食べ物、食べ物』ということとそれを食べることとのあいだには、また、『水、水』ということと水を飲むこととのあいだには、大きな違いがある。そのように、ただ神よ、神よ、と。言葉をくり返すことによって神を悟ることは望めません。私たちは努力し、修行しなければならないのです」( VII/89 )と。

 彼はくり返し、宗教は悟りだ、と言いました。しかし、神を悟るとはどのような悟りか? 彼は「宗教は、霊を霊として悟ることである」といいました。彼はまた「宗教は、人にすでに内在する神の表明である」といいました。

 スワミによれば、宗教の目標はこの生得の神聖を現すことです。彼の言葉で見事に表現すると、「それぞれの魂が、神聖を秘めている。目標は、内部および内部の自然を制御して、この内なる神聖を現すことである。これを働きにより、または、礼拝により、または、精神統一により、または哲学によって、その一つまたは幾つか、またはその全部を行うことによって――悟り、自由になれ。これが宗教の全部である。教説、ドグマ、儀式、聖典、寺院、または形式は、すべて二次的な瑣末事にすぎない」( I/119 )

 スワミは弱さを許しませんでした。彼は宗教を松葉杖として用いることに反対しました。彼は言っています、「次のことは偉大な事実である。強さは生命、弱さは死である。強さは至福、永遠の生命、不死である、弱さは不断の緊張と不幸である、弱さは死である」と。彼は、続けてこう言いました、「強さが、たった一つの必要なものである。強さが、この世の病気をなおす薬である。強さが、貧しい者たちが富める者たちから虐げられたときに、持っていなければならないものである。強さが、無知な者たちが学識ある者たちによって虐げられたときに、持っていなければならない薬である。そして罪びとが、他の罪びとたちによって虐げられたときに、持っていなければならない薬である」と。

 スワミは、罪の意味に新しい解釈をあたえました。彼は「最大の罪は、自分自身を弱きものと思うことである」と言いました( III/549 )また、「世界に罪というものがあるとすればそれは弱さである」( III/151 )と言いました。

 スワミによれば、罪を犯すとは、誤りを犯すと言うことに他なりません。誤りが修正され得るように、罪もまた、個人の努力によって拭い去られます。彼は、人を罪びとと呼ぶことに反対していました。彼は全人類を「神の子供たち」、そして「神聖な完全な生き物」と見なしていたのです。( I/9 )

 彼は人びとに自分自らを信仰することをすすめました。彼の意見によれば、自分自らを信じない人は信仰者にはなれません。彼は無神論者にすぎないのです。スワミは言いました「自分自らを信じない人は無神論者である。古い宗教は、神を信じない者は無神論者であると教えているが、新しい宗教は、自分自らを信じない者は無神論者である、と教える」と。

 スワミは逃避主義をすててリアリズムをとることを欲しました。この世は現実的な視点から見るべきです。現実逃避は敗北主義以外の何者でもありません。それは消極的です。さまざまの問題を処する私たちの態度は、積極的でなければなりません。私たちは、自分が思うこと、する事には責任を持たなければなりません。自分の過ちに対して他人を非難する前に、自分を責めることを学ばなければなりません。いかなる不幸も幸福も、理由なしにやってくることはないのです。

 スワミ・ヴィヴェーカーナンダは決して、正しい人はこの世では苦しむかもしれないがあの世で無限の楽しみを得るであろうと説く、来世だのみの宗教を信じませんでした。彼は言いました、「もし宗教がこの世で私を救うことができないなら、あの世で救うという保証がどこにあるのか」と。彼によれば、宗教は今ここで私たちを救うことができなければなりません。彼は言いました、「私は、寡婦の涙を拭うことも、孤児の口に一片のパンを入れてやることもできない神や宗教は信じない」と。( Y/50 )

 偉大なスワミの心は、ヒューマニズムの精神に満ちていました。しかし、彼のヒューマニズムは、世俗的な性格のものではありませんでした。彼の師シュリ・ラーマクリシュナによって教えられたように、彼は、人道主義的活動と社会奉仕に新しい方向を与えました。

 彼は言いました、「高い台座にたち、五セントを手にして、『これ、貧しきものよ』などと言ってはならない。むしろ、貧しい人がそこにいることに感謝せよ、彼に贈り物をすることによって、あなたが助けられるのだから。祝福されるのは受け取る方ではなく、与える方なのである。あなたは、この世で自分が慈善と慈悲の力を働かせるのを神から許されたことに感謝せよ。そして浄らかに、完全になれ」と。

 この世を助けようとする態度は確かに良いが、すべてをまぎれもない神の真の現れと見て人類に奉仕するのは、もっとよいことです。そのような奉仕についてスワミは、次のように言いました、「それをただ礼拝としてのみ行え。貧しい人びとや不幸な人びとは、私たちを救うためにそこにいるのである、私たちが病人の姿で来ておられる、狂人の姿、らい病患者や罪人の姿で来ておられる、主御自身に仕えることができるように」と。彼はまた言いました、「礼拝すべき唯一の神は人の身体にやどる人の魂である」と。

 スワミの人道主義は、神はあらゆるところに存在する、という彼の体験に基づいていました。慈悲深い菩薩のように、彼は言いました、「私はくり返し生まれ変わり、幾千の不幸を苦しもう、実在する唯一の神、私が信じる唯一の神、すべての魂たちの総計を礼拝することができるように。そしてその上に、私の神、よこしまな人びと、私の神、不幸な人びと、私の神、すべての人種、種族のなかの貧しい人びとは、私の礼拝の特別の対象である」と。

 現代社会は、交通や通信の分野での進歩が著しいために、急速に狭くなってきています。諸大陸と国々とは、たがいにもっと近くなりつつあります。今日の世界では、完全に孤立していられる国はありません。すべての国が、経済的に相互につながりあっています。経済的に生き残るためには、互いに商取引をせざるを得ません。そのような状況の中では、互いに尊敬しあうことを学ぶ必要があります。宗教はなお、あらゆる文化の重要な部分を占めているのですから、世界にとって宗教的寛容は一層必要になってきています。

 スワミ・ヴィヴェーカーナンダは彼の師シュリ・ラーマクリシュナのように、すべての宗教の調和を信じていました。「すべての宗教は、同一の真理のさまざまの表現である」と彼は言いました。いわゆる宗教人たちの偏狭と、「お前より私の方が神聖」という態度が、長い間、世界に大惨事をつくり出してきたのです。これは宗教の調和という思想によって相殺されなければなりません。宗教の調和とは、単に、他の諸宗教を寛容に受け入れるだけではなく、それらが、同一の永遠の「真理」を経験するさまざまの正しい方法の一つである、と認めることを意味します。

 宗教は、スワミ・ヴィヴェーカーナンダによれば、一つの手段にすぎず、それは目標そのものではありません。彼はよく言いました、「教会の中で生まれるのはよいことである、しかし、教会の中で死ぬことは悪いことである」と。彼は宗教または教会を体育館にたとえました。人は、筋肉を鍛えるために体育館に行きます、しかしそこに住もうとは思わないでしょう。筋肉が十分に発達し、身体が強くなったらもう体育館には行く必要はありません。

 スワミは、すべての宗教の聖典を非常に尊重していました。しかし彼は、神と聖典との重要な違いをはっきりと理解していました。彼は言いました。「書物が神をつくったことはない、神が、すべての偉大な書物をおつくらせになったのだ」と。

 同様に、スワミは私たちに、人と神との重要な違いを示しています。彼にしたがうと、「人は、円周を持たない無限の円であるが、ある一点にその中心を持つ、神は円周を持たない無限の円であるが、いたるところがその中心である」と。

 スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、現代世界の利益のために、道徳または倫理を新しい光の中で説明しました。彼はまず、なぜ人は道徳的倫理的でなければならないのか、という問いを出しました。道徳または倫理に関心を持たない多くの人びとが、世の中で繁栄し、楽しく生きているように見えるというのは、一般の経験です。もしうそをつき、人をだませば幾百万ドルが稼げるというなら、どうして人はうそをついたりだましたりしてはならないのでしょうか。

 スワミは、ヴェーダーンタ哲学が教える道徳と倫理の根拠を指摘することによって、この問いに答えています。この哲学は、すべての個別の魂が「神の普遍の魂」と一つであることを教えています。それは次のように言います、「あなたはこの普遍の魂と一つである、そしてそう言うわけだから、存在するすべての魂は『あなたの』魂であり、存在するすべての身体は『あなたの』身体である。あなたが他の人を傷つけるとき、あなたは自分を傷つけているのである。あなたが他の人を愛するとき、あなたは自分を愛しているのである。それゆえあなたは他を傷つけてはならない。あなたはすべての人を愛すべきである」と。これがヴェーダーンタによる倫理と道徳の根拠なのであります。

 社会改革者として、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは特権の不平等という慢性的な社会問題について語っています。ある人びとは他の人びとより頭が良く、ある人びとは、他より力が強く、ある人びとは、巨大な富を獲得し蓄財する生得の能力を持っている、という事実は認めました、彼はそのような違いは常になければならないことは知っていました。しかし、スワミは言いました、「あなたが私より、肉体的にも知的にもすぐれているからと言って、私より多くの特権を持ってはならない、またあなたが私よりより多くの財産を持つと言うことは、あなたが私より偉大であると見なされる理由にならない、なぜなら、ここにはあの同一性があるのだから」と。

 スワミがここで同一性といっているのは、個別の魂すべてを包含する遍在の神、あらゆる多様性が融解してその中に一つになるあの神的な単一性――に他なりません。

 スワミによれば倫理の目標は、「これらすべての多様性にも関わらず、あの単一性を認めること、恐ろしいと思われるあらゆるものの中に、内在の神を認めること、外見はどんなに弱そうに見えても、あらゆる人の本来の性質は無限の強さである、と認めること、および表面のさまざまな矛盾にも関わらず、魂は永遠で、無限で、本質は清らかである、ということを認めること」であります。

 スワミはまた、改革者として、「もしこの世の特権の不平等をのぞくことができるのであれば、私が社会主義者になりたい」と告白しました。彼は言いました、「私は社会主義者だ。それが完全な制度であるからではなく、半分でもないよりはましだからだ」と。もちろん、私たちは、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの社会主義の概念は、すべての人の本性は神聖である、それゆえ人はすべて、平等の権利を持つ、という悟りに基づいた、一種の霊的な社会主義であったことを理解しなければなりません。

 これらは、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの現代社会へのメッセージのごく一部です。人の偉大さは、その人が投げた影の大きさによって、判断されると言われています。スワミ・ヴィヴェーカーナンダの生涯はわずかに三九年にすぎませんでしたが、彼の巨大な影は、彼の時代から、数百年の未来にまで及びましょう。最高級の聖者、「神からその権利を与えられた神の説教者」、知的巨人、偉大な社会改革者、博愛主義者、そしてそれらすべてに加えて卓越したヒューマニスト、これがスワミ・ヴィヴェーカーナンダでした! 彼の霊的な生涯の前に畏れをもってうやうやしく立ち、私は、シェークスピアの言葉を少し言い換えた次のような言葉でこの講演を終わりたいと思います「ここに本当に一人の教師がいた、いつ、このようなもう一人が現れるか」
  


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