不滅の言葉 96年2号

 スワミ・サラダーナンダの思い出 (1)

スワミ・ブテシャーナンダ

  

 偉大な魂たちの回想録を読むことはたしかに有益な経験であるが、自分が回想を語るのは、やさしいことではない。出来事や教えをもとめて、それらが隠されている心の奥深く探索し、それから他者に何を話すべきかを選択しなければならないのだ。私にとって有益と思えることが他の人々にとってはそうではないかもしれないし、私のスワミ・サラダーナンダジを見る見方が、他の人たちが彼を見る見方とは一致しないかもしれない。

 正直言って、何を話し、何を話すべきでないか、私は決めかねているのだ。このように言うのは、スワミ・サラダーナンダジが彼を親しく知る機会を与えてくださったときに私はそれを十分に生かすことができなかったと感じているからである。私が彼をたびたび訪ねたのは彼が好きだったからだ。私はあまり多くの質問はしなかった。のみならず、私がいたときに彼がお話しになったことのすべてを注意深く聞くことさえしなかった。聞いたことすべてを理解したということもできない。「多くは聞く機会さえもたない。そして多くは聞いても理解しない」とカタ・ウパニシャッドは語っている。私は聞いた後にも理解することができない方の「多く」に属しているのだ。私は、聞きそして即座に啓蒙されるエリートのグループには属していない。それだから思い出を語ることに当惑をおぼえるのである。

 私がたえずスワミ・サラダーナンダジのもとを訪れたのは、私には彼がまさに自分の身内のように思えたからだった。彼は私たちの心を高揚させることがおできになった。私はいつも、ただ彼を見つめて、お部屋にすわっていた。私は、彼がお話しになることのすべてを理解しようとも、したいとも思わなかった。いまでも、もしあの昔の日々が再び繰り返されたとしても、私は彼の話しのすべてを理解するだろうとは言いきれない。スワミ・サラダーナンダは巨人の個性を持っておられた。彼のまえでは、私たちは小びとだった。それだから彼を完全に理解しようなどとは誰も思ってもみなかったのだ――いまでもあえてそうしようとは思わないが。彼の足下にすわって、私たちは自分をまるで小さな子供のように感じていたものだった。いまでも、ウドボーダンを訪れると必ず、あの内なる「小さな子供」がめざめて、私は他のすべてを忘れてしまうのである。

 彼のところへ行くと私はいつも、ときにはすわって彼がお話しなさることに耳を傾け、ときには瞑想しようとして目を閉じて座った。それを見て彼はおっしゃった、「瞑想をしたいなら、どうして聖堂へ行かないのかね?」あたりまえだ。でも私には、彼の前の瞑想が聖堂での瞑想に劣らず自分を高揚させるものであることをあえて告げる勇気がなかった。私には彼がおっしゃったことのすべてを理解することはできなかったが、私たちが人生のための実践的な指針を持つことができるようにやさしい言葉で教えようとして、彼がいつも骨を折っておられたのは明らかだった。

 人々に囲まれて彼はよくマザーズ・ハウス(ウドボーダン)の入口近くの小さな部屋にすわっておられた。人々は生活上の愚痴話、不幸やうっぷんを吐きだし、彼はすわって、静かに聞いておられたのだろう。当時私たちはまだ子供で、この人生の暗い側面の会話が好きではなかった。私たちはこう思ったものだ、「私たちがマハラージ(僧団の慣わしでは、ふつうスワミ・ブラマーナンダジがマハラージとされていたが、私たちは彼もまたマハラージと呼んでいた)のところに来るのは彼に会い、彼に聞くためであって、これらの信者たちの苦悩を聞くためではない。私たちは霊性の生活を向上させるマハラージの指示を聞くために来たのだ。この人たちは私たちの時間を無駄にしている」と。そのころ私たちは、人々を生活の緊張や圧迫から解放するために、彼が忍耐と静かな同情をもって他者の苦悩に耳を傾けておられたことを理解しなかったのだ。彼は私たち若者のその感情を理解しておられたに違いなく、それだからときどき、彼ご自身から何らかの霊的な問題についての議論をおはじめになった。たくさんの事が議論された。そのあるものは私の記憶に残り、あるものは記憶から消え去った。

 これは特に思い出すひとつの出来事である。ある信者が会話のなかで「私はホーリーカンパニーをもとめてここにまいりました」と語った。「ホーリーカンパニーだって!」とマハラージはおっしゃった。「シュリ・ラーマクリシュナはダクシネシュワルにお住まいだった。寺院の境内で働いている者やダクシネシュワルの住人たちは長年、彼の近くにいた。寺院の使用人たちに至っては毎日毎日、何年も何年も、彼のおそばで暮らしたのだ。しかし彼らの生活はほとんど変わることはなかった。それだったら『ホーリーカンパニー』が何の役に立つというのか? ホーリーカンパニーがただ聖者を訪ねたり彼のそばに住んだりすることを意味するのでないことは明らかだろう。単なる物理的な接近は何ものも残さない。もっと高いレベルの霊的な交流がなければならないのだ」             

  


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