不滅の言葉 95年6号

神の名の力(2)
 
スワミ・ヤティシュワラーナンダ講演集

「瞑想と霊性の生活」から

世界の宗教の中に見られるジャパ

 聖書の戒律「あなた方は主なる神の御名をむなしく唱えてはならない」や、むなしく神の名を唱えることへのキリストの弾劾については、いくつかの解釈があろう。カトリック教徒は数珠を用いてアヴェ・マリア(Hail Mary)をくり返すが、一般にはキリスト教では、神の名のくり返しより嘆願的な祈りの方を重視している。しかしギリシャ正教の教会に行ってみると、ヒンドゥのジャパに似た一種の祈りのくり返しが非常に重んじられているのが見られる。中世のギリシャの聖者たちは、イエスの祈りとよばれる単純な聖句をくり返す方法を完全に習得していた。「巡礼の方法」という民間にひろまっている書物の中に、この方法が次のように書いてある。

 イエスの祈りを心の中に不断に唱える、ということは、何をしていても、常にどこででも、眠っている間でさえ、彼の不断の臨在をたえず心に描きつつ、彼の恩寵を嘆願しつつ、口で、心で、またハートで、たえずイエスの神聖な御名を呼びつづけることである。この呼びかけは、「主なるイエス・キリストよ、私に恩寵を下し給え」という言葉で表わされている。

 イスラムでは、スーフィ派の神秘家たちが、霊性の悟りを得る方法として、何世紀にもわたってアラーあるいはアリの御名をくり返し唱えるという方法を用いてきた。十二世紀のムスリムの偉大な神学者、アル・ガザーリーの学派では、新参者に与えられる教えは、次のようなものである。

 求道者は、片隅に一人ですわらせよ、そして神、至高者以外の何者もその心に入り込まぬよう、気をつけさせよ。それから、人気のない場所に独座して、思いをそれに集中しつつ、舌で「アラー、アラー」と言いつづけることをやめさせるな。ついに彼は、舌はその動きをとめ、言葉がそれから流れ出るように思われる状態に達するであろう。動きの痕跡は完全に舌から除かれ、しかも彼のハートはその思いを思いつづけている、というようになるまで、その状態を維持せしめよ。ついにその言葉の形――文字と形――はハートから除かれ、その想念だけが、離れがたくハートにくっついたように残るまで、なお、その状態を維持せしめよ。今はただ、神が彼に示したまうであろうものを待つだけである。右のコースをたどるなら、真理の光が彼のハートに輝くことは確実であろう。

 仏教では主に、倫理的な生活と瞑想が強調されている。しかし、明知を得る道として神の名のくり返しを命じている大乗仏教の幾つかの宗派もある。日本で最もポピュラーな仏教の宗派、浄土真宗では、求道者は、日本語では南無阿弥陀仏となっている、「ナモ・アミターバ・ブッダーヤ」というマントラをつづけてくり返す。スカーヴァティー・ヴィユーハ・スートラ(無量寿経)の注釈の中に、次のような文がある。(注)

 歩いていても、立っていても、すわっていても、横たわっていても、ただ心をこめてアミダーの御名をくり返せ。一瞬間もその行をやめてはならない。これが、必ず救いをもたらす行である。なぜなら、これはアミダーブッダの本願と一致しているから。

 もう一つの聖典、シューランガマラ・スートラ(首楞厳経)は次のように言っている。

 アミターバ・ブッダの御名をくり返し唱えることの功徳はこれである、・・・アミターバ・ブッダの名を唱える人はだれでも、現在においてであれ、未来においてであれ、確実に、ブッダ・アミターバを見、決して彼から離れることはないであろう。ちょうど、香料の作り手と接する人に同じ香りがしみこむように、彼にもアミターバの慈悲がしみ込んで、他の方法によらなくても、必ず明知を得るであろう」

ヒンドゥイズムにおけるジャパ

 ヒンドゥイズムにくるとわれわれは、何らかの形でジャパが非常に重んじられれているのを見る。南インドのシヴァ派とヴィシュヌ派の聖者たち、北インドの偉大な聖者たちは、神の御名の不断のくり返しを非常に重視した。聖者トゥカーラームはうたった――

主よ、あなたの御名が私の思いに入るとき、

あなたへの愛が炎のようにもえ上がり、

私の口が言葉を失いますように。

私の目は幸福の涙で、

手足は有頂天のよろこびでいっぱいだ。

そうだ、あなたへの愛で、

私のからだはふちまで満たされていると見える。

こうして私は、全身の力を、

喜びにみちた賛美の歌についやそう、

夜も昼も、休むことなく、

あなたの御名をうたいつづけよう。

そうだ、トゥカーは言う、永久に私は

そうしよう、それが一番いい、

聖者たちの御足のもとに

永遠の休息があることを、私は知っているのだから。

 グル・ナーナクと彼の信者たちは、神の名を非常に重視した。たえず神の名を唱えることが、ナーナクによって説かれた、一つの重要な修行であった。チャイタニヤ・マハープラブーはベンガル地方のあらゆる宗派の人びとの間にジャパをひろめた。「ナーマルチ、ジーヴァダヤー、ヴァイシュナヴァセヴァー(主の御名を喜ぶこと、被造物への慈悲、信者たちへの奉仕)」という三つからなる常套語句が、彼の信者たちの教義となっている。彼は、若いとき、その学識とすばらしい知性によって有名であったが、後にすべてを放棄して、神への愛に陶酔した。彼は次のようにうたった――

 主、シュリ・クリシュナの御名をうたうことに、至高の栄光あれ、それはハートの鏡を清め、世俗という大山火事を消す。それはまるで、究極の至福という白蓮華を照らす、月の光の流れのようである。それは花嫁の命と魂、ヴィディヤー(自己知識)である。それは至福の大海をあふれさせる。それは、時をとわず、最高に甘いネクタールを授けてくださる。それはまるで、すべての魂のための、いやしの沐浴のようである。

 シュリ・ラーマクリシュナは言われた。

 「ジャパとは、ひと気のない場所で黙って神の御名をくり返すことである。ひたむきな信仰心をもって彼の御名をとなえると、神の御姿を見て彼をさとることができる。一片の材木がガンガーの水の中に沈み、一本のくさりで岸につながれていると考えてごらん。くさりにつかまり、その輪の一つ一つをたどって、それを頼りに水の中に入って行けば、ついにはその材木に行き着くだろう。それと同様に、神の御名をくり返していれば、おまえはやがて神に没入し、そしてついには神をさとるのだ」(「全訳、ラーマクリシュナの福音」、協会訳954ページ)

 ホーリー・マザーは彼女のサーダナーの期間中、一日に約十万回のジャパを実践していた。彼女はその生涯を通じて、神の名の力を実証したのである。彼女はよく、ジャパとディヤーナによって肉体意識を失い、超意識経験の高みにのぼった。マザーとその弟子との次の会話が示しているように、また彼女はその教えの中で、くり返しくり返しジャパの重要性を強調した。

 弟子「マザー、クンダリニーがめざめなければ何も得られませんね」マザー「わが子よ、その通りです。クンダリニーは徐々に目覚めるでしょう。あなたは、神の御名のくり返しによってすべてを悟るでしょう。たとえ心が静まっていなくても、それでもあなたはある所にすわって、神の御名を百万回くり返すことはできます。クンダリニーが目覚める前に、人は、アナーハタ音を聞きます。しかし母なる神の恩寵がなければ、何ひとつ成就することはできません」

 コアルパラで、ある弟子がホーリー・マザーにいった、「マザー、心がまったく落ちつきません。私は、どうしても心を静めることができません」と。それに対してマザーはつぎのように答えた、「風が雲を取り除くように、神の御名が世俗の雲を消し去ります」と。

 「もし人が神の御名を一日一万五千回から2万回くり返し唱えるなら、その心はおちつく、といわれています。ほんとうにそうなのです。おお、クリシュナラル、私は自分でそれを経験しているのですよ。まず、それを実践して見るがよい。もしだめだったら、不平を言ってもいい。人はある程度の信仰心をもってジャパを行わなければならないのに、そうはしない。彼らは何もしない。ただ、『どうして私は成功しないのだろう』と言って、不平ばかりを言うのです」

 「人はプラーラブダ・カルマの結果は経験しなければなりません。誰もそれを逃れることはできないのです。しかしジャパつまり神の聖なる御名のくり返しは、その強さを小さくすることができます。それは片脚を失うことになっていた人が、代わりに足にとげをさしただけですむ、というようなものです」

 シュリ・ラーマクリシュナの弟子の中の最高の人たちの一人、スワミ・ブラマーナンダは、ジャパを非常に重視した。あるとき一人の弟子が尋ねた。「マハーラージ、クンダリニはどのようにして目覚めさせることができるのですか」と。マハーラージは答えた、「ある人たちによればそれを目覚めさせるには特別の訓練法があるという。しかし、私は、それはジャパと瞑想によってもっとも容易に実現できると信じている。ジャパの実践は、特に、私たちの現代にもっともふさわしい方法である」と。(「永遠の伴侶」、協会訳242ページ)

 またあるとき、彼は次のように言った――

 「ジャパム、ジャパム、ジャパム。働いているときにも、ジャパムを実行せよ。主の御名を、君たちの活動の中心部において回転させつづけるようにしたまえ。もしこのことができるなら、心中のすべての興奮はおさまるだろう。神の御名に避難することによって、多くの罪人が浄められ、自由になり、神聖になったのだ。神と彼の御名とに深い信仰を持ちたまえ。この二つのものは同一である、ということを知りたまえ」(「永遠の伴侶」、協会訳262ページ)

 なぜ私たちはこれらの文を引用したのか。これらはいったい何を教えているのか。さとった魂たちのこれらの言葉は、神の名には偉大な力がある、ということを証している。人は、この力への信仰を持たなければならない。幾百千の人びとが、ジャパによって霊性の進歩をとげた。それは大事な修行である。名の力はおそかれ早かれ、求道者の内部でかならず、自ら感じられるものなのである。神の名は心中に悪い思いがおこるのを阻止する。神の名の不断のくり返しがなければ、完全に清らかな生活を送ることは不可能である。私は私自身の実際の人生経験から話しているのである。それだからおたがいに、神の御名をたえずくり返そうではないか。心身が清まって、霊的な波動がおこるように。御名が私たちの障害を取り除き、私たちの魂を至高の魂に、ジヴァートマンをパラマートマンに触れさせてくださるように。私たちは音楽を、魂を高め、それを至高霊に結びつける音楽を、うたうことを学ぼうではないか。

いくつかの実践上のヒント

 まず、粗大な段階から思考の段階へと昇り、それから、霊性の段階に昇る努力をしよう。より高い霊性の流れにふれるようになる前に、私たちの内部のより低い波動は中和されなければならない。低い振動が強すぎるときには、神の御名を力づよく、根気よく、唱えよ。私たちの周囲はさまざまの源から発する音の波で満ちている。これらは、知らぬ間に私たちに影響を及ぼしている。ラジオの音楽に耳を傾ければ、あなたは自分に与えるさまざまの形の音楽の影響を、区別することができるだろう。ある音楽はあなたを高め、ある音楽はあなたを不安にし、ある音楽は、あなたをまさに狂気させる。賛歌と、聖句の朗唱によって悪い音楽を中和することを学べ。

 あなた自身の内なる音楽を創造せよ。実は、それは永遠に続いているのである。自分の心を正しく内面の波長にあわせるなら、あなたはそれを聞くことができる。「クリシュナの笛」という、魂を魅了する旋律が、心のうちに聞こえてくるのだ! それは魂を至福で満たし、平安で心身を沐浴させるのだ。

 ジャパをはじめる前には、信仰が何よりも必要である。最初は、ジャパが多少機械的になっても、それはさしつかえない。しかし、マントラの力は信じていなければならない。初心者は、自分の意識の中心が上がったり下がったり、たえず移動しつつあることに気づく。これはすべての求道者にとってもっとも難しいことである。初めはその効果がどうであれ、限りない忍耐をもって、規則正しい時間をジャパをして過ごさなければならない。これがやがて、成功を得る唯一の方法である。

 瞑想かジャパを行なっている間は、あなたは決して、眠気に身を任せてはならない。これはもっとも危険なことである。眠りと、眠気と、瞑想はどんな形でも、いっしょにしてはならない。もし強い眠気を感じたなら、すぐ立ちあがってジャパをしながら、眠気がさめるまで、部屋の中をあちこち歩き回るようにせよ。心が少しも落ちつかず、外にばかり向かうときには、この不安に負けないでジャパを、機械的でもよいからそれが落ちつくまで根気よくつづけよ。そのようにすれば、少なくとも、私たちの心の一部は、ジャパに集中することになろう。このようにすれば、心全体が落ちつかなくなることも、落ちつかないままでいることも、なくなるだろう。

 あなたのイシュタム(理想神)の名、またはあなたのマントラ(神の神秘的な音象徴)をくり返すごとに、あなたの心身および感覚の全体が浄化されるのだ、と想像せよ。この信念をかためなければならない。ある意味では、これがジャパの根底をなす概念なのである。イシュタムの名は、人の神経をやわらげ、心を静め、身体に有益な変化をもたらす。心がひどく緊張するか、沈むかしたときには直ちに、神の名を口ずさみ、神のことを思いはじめよ。これが体と心の内に安定した状態、新しいリズムをもたらす、と想像せよ。実際に、どんなにそれが神経組織全体をやわらげるか、どんなにそれが、ますます心の外に向かう傾向を阻止するようになるのかを、感じるようになるであろう。

 ジャパの前、またはジャパとともに、リズミックな呼吸を行なうのもよい。リズミックな規則的な呼吸は神経組織に静けさ、ある種の安定感を与え、これがまた、霊性の修行を容易にする。呼吸の練習を行なっているとき自分の心に次のような強い暗示を与えるようにつとめよ、「私は、浄らかさを吸い込んでいる、そしてすべての不純なものをはきだしている。力を吸い込み、すべての弱さを吐き出している。静けさを吸い込み、すべての不安を吐き出している。自由を吸い込み、すべての束縛を吐き出している」と。このような暗示は、ジャパを行っている間にも与えるがよかろう。これは本格的な修行の基礎準備として、非常な助けとなる。

 神聖な思いは、心身にある種の調和をもたらす。マントラをくり返すごとに、自分はますます浄らかになりつつある、と考えよ。ジャパの効果をすぐには知ることはできない。しかし、しばらくの間着実に忍耐強く続けるなら、あなたはそれを感じ、数年後には、自分にどんなに大きな変化がおこっているかを知って驚くであろう。試みる価値は十分にある。この体は、少なくともある程度陰陽に分極され、リズミックにされるべきであり、神経もまた分極され、リズミックにされるべきである。このような修行によって、心身および気息のすべてをリズミックにしなければならない。それではじめて、私たちは、霊性の修行や瞑想にふさわしい気分となり、非常に真剣に、正しい方法でそれを行なうことができるのである。その他のことはすべて準備段階に属するものである。

 この道ではあらゆることが難しい。 Visualization (ありありと心に描くこと)は難しい。心の制御も難しい。瞑想も難しい。ジャパもまた難しい、正しい方法で行なうならそれは少しはたやすいが。それだから、新たな力をつけなければならない。そのために、ここで述べたヒントは非常に助けになるであろう。音と音象徴の偉大な力を利用せよ。あなたは、神の名、聖なるマントラが自分を浄化し、高揚させつつあることを感じるよう、努めなければならない。やがてあなた自身が、神の名のリズミックなくり返しが初心者の生活の中での修行の、もっとも重要な部分であることを知るであろう。

 常に、音の象徴に助けを求めるようにせよ、音と思いとは相互に関連しあっているのだ。思いはさまざまの音でみずからを現わす。今や、私たちは、神的な想念はさまざまの神聖な名の中にみずからを現わし、神的な想念と音との間には不可分の結びつきがある、ということを知る。それだから、私たちは、修行の中でこの音を利用するのである。音の助けをかりると、楽に神聖な思いを呼び起こすことができるのだ。私たちは、音の象徴からそれを超えてその背後にある想念に到達するようにしなければならない。そうでなければ、その音は助けにはならない。まず最初に、形の上の礼拝がくる。次に、すべての求道者が取り上げなければならない修行が、ジャパと瞑想である。そして最後に、目を閉じていてもいなくても、至るところに神的実在を見る、という経験が来るのだ。これが最高の境地であって、人はその前のあらゆる段階を一歩一歩着実に通りすぎてはじめて、それに到達できるのである。

 音の象徴と神的な想念との間に確固としたつながりを確立せよ。そうすれば、音象徴の鍵盤にふれただけで、その思いは浮かんで来るだろう。あなたがタイプライターの鍵盤にふれると同時に紙の上にその文字が打ち出されるように、あなたが音の象徴にふれた瞬間、それに相当する思いが浮かび上がってあなたを助けるようになるべきである。しかしそうなるためには、規則正しい毎日の修行によって、この二つの間に確固としたつながりができていなければならない。

 たとえすさまじい嵐が心の内におこって、あなたの足をさらおうとしても、あなたのジャパはし続けよ。必要なら、神の御名を声を出して、少なくとも自分に聞こえるように、くり返せ。しばしば、非常に乱れた心の状態では、心の中だけのジャパは不十分である。耳に聞こえる音は、心がさまよいあるくことをとめる。決して、音の波動の影響を過小評価すべきではない。私たちの全心、肉体さえ、神の名のリズミックな詠唱に反応するのである。ジャパは心を、より高い、宇宙的な波動に同調させる。これは心を静め、高め、集中させる。声を出してジャパを何時間も行なうことによって、かなりの霊的恩恵を得ている人たちもいる。まったく口に出すことなく、心の中でマントラをくり返しても、おなじ効果を得ることができる。

 シュリ・ラーマクリシュナはよく、ジャパを、その端が河の底に沈む重いブロックに結びつけられている鎖にたとえた。その鎖につかまり、輪の一つ一つをたどって進めばついには、そのブロックに触れることができる。同じように、神の名をくり返すごとに、それがあなたを神に近づける。その音が知識を呼び覚まし、その知識が私たちを、神に触れさせてくれるのだ。あなたは、自分のジャパが質的に向上するよう心がけよ。ジャパを意識して、理性的に行ない、日を経るにしたがってその数を増やせ。常にその鎖のことを思い、次の輪を握るように努めよ。こうしてあなたはますます神に近づき、瞑想への準備ができるのだ。

 自分がさらわれてしまいそうに思われるときも、その鎖にしっかりとつかまっているよう、最善の努力をしよう。私たちはしばしば、自分をおびやかす危険を過大視する。後になって、自分が活発な想像力でそれを拡大していたことに気づくのだ。状況は悪いものではあろうが、それは通常、自分が考えているほど悪いものではない。おおかたの場合、自分がおそれたほど悪い経過はたどらないものだ。そしてまた、かりに事態がほんとうにひどく悪かったとしても、どうして、努力をあきらめ、無抵抗に敗北に身を任せてもよい、ということがあろうか。そのような場合には、ジャパ、祈りをたえず行ない続け、最善の努力をして、それに立ち向かうよう努めよ。たとえ負けても、その敗北は成功に向けての一つの踏み石であったということが、あとで分かるだろう。

 原則として、人は、ある神聖な音の象徴をくり返し唱えると同時に、その形を思いつづけるべきなのだが、瞑想的な気分にないときには、ただジャパだけをすればよい。神の御名またはマントラを千回も二千回も間断なくくり返すのである。たとえそれが多少機械的なものであっても、さし支えない。このように実践するうちに、やがて、楽に瞑想できるようになったことを知るだろう。瞑想はジャパの延長である。ジャパはとぎれとぎれの瞑想である。ある意味で、瞑想は間断のないジャパ、そしてもちろん、もっと強力な過程である。ジャパでは、私たちはとぎれのある音と思いを持ち、瞑想では、間断のない思いのみを持つのだ。瞑想をしたいと思ったら、まずジャパをすべきだ。一挙に瞑想にとびこむことはできない。

 心が不安定になる、というおそれを感じたら必ず、神の御名をくり返し、意識の中心に神の御姿を思うよう努めよ。その音にしがみつき、その意味を考えよ。しばらく、それをすることができたら、深い安定感が生まれるであろう。すると、混乱した頭脳は幾分か明晰になり、思いも感情もはっきりとしてくるであろう。ジャパは多くの障害を除き、求道者が瞑想に入りやすいようにする。気が向いても向かなくても、それをせよ、それをつづけよ。自分の気がすすまない、というだけの理由でなぜそれをやめなければならないのか。なぜ敗北を認めるのか。なぜ、自分の心が自分を欺くに任せておくのか。神の御名を唱え続け、それが現わす理想を思い、決して自分に、敗北を許してはならない。くり返しそれを続けよ。耳がその音を聞き、心がそれの意味を思いつづけるように。

神の御名の力

 霊性の生活の初期に、真の瞑想について思い煩う必要はない。ジャパを行ない、自分のイシュタデヴァターを思いつづけよ。やがて、ジャパはおのずからディヤーナに発展する。ディヤーナとは、油が一つの器から別の器に移されるときのとぎれのない流れのような、瞑想の主題への思いのことである。

 ジャパによって、神の霊がこの世界よりもっとリアルなものになってくるであろう。そのときにはじめて、真のディヤーナが可能となるのである。最初のものを最初にせよ。そうすれば、次の段階はひとりでにやってくる。

 あなた自身の方法でジャパを始めよ。耳に聞こえるようなオウムのくり返しになれると、人は徐々にそれを音のないものにしてゆき、インドのリシたちがシャブダ・ブラフマンと呼んだもの、古代のギリシャのピタゴラス派の哲学者たちが「天上の音楽」と呼んだもの、にふれるようになるであろう。調和のある音をくり返し、それが象徴であることを、無限の存在であり、愛であり、至福である至高霊の、現われであることを知れ。あなた自身の「ラジオ受信機」の波長を正しく合わせることによって、宇宙の波動に共鳴するようになり、その波動があなたを、宇宙心に、そしてそれを通して、一切所に偏在する宇宙霊に、あなたの魂の「魂」であり、すべての魂の「魂」である宇宙霊に、触れさせるであろう。

 なんとしても、あなたのジャパを行ない続けよ。求道者が与えられる聖なるシャクティ・マントラは、障害を除き、霊的意識を目覚めさせる、巨大な力を持っている。これが実は、デヴィと呼んでもカーリーと呼んでもよい、この時代にはバガヴァン・シュリ・ラーマクリシュナとして現われた、宇宙の母なる神の力なのである。

 ときには、求道者がジャパを行なっている時に、その数珠あるいは手のひらを彼の意識のより高い中心(ハート、頭など)の一つにあてていると、それが非常な助けになる。肉体を通じてその中心を感じることは、彼がその意識をそこに固定させるのをたやすくする。

 聖なる音は心にある種の支えを与える。何かの大きな困難が生じたときには、少し落ちついて、内観的になり、心の底から神に祈るよう、努めるべきである。困難が生じたからといって、どうしてそれに、足をさらわれるままにしておくことがあろう。あの「鎖」を手放した瞬間、あなたは迷子になるのだ。まったく助けが得られないなら、神が唯一の助けである。そして私たちがここで神というのは、すべての魂たちの「魂」として私たちの内に宿る「至高の霊」である。ジャパは、霊的に自己を助ける最も重要な方法の一つである。それは私たちを、自分の魂の「魂」にますます近づけてくれる。

 私たちの場合には、ジャパが私たちが実際に行ない得る唯一のものなのであって、それを便宜上、時に、「瞑想」という名で呼んでいるのだ。倫理的教養、義務の遂行、ジャパ、祈り、規則正しい聖典の読誦およびできる限りその意味を熟考することなどによって、まず自分を用意した後でなければ、真の瞑想というような、より高い行法の実践は問題外である。これらの予備的な実践が、さまざまの雑念をすてて心を内に引っ込めることを助け、たとえ最初はとぎれとぎれにであっても、私たちが神聖な思いを思いつづけることができるようにしてくれるのだ。やがては、忍耐強い実践によって、間断なくその思いを続けることができるようになるであろう。

 心と肉体、思いと言葉と行ないが、浄らかになるにつれて、集中力はつよまり、より深い瞑想ができるようになるであろう。そしてそれから、時がくれば、その人格的、超人格的両面において神に接することができるようになる。それから、自分のハートの内で、有限なるものと無限者との触れあい、魂と神、すなわち魂たちの「魂」との触れあいを感じるであろう。瞑想はこのようにしてその目標、最高の超意識状態に到達する。そこでは魂は、神的実在、それの真の「自己」に接触し、それの本来の完全さと自由と平安と幸いを得るのである。神の御名がすべての人びとに平安と幸いをもたらすように!

 


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