NIPPON VEDANTA KYOKAI
Vedanta Society of Japan

不滅の言葉
1996年5号
自由の宗教ヴェーダーンタ
スワミ・ブターナンダ

   世界の諸々の宗教の中にあって、ヴェーダーンタは、あるきわだった特色を持っている。これらの特色の中でも最も重要なものは、自由への絶対的献身である。諸君は他の如何なる宗教の中にもこれと同じような自由へのつよい関心を見出すことはないであろう。その起源において、その成長の途上で、その宣言の中で、またその入念な仕上げにあたって、とにかくあらゆる段階においてヴェーダーンタは自由へのつよい関心を表明している。この事実を説明するために、われわれはヴェーダーンタ哲学の発展の歴史をごく簡単に回顧してみよう。

 古代インドにおいて、初期のインド・アリアン民族は今日われわれの間にひろまっている様式とは非常に異なる様式の礼拝を行なっていた。かれらは人格化された自然の力である神々を、歌を唱ってほめたたえ、更に供えものを火に投ずる犠牲供養によってなだめた。こうした宗教の観念は、人間と神々との間には相互依存の関係がある、という信仰に基づくものだった。人間は犠牲供養によって神々をなだめ、神々はそのお返しに人間を守った。インド・アリアン民族の神の考え方が発展するにつれて、自然の力の人格化であるこれらの神々は結局、宇宙の道徳的秩序の守護者とみなされる一神教的な神の観念に合一された。この一神教的宗教は長い間インド・アリアン民族にとっては極めて満足なものだったに違いない。しかし、かれらは霊的には進取の気性に富む民族で、自分たちが達成したものにながく満足してはいられなかった。そこで、かれらは自分たちが抱いてきた信仰に対する偉大な疑問をあえて表明した。つまり、こうした念の入った犠牲供養の効果について勇敢な質問を発した。「これらの犠牲供養は効力があるのか?」と。

 われわれの精神的肉体的なあらゆる企ての背後には永遠の至福に対する渇望がある。われわれは、今日幸福と呼ぶものを毎日の幸福に変えたいと願う。小さな一時的の平和を永遠の平和にまで増大したいと願う。妨げられることのない、そしていつも満足していられる幸福を求める人間の魂のこの永遠の渇望は何であるか? そこで質問がなされた。「これらの儀式や犠牲供養は永遠の至福を保証することができるか?」すると、これよりもっと勇敢な答えがなされた。「不滅なるものは滅するものを媒介として獲得することはできない」と。諸君は土で金の茶碗をつくることができるか? 否、できない。金が必要である。不変であるべきものは不変性を与える素材から成り立たなければならない。永遠であるべきものは永遠なるものでつくられなければならない。それゆえ、滅亡するものによって永遠の至福を得ることは不可能である。この回答は、初期インドアリアン民族の最も壮大にして最も革新的な観念の一つであった。

 あるウパニシャッドは宗教的儀礼の頑固な形式主義に対して次のような言葉で反抗を表明した。犠牲供養は人をいつ海底に沈めるかもしれない人生の大海に浮かぶあやうい小舟のようなものである。犠牲供養を人間生活の最高の善と考えるものは老死の道を幾たびも往来せねばならない。悔い改め、修行をつみ、激情を静めるもののみそのもののみがアートマンを実現するのである、と。

 ここにインド・アリアン民族がなした最も偉大な霊的発見、すなわちアートマンの実現が暗示されている。この発見は来たるべき時代全般にわたってヒンドゥーの霊的宗教的哲学的思考の構造、性格およびその未来を変えたのである。アートマンの発見はわれわれが不滅であり不死であるという事実のみならず、壮大なるアートマン・ブラフマン方程式、即ち「霊魂の至高霊との一体性」を明らかにした。もし一切物が諸君の外部にあるなら諸君はどうして永遠の至福を得ることができよう? 外界にあってさまざまな対象物の間に散在しているものを、諸君は決して常に統御することはできない。不変の至福は一物の中にあるべきであって、多くのものの中にあるべきではない。そしてその一物は諸君以外のものであってはならない。もしそれが諸君以外のものであるなら、諸君の外部にあるなら、諸君はそれを永久に持ちつづけるというわけにはいかないであろう。
 

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