NIPPON VEDANTA KYOKAI
Vedanta Society of Japan

不滅の言葉
1996年4号
さいわいなるかな心の清き者。その人は神を見ん。
--ヴェーダーンタによる「山上の垂訓」
スワミ・プラバーヴァナンダ

   あらゆる宗教の中に、私たちは「実現されるべき理想」と「実現の方法」という二つの基礎的な原理を見出す。世界中のあらゆる聖典は神は存在する、と宣言し、人生の目的はそれる知ることである、と宣言した。あらゆる偉大な霊の教師たちは、人間は神を実現し、霊に於て生れ替らなければならぬ、と教えた。「山上の垂訓」の中でこの理想の達成は、「されば汝らの天の父の全きがごとく汝らも全かれ。」という言葉の中に表現されている。そしてキリストが教えているその実現の方法は、心の浄化である。私たちが神を見るためにはぜひ獲得しなければならない心の純粋性とは何か? 誰もが道徳的な意味で純粋だ、と言える人々を知っているが、その人たちが神を見たという話をきいたことがない。なぜか? 道徳生活、すなわち徳性の堅固な実践は、霊的生活の準備として必要なのであって、つまりあらゆる宗教の基礎であるが、それが神をみることを得しめるのではない。それは土台のようなもの、上部構造ではない。さて何が純粋性の試金石であるか? いま、この瞬間に、神を思って御らんなさい。あなたは何を見出すが? 神の現前の思いが、多分稲妻のようにあなたの心をよぎるであろう。そしてすぐに様々の方向に気が散る。この世のあらゆる事物のことを考えているが神のことは考えていない。この様な不統一は心がまだ純粋でないことを、したがってまだ神をみる用意ができていないことを示しているのだ。不純性というのは、心が多くの生れ替りの間にかき集めた様々の印象によって形成されている。それらの印象は人の思いと行為の結果として創られ、彼の心の潜在意識部に貯えられてきた。そしてその総体がこの人の性格をつくっているのである。心が純粋である、と言われるためには、これらの印象が全部消え去らなければならない。聖パウロはロマ書の中で、「汝ら心を新たにすることによって別人になれ」と言っている。(ロマ書第十二章十二節、日本語訳には、汝ら心を更えて新たにせよ、とのみあり。)

 ヨーガの心理学に従えば、心象の起る五つの根本原因がある。第一は、普遍的な意味の無知、つまり自分の神性を知らないことである。私たちの内にもまわりにも神がみちてましますのだが、私たちはこの事を意識しない。神をみる代りに、もろもろの名と形より成るこの宇宙を見、これを実在と思う丁度、夕暮れ町に地上に横たわる一条の縄をみた人が、無知の黄昏のためにそれを蛇とまちがえる様なものである。第二には、自我の感覚がある。これは第一の無知から生れたもので、自分を神から離れたもの、他人とは別の存在である、と考える。この自我の感覚から執着と嫌悪とが生れる。一つの物に執着し、他のものに反発する。共に神への途の障害である。第五の原因は、生への執着である。仏陀はこれをターナーとよび、キリストはこれについて「命を得んとするものはこれを失い」と「言った。この生の執着または死の恐怖は善悪すべての人間に共通の性質である。ただ、めざめた魂だけが無知を脱し、自我の感覚を持たず、執着も嫌悪も死の恐怖も持たない。すべての印象は消滅したのである。もし神が今のこの瞬間に私たちに霊的覚醒を与えようと言われても、私たちはそれを受けることを拒むであろう。たとえ私たちが神を求めつづけて来た者であっても、いま神を見る、という段になると恐怖のために一瞬しりごみをするであろう。私たちは本能的に表面の生活と意識にしがみつき、それを失うことを恐怖するのである。それを失うことは即ち無限意識の中に移行することであるにもかかわらず。しかもその無限意識たるや、それに比べると私たちの通常の感覚はバガヴァドギーターの示す通り「深夜の如く、眠りの如きもの」なのであるが。スリ・ラーマクリシュナの使徒スワミ・ヴィヴェーカーナンダは少年時代から純粋な魂であって神を求めていた。にも拘らず彼もこの恐怖を経験した。彼が始めてその将来の師ラーマクリシュナを訪ねた時、師は彼に一寸触れ、その瞬間に彼の霊能が開けた。その時彼は叫んだ、「私に何をなさるのですか? 私は家に両親もおります!」スリ・ラーマクリシュナは「おお、あなたもか!」と言ったという。彼は、この偉大な魂もやはり表面意識への執着に縛られていることを見たのである。

 心を清めるためには種々の方法がある、キリストは垂訓の中でこれを徹底的に教えている。すべての方法に共通の原理は、神への帰依である。「主」を想い、彼に隠れ家を求めれば求める程、私達はより深く彼を愛し、心はより純粋になるであろう。生活の中心を神に置く、という原則は、ユダヤ教キリスト教及びヒンズー教の賢者たちによって等しく肯定されている。「主はわが力、わが盾」と詩篇の作者は唱った。キリストに倣いて」の中には、「汝はわが希望、汝はわがよりどころ、汝はわが慰め、汝の他に見るもの悉く、われ、弱くうつろい易しとみる。」とある。

 スワミ・ブラマーナンダは弟子達に同じことを教えた。「神の柱にすがりついて居よ。」インドでは子供達はまず一本の柱にしかとつかまって次にその周囲を旋回する。転ぶおそれがないのだ。同様に、神にしかとつかまっている限り、私たちは快楽と苦痛の経験がその性質上永続するものではない、ということを悟る。そして、神の柱にすがりつづけて彼への帰依が深まると、見神の妨げとなる激情や欲望はその力を失うのである。

 心を静め浄めるための一つの方法は、自分はすでに清浄である、と感じるように努めることである。これは妄想ではない。神は私たちをおのが姿に似せて創り給うた。それ故清浄は私たちの本来性である。生涯、自分は罪人だと叫びつづけるなら、私たちは自分を弱くする。スリ・ラーマクリシュナは常にこう言われた、「たえず私は罪人だ、とくり返していると人はほんとうに罪人になる。『私は神の御名をとなえた。私の中に罪などのあるはずがない!』と言える位の信仰を持て。」

 彼はこうも教えた。「主に対して罪を認め、二度とくり返さないことを誓いなさい。御名を称えることによって身体と心と舌を浄めなさい。光に向かって動けば動く程、闇からは遠ざかります。」
 



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