NIPPON VEDANTA KYOKAI
Vedanta Society of Japan

不滅の言葉
1996年4号
ヴェーダーンタを知る(二)

クリストファ・イシャウッド

   私のこの二度目のニューヨーク訪問は始めから散々であった。アメリカに対して抱いていた勝ち誇ったような自信にみちた気分は忽ち消滅した。それは一旅行者の幻想の上に築かれたものだった。もはや私は旅行者ではなかった。私はアメリカの生活の中に自分の居場所をつくり、そして落ちついて働きたいと思った、然し私は自分がただの一行もものが書けないことに気づいた。私は不安のためにマヒしてしまったのだ。生活費の高いことが私を脅した、戦争が不可避と思われるまでに次第に悪化して行くヨーロッパからのニュースも私を脅した。友人やみしらぬ人達の歓待は私を安堵させなかった。なぜなら私は自分が偽りの仮面をつけてそれを受けとっているということを感じていたから。彼らが見ようと欲しているクリストファ・イシャウッドはもはや私自身ではなかった。彼のものであると思われているその態度や信念を私はいましがた放棄したのである。同じ理由によって、教えたり講演したりすることを私は極度に嫌った。聴衆が私からきこうと期待しているものを彼らに向かって語ることができなかったのだ。そして私は新しい「メッセージ」を携えて彼らの前に現れることもできなかった。「私は知らない」という言葉以外に私の生涯のこの時に於て敢て発することのできる言葉はなかったのである。

 何週間かがすぎるにつれて私の不安感は層一層激しくなった。私は、何はともあれニューヨークから脱出せねばならぬ、ということに気づき始めた。ニューヨークでは私は少しばかり知られた人物であった。しかもその人物は実はもう存在することをやめていたのである。いま私は、名前の隠れることと考える時間と誰か私の思考を助けてくれるような人とを猛烈に要求した。どこに行ったらよいのだろう? 誰が助けてくれるのだろうか?

 私はジェラルド・ハードには一九三〇年に始めてロンドンで会っていた。その当時の彼の興味は考古学と人間の進化と、諸々の先端における科学の進歩と、心霊現象の研究とにあった。彼はすでに多くの書物を書いていた。然し彼の友人達は一致して、彼の最大の光輝はその講演やラジオ放送や会話の中に示される、と主張した。彼は何事を論ずるにせよ、その問題に対する彼自身の情熱を相手に伝える、という天才を持っていた。いや、今も持っている。

 一九三七年にジェラルド・ハード、オルダス・ハクスレーとその妻マリヤ、及びクリストファ・ウッドと言う名の私の親しい友達の一人は揃ってイギリスを去り、カリフォルニヤのロスアンジェルス地方に落ちついた。ジェラルドは目下ヨーガの研究に懸命である、という噂さが我々の許に届いた。私の友人達と私はこれをきいて面白がった。我々は彼がハクスレーと一しょにターバンをまいて空中に浮きあがり、砂漠の上遥か高い所を遊泳する有様を想像した。然し、この噂さがもし真実としてもジェラルドの根本的な健実性に対する私の信頼感は少しも揺がなかった。いかなる種類の秘教的な伝承を研究していようとも彼がやっているのならば正しく、それが不評判なものであればあるほど良い、と思われた。なぜなら彼は、健康な懐疑心と結びついた、真に聡明な人々のみに見られる好奇心を持っていた。それは真理の泉のまわりに泥を見出すことを恐れないものである。これらの研究に於て或る種の手段はインチキなものであるという事実は、彼にあっては決して例の知的ひきょう者達と同一の態度を取る原因とはならなかった。彼らは主として笑われるのが恐ろしさに、心霊学の研究を単なる自己欺まんであるとして非難するのである。もしジェラルドが一時これらのヨギだかヨガだかスワミだか何だかに興味を持っているなら彼に幸あれ、と私は言った。何れにせよ彼の発見は一つの優れた物語を作るにちがいない。ジェラルドは現存する最大の短篇作家の一人なのだから。然しながらいま私はヨガの名人としての彼にではなく非戦論者としての彼に訴えたのであった。彼とオルダス・ハクスレーとは共に書物や記事の中でその非戦論を明らかにしていた。我々は手紙を交換した。ジェラルドは「非戦論者はすべで医学の知識を持たねばならぬ創造力のある精密さを以て無秩序と破壊に対抗せねばならぬ我々は心理的に健全な、そして充分な素養のある治療家の学位を創設せねばならぬ」と書いてきた。これは少し意味があいまいであったけれど、権威ありそして励ましにみちた言葉としてきこえた。私は自分の人生に何かの訓練が必要であることを痛感していた。そして、かつては医師になりたいとまじめに考えたことのある私に対して、いかなる意味にせよ、治療家になる、という考えは強く訴えた。

 この様な次第で私はカリフォルニヤに向けて発つことに決めた。私はジェラルドと十分話合って波の考えているところと彼の発見したものを正確に知りたいと思った。私は、ごく親しくつきあえる同年輩のイギリス人、クリストファ・ウッドからどの様にして彼がアメリカの生活に落ちつき、そして順応したかをききたいと思った。私はオルダス・ハクスレーとその妻マリヤに会いたいと思った。そしてもう一つ、そこには相変らずの私の旅行癖もあった。私の白日夢の中の「真の」アメリカは常に「西部」だったのである。この地で生まれた人の眼を通じてこの国を見たいと思って、私は一人の自由な身分の若い芸術家を一しょに来るよう説き伏せた。我々は五月始、ほんの僅かの金をふところにグレイハウンドバスで出発した。ニューヨークとは反対に、ハリウッド(我々がまず落ち着いた所)は、友人達がいる、というだけでもう極楽のようだった。クリス・ウッドはまさに期待した通り、私がこのなじみ深い外国の地に住みなれる迄の困難な時期を通してよく援助し、私を安心させてくれた。彼はまた私が遂に映画作家としての仕事を獲得するまで、生活するに足りるだけの金を貸して私の物質的な苦労の大部分を取り除いてくれた。そしてジェラルドの方は、私の質問の多くのものに実によく答えてくれ、同時に私をしてそれに倍するほどの新しい質問を提出せしめた。

 私は、ジェラルドが私に話したことが何であったかを論理的な整頓された形で述べようと思うと、物語のこの部分をすすめるのには大きな困難を感じる。発端から始めなければならいのだが、人間同志のあいだに、しかも数ヵ月間にわたる幾度かの面会を通じて交されたこの様な会話は、決して発端から出発してはいないし結論が最後に来ているわけでもない。それらは話題から話題にとび、話題のまわりを迂回し、首尾一貫しなかったり繰り返されたりしている。それ故私は次の部分は作為的に型にはめ、簡略化して表現しなければならないのである。
 

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