NIPPON VEDANTA KYOKAI
Vedanta Society of Japan
不滅の言葉 1965年2号

諸宗教への共感
スワミ・サーラダーナンダ

 ナザレの太陽がパレスチナの地平線を昇るずっと前に、偉大な仏陀がかれの弟子達をよび集め、他のいかなる宗教をも悪く言わないようにと特別な指図を与えてその共感と慈悲の教理を宣べ伝えるべく彼等をアジヤ各地に送り出したよりもずっと前に、ここインドに於て、全ての宗教は同一の目標を指すという事実の認識の上に立ち、全宗教がたがいに積極的共感を持つようにと、雷鳴の声を以て説いた一人物が現れた。バガヴァドギーターの著者、聖クリシュナは、宗教が他の宗教に対する態度という難問題の解決を次の様な記憶すべき言葉の中に見出したのである。「いかなる道を通って私の許に来るいかなる人にも、私は手をさしのべる。知れ、すべての人々は遂には私の許に到る道を歩いているのだ、という事を。」インド全歴史を通じて、宗教の分野に於てはこの広大な原理が実践されて来ていることを私達は知っている。ヒンズー教徒の国には決して宗教的迫害は無かった。また宗教の分野に於て個人の自由が社会によって抑制されたこともない。
 ヴェーダンティストは共感(sympathy)という言葉によって一種のなまくらな無関心とか、または「私の宗教が唯一の正しい宗教であり、貴方の宗教はまちがっている。然し、貴方が自分の宗教を信じることをゆるそう。多分、いつかは貴方の眼は開かれるであろう。」などと言っている様にみえる傲慢な黙認を意味するものではない。かれの言う共感とは消極的なものではなく、すべての宗教は真理であるすべての宗教は同一の目標をもつということを認識した直接的、積極的なものなのである。いわば多くの宗教は同じ一点から出発して同じ目標に向う線か、同一の中心点から出発する半径か、あるいはまたヴェーダンタの一詩人が美しい言葉で「あるものはまっすぐに、あるものはまわりまわっておのおのの道を流れたる後その名と形をすてて一つの大海に流れ入る様々の川のように、かれらすべては『彼』の中で相会う、光と愛の大海なる『彼』の中で。」と詠りているようなものである。
 それでは何故人々は反目し合うのか? なぜ、私は私の道を進みながら、あなたを積極的に助けてあなた自身の道を行くあなたの旅路をもつと楽にして上げるようなことができないのか? これに対する答えこそ、ヴェーダーンタがこの世界に与えなくてはならない一つの偉大な真理である。ヴェーダーンタはかつて人に改宗をすすめたことがない。全世界の管弦楽のこの美しいハーモニーを破って単調にまでひきずりおろそうなどと企てたことはない。しかも尚、霊的な思想や理想が一波また一波とヒマラヤの嶺々の雪を越えて、ペルシャやアラビヤの荒涼とした砂漠の狂信を和らげ、美しいギリシャの地を一層美しく豊かにし、またピラミッドの国の崇高なものを更に崇高にした、西洋におけるヴェーダーンタの使命はクリスチャンをヒソズー教徒にすることではなく、クリスチャンをよりよいクリスチャンに、ヒンズー教徒をよりよいヒンズー教徒に、マホメット教徒をよりよいマホメット教徒にすることであり、また、これらの様々の宗教の中を一貫して共通の真理の糸が走っており、どの道を選ぼうと最後は真理に達する他はないのである、ということを説得することである。「神はこの世を動かす者、そしてこの世を支える者、この世の「主」であり証し人であり、柱であり隠れ家であり、そしてこの世の友である。」また聖パウロが言っているように「彼にあって我は生き、働き、そして存在する。」無限者がこの進化のはじめにあり、そして「彼」はこの進化の最終目的でもある。ヴェーダーンタはそれ故、一つの偉大なる事実、即ち造化の中には「多様の中の統一」があるという事実、物質的真理的あるいは霊的等存在のいかなる分野であれ、どれ程複雑な多様性があろうともその底には必ず一貫した統一性がある、という事実を認めている。
 さてヴェーダンティストのひろい共感性と寛容の精神の基礎になっているもう一つの偉大なる事実は、変化は進化にとって不可欠である、という事実である。進化とは何を意味するのか展開すなわち一物から他物への移り変り、即ち変化以外の何ものでもない。もしあなたが変化を阻止し、自然のあらゆる分野に同一性をもたらすなら、あなたは進化を破壊することになろう。そして、宇宙は一個の統一あるメカニズムの所産であって、自然は実に一貫した原理に支配されているから、この事実は物質的心理的分野に於て真実であるばかりでなく、霊的分野にあっても真実である。もし宗教の分野に於て多様性を斥け、すべての人間が宗教について同一の考え方をするように仕向け、すべての宗教を破棄して代りに一つの宗教を立てようとするなら、あなたは自分が宗教そのものを破壊したことに気付くであろう。そこで更めて、あなたは次の事を発見するであろう。即ち、人々に同一の考え方をさせようという試みは例外なしに失敗するのだから、多くの宗教の代りに一つだけを持って来るのは不可能である、ということを。「創造」がつづく限り、数多くの宗教が存続するであろう。故に宗教の世界にも変化というこの自然の必然性が存することを認識せよ。宗教の一つ一つに適わしい場所を与え、それらの何れもが隠れている真理に到達する道である、ということを知れ。真理は決して変らない。真理はあらゆる自然の変化を超越し、すべての法則と因果関係の領域の彼方にある。然しこの法則と因果律の世界における「真理」の顕現は常に部分的であり、限られており、そして常に変化するであろう。様々の時代に、真理に達するための様々の方法が発見されることであろう、そしてそれらの相異る宗教は、現今存在する諸宗教とまったく同様に真実であろう。
 人は遠い昔から、すべての宗教がそこで対面し得るような一つの共通の基盤を探し出そうと努めて来た。ギリシャやアレクサンドリヤや他の多くのところで、すべての宗教から真理をよりわけ、それらを結合させて新しい宗教をつくろうという試みがなされた。彼らは見るかげもなく失敗した。進化には変化がつきものである、ということを認識していなかったのである。一見異れる多くの宗教は何れもが真実であり、進化の異った段階にある様々の心をそれぞれに満足させているのである、という事を彼らは全く認識していなかった。彼らは、これらすべての宗教が一様に一つの偉大な事実に向かいつつあるのだということを、進化の終りは人間を超越意識に導いて彼を完全ならしめることにあるのだ、ということを全く認識しなかったのである。そうでなければ、この点についての諸宗教の見解の総一致をどのように説明したらよいであろうか? 慣例、儀式、教理等に於て全く反対のようにも見える二つの宗教が、どうしてこの点については同じ話を物語るのであろうか? 神秘的な儀式の中で、神話の装いの中で、あるいはまた明確な哲学的表現によって、すべての宗教が同一の真理を物語っている。即ち人間はその本性に於て完全であり普遍的であり、小さな人格は、彼らの各々が一個の完全無限の、そして普遍的な個性であるということを発見するまで成長し拡大するのであるということ、そしてこの事は一人または特定の人々の独占的な所有物ではなく各自に本来そなわるものであり、内部にあるものの徐々なる展開である、ということを語っているのだ。私達は無知のゆえに、「我とわが父とは一つなり。」というイエスの言葉は彼自身の場合にのみ真実なのである、と考えている。あるいは「天の父の全きが如く汝らもまったかれ。」という彼の言葉は字義通りに受けとるべきではない、と考えている。私達は愚かな無知のゆえに、言葉や思考を絶する超越意識の世界はより低い境地である、無意識や、たえず一つの事を思いめぐらすことによって起る催眠状態などと同じ段階である、と考えている。一事に心を集中することが催眠状態をつくり出すならば、私たちは愛、金、力等々今日あって明日は亡びるであろうつまらぬものを考えつづけることによってすでに催眠状態に入っているはずなのであるが、私達は傲慢のゆえに夢にもそうは考えない。もし神を思うことによって意識を超えることが、そしてその結果、私達の能力を最高度に発揮し、かつ私達の精力を低い世界で浪費するのを阻止することが催眠状態であるならば、これらとは全く反対の事実に直面していながら自分達は自由だ、自分達の感覚が受けとり理性が考えるものはすべて真実だ、と思うのはもっと悪い催眠状態なのであるが、私達はその様には考えようともしないのだ。この様な愚かな考えのすべてを放棄せよ、そしてあなた自身の宗教、または何でもよろしいからあなたの信じる信仰形式に従え。そして何ものもあなたを破壊することはできない、と知れ。あなたがあなた自身の天国または地獄を創造しているのである。「天の王国は汝のうちにあり。」そしてあなたはそれを欲すれば直ちに発見するであろう。それをあなたの内部に見出せ、この世は神の遊び場であり、彼はその支配を誰の手にも委ねてはおられないということを、また人は彼のなしつつある一切のことによって層一層、神に近よりつつあるのだ、ということを見よ。
 すべての宗教に対する共感と寛容の教えはすべての宗教を破壊するであろう、自分の宗教だけが真実のものだと認めるところから来る信念の強さを奪うことになるだろう、という趣旨の反論が提出された。さてそれでは人々に自分の宗教だけが誤りがない、という信仰をつづけさせようか? 論理の、歴史の、科学の、そして真の宗教の研究が日々に私達の前にもたらす光に対して全く眼を開かない方がもっと悪いのではなかろうか? ヴェーダーンタは第一にこう答える。たとえ真理があなたを、ここへ導こうとも真理に従え、真理は決して個人や社会に順応しない、逆に個人や社会が真理に順応しなければならないのだ。信仰は真理に根ざすことによって強さを獲得するが、虚偽を土台とする信仰は決して人の立場を強くすることはないであろう。
 第二に、あなたが他の宗教にまでひろげる共感はあなた自身の宗教への信仰のつよさを奪う、というのは不合理であり、また嘘だ。あなた自身の宗教の正しいことを出来る限り強く信ぜよ。あなたの日々の生活の中でその宗教に従い切れ。同時に、他の諸宗教も亦、あなたと異った考えの人々が神に到る為に同じ様に役に立つものであることを信ぜよ。社会に於て社会規則に順応した統一行動と、そしてまた個人の行動の自由との両方がなければならないように、宗教の世界に於ても、各々の宗教は完全な個別的自由を持たねばならないが、同時に一切の他宗に対しての積極的な思いやりも持たなければならない。個人が全体の幸福のために尽そうとして社会の法則に順応して行動する時、自分の個人的自由を制限したり、または自分の自由をある程度犠牲にしても全体に善をもたらそうとするであろう。それ故、積極的な共感と寛容は、私達が他の宗教を我が
宗を見るのと同じ光に照らして見た時、また我が宗だけでなく他の諸宗教も正しいと信じることができた時にはじめて可能である。もし一つの宗教が虚偽なら他の諸々の宗教も虚偽、もし一つの宗教が正しいなら他のすべても正しい、という偉大なる事実を私達は学ばなければならないであろう。なぜなら、もし宗教啓示が進化の過程を通して来るものならば、一宗一派または個人がこれを専有することはできない。正しきものの上にも、正しからざるものの上にも平等に与えられる神の風や雨のように共同のものである。それは有情非情一切を抱擁する宇宙空間のようなものである。

 筆者サーラダーナンダ(一八六五-一九二七)はラーマクリシュナの直弟子、一八九八年ミッションの初代事務長となり二十年間その建設に尽す。著書 Sri Ramakrishna the Great Master は師の伝記中最も権威あるものと言われる。事務長就任前二年間ニューヨークとロンドンでヴェーダンタを講ず。本稿はその時の講演の一つ。

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