NIPPON VEDANTA KYOKAI
Vedanta Society of Japan
不滅の言葉 1965年2号

ラーマクリシュナの生涯(九)(部分)
十、妻のなかに神性を見出す

 既に述べた様に、スリ・ラーマクリシュナは赤痢にかかった後身体が非常に弱くなった、一八六七年の五月の頃、彼はフリダイと、バラモン修道女とにともなわれて、心気転換の為にカマルプクールに向けて旅立った。師は六、七ケ月間カマルプクールに滞在した。ダクシネースワールで霊的修行の嵐のような日々を送った後、純朴な村人達の喜びや悲しみの中に身をひたすのは彼にとって大きなくつろぎであった。彼の処女妻、サーラダーデーヴィは当時父といっしょにジャイラムバティにいた。ラーマクリシュナの到着後間もなく、彼女は呼びにやられた。そこでサーラダーデーヴィ、後にスリ・ラーマクリシュナの信者達に呼ばれた名に従えば「聖母」はカマルプクールにやって来たのであった。
 ここに、スリ・ラーマクリシュナが彼自身の霊性の実現を試みる一つの機会が与えられた。当時十四才の少女であった彼の妻に彼女の立場の持つ正統な権利をゆるすことによって、彼は一つの試練に身を委ね、一きわ磨かれてそこから抜け出したのである。彼は、彼女が家事の義務を遂行するための行きとどいた訓練を受けるよう、特別の注意を払った、「聖母」は聖者のような彼女の夫によって自分に示された純粋かつ無私の愛の理念に魅惑された。彼女は自分のイシュタ・デヴァ(自分を導く応化神)として彼を礼拝し、彼の行動にならって自分の人格を開発することに満足した。スリ・ラーマクリシュナは霊的な事柄ばかりではなく、彼女を理想的な主婦に仕立てる世間的な事柄についても彼女を訓練した。しかしバラモンの修道女はスリ・ラーマクリシュナが彼の妻に対して夫としての義務を遂行するという考えになじめなかった。多分、これが彼の独身生活をおびやかすことをおそれたのであろう。然し、師は彼女の抗議に耳をかさなかった。彼は冷静であり、以前と同様に彼女を尊敬した、修道女は誤った誇りの意識に捕えられた。そしてその学識にも似合わず、彼女は自制することが出来なかった。しかし後には自分の誤りを悟るようになった。ある日彼女は非常に骨折って準備した白檀の香と花輪とをもってスリ・ラーマクリシュナに近づき、これらを捧げて彼をスリ・チャイタニヤの生れ替りとして礼拝した。彼女は彼の許しを求めた後暇をこい、カマルプクールに別れを告げた。スリ・ラーマクリシュナは生れ故郷の平和な環境に長らく留まった結果、以前の健康をすっかり取り戻した。それでその後、フリダイと共にダクシネースワルに戻った。
 カマルプクールにおける神に酔った夫との聖なる結合はサーラダーマニの純粋な心を云い様のない喜びで充たした。この喜びについて彼女は後にこの様に語った。「私はいつも、浄福をたたえた水差しが胸の中におかれているかの様に感じていました。そのよろこびは言葉につくせないものでした。」その後四年が過ぎて彼女は今や十八才の若い女性となっていた。彼女の聖者の様な夫が気狂いになったというでたらめなうわさが彼女の耳に入った。種々考えた末、彼女は自分の眼でたしかめるためにダクシネースワルに行こうと決心した。そして一八七二年三月に父にともなわれて彼の地に到着した。スリ・ラーマクリシュナは以前に変らぬ深い愛と心づかいとを彼女に与えた。彼は彼女を彼の母と共に合奏室に住まわせることにした。彼の母はその晩年をガンジスのほとりで、すごすためにすでにここに来ていたのである。ダクシネースワルに二、三日滞在するうちにスリ・ラーマクリシュナの彼女に対する態度が少しも変らないことを知り、サーラダーデーヴィはここにとどまってスリ・ラーマクリシュナとその母への奉仕に一身を捧げる決意をした。
 スリ・ラーマクリシュナは今や妻の教育という昔の仕事を再びとり上げ、これによって同時に彼自身の霊性の実現と夫としての彼の義務の遂行をテストした。彼の教育は家事一般からブラフマンの知識に到る広い範囲の題目を網羅した。単に指図を与えることで満足せず、彼は彼女が教えられた事柄を遂行するのを特別な注意を払って見まもり、すべての誤りをやさしく正すのであった。.........................

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