不滅の言葉 1964年5・6号

宗教と平和(1)
加瀬正治郎

―智は結合へ導き、無智は分裂へ導く―
(ラーマクリシュナ)

 今日程平和が叫ばれ、平和運動の盛んな時代はない。しかも今日程分裂と闘争がくり返され、平和の脅かされている時代もない。平和の名は政治的闘争の手段に利用され、イデオロギーの対立は激化するばかりである。これは政治の世界ばかりではない。学界においても宗教界においても同じような派閥闘争、権力闘争がくり返されている。精神の優位、人間の品位と尊敬は地におちたといわざるをえない。
 人々は豊かな物資に酔い、生活を楽しんでいるかに見える。しかし、その底には深い悲しみのかげが宿っている。若い世代は享楽に走り、刹那主義に陥って高い理想もヴィジョンも持たない。いや持ち得ないような世相なのである。宗教家に宗教なく、教育者に教育が行われていない時代なのだから。宗教が失われて人々に霊感なく、情熱なく、無智、無力、ただ利己主義の主張ばかり。権利の主張にのみ急で義務を怠る民主主義の猿まね。思想の貧困。既成の学説イデオロギーの奴隷ばかり多い石頭のインテリ階級。平和をかき乱す平和運動家、権力闘争の亡者。単なる知識の寄せ集めばかりを頭の中に一ぱいつめこんで得々としているペダント。(二八頁上段へ続く)
 今の時代はただ表面的な騒々しさと埃にまみれた商業主義の宣伝のみ氾濫し、内面の静かな澄んだひびきがききとりにくい時代である。平和が口に叫ばれ、運動が行われれば行われるほど、対立はますます激化し、平和の名は汚されて行く。宗教家は空しい説教をくり返して民衆にあくびを催させ、或いはその口先だけの教育者ぶった態度に聴衆の失笑を買い、宗教の名は地に堕ちる。
 思想なき行動は無力である。行動なき思想は空論にすぎない。イデオロギーを思想と混同してはならない。デモや署名が行動と思ってもならない。そんなことで平和が実現できると思ってはならない。それはすでに証明済みである。(つづく)

 


| HOME | TOP |
(c) Nippon Vedanta Kyokai