シュリ・ラーマクリシュナ生誕祝賀会の講話

一九八八年二月二十一日

 人間の心は、さまざまの思いと希望の重なり合った複雑な存在です。人類の歴史には、さまざまの民族の中、さまざまの時代に、理性の波が一般の人心を支配しているのが見られます。またあるときには強烈な信仰、または強烈な活動の波の支配が見られます。しかし、人の心のはたらきの、さまざまの面を通じて見られるのは、真理、すなわち実在の不断の探求であります。

 この真理の探求は、原始時代以来の人間の特質です。人類のこの渇望は、彼らの根本の性質の中に不断に存在しつづけました。このような渇望は、さまざまの形で表面に現れて来ました。しかし、さまざまの領域における、あらゆる変化のまっただ中にあって、人の心の構造の本質は、変わってはいません。時代の進むにしたがって、内なる渇望の表現は、豊かさを加えています。

 個別の心は、普遍心の最も重要な部分です。それは、意識的にも無意識的にも、普遍心の内容を写そうと努めます。普遍心は普遍心で、個別の心の集合意識を形成します。この原理の作用を、私たちは人種とか国家とか民族とかいう、小さな単位の中にも見いだすのです。

 自らを具体的に表現したいという集団意識の衝動が、この世の偉大な人々を生み出す種子であります。偉大な人々の生涯は、集団意識と、それの理想と渇望の表現です。そのような代表的人物がこの世界に生まれると、私たちは彼を、天才とか、予言者とか、アヴァターラとかいう名で呼ぶのです。サンスクリットの宗教用語では、最高の人をアヴァターラすなわち神の化身と呼びます。彼は、すべての個人の努力と霊的渇仰心の焦点となります。

 アヴァターラは、すべての人間の宗教的渇仰心の代表です。彼は、現れているすべてのものの源泉に触れています。彼は実在そのものに触れています。彼は実在に最も近いものであり、この世における、実在の最高の現れです。シュリ・ラーマクリシュナは、このようなアヴァターラなのです。彼は、人類の霊的意識の代表であります。

 過去にも大勢のアヴァターラがありました。彼らはその表現において著しく民族的、または宗派的でした。それは人類の意識がそのレベルにあったからです。しかし今は、人類のすべての努力と力が、国際的な段階ではたらいています。シュリ・ラーマクリシュナの魅力と影響は、現代の精神とつり合って、その性格が実に国際的です。アヴァターラは、人格的と超人格的という、ふたつの面を持っています。時間と空間の限定を超えているのは、超人格的な面です。この超人格的な面は、その性格において普遍的であり、国際的であります。

 現代の心は、その見解および態度において科学的です。それは真理の証明を要求します。観察と実験が、その方法です。シュリ・ラーマクリシュナの生涯は、実は、その中でさまざまの実験が行なわれた研究室です。実験が成功に終わったとき、その結果が人類に伝えられました。彼の内部には、一切の個人的偏見やより好みに縛られない心がありました。彼はほとんど無筆でした。カマルプクルの田舎風の心は、特別の執着も嫌悪も持たず、その純粋さにおいて無垢でした。

 シュリ・ラーマクリシュナは、さまざまの宗教および宗派の修行を実践されました。彼は、みずからの内部に、ある知られざる力のもよおしを受けられたのです。すべての修行を、彼自身の願望は全くなしに、行なわれました。どの様な形の修行を実践される場合にも、彼は心魂を傾けてそれを行なわれました。ある期間はすべての観念をしりぞけ、その特定の道に完全に没頭されるのでした。何れの場合にも、他の想念に歪められることなく、新鮮な心で、新しい形の修行にとび込まれました。この捨離DETACHMENTの境地が最高の形で見られるのは、彼がアドワイタ哲学の修行をされたときです。彼は、彼の最愛の母なる神カーリを、知識の剣で彼女の姿をま二つに切ることによって、犠牲に供されました。このことは、彼が霊的修行のいかなる特定の思想または形式に対する偏見にも、縛られておられなかったことを証明します。彼は、その方法と態度において完全に科学的であられたのでした。シュリ・ラーマクリシュナの悟りは、さまざまの宗教間の、自己の優秀性や真実性の主張から起こる争いを除きます。彼は私たちに、それぞれの宗教の、言葉やシンボルや儀式の違いの背後にある、普遍の原理に目を向けることを教えておられます。彼の生涯は、実在の真理と、すべての宗教の調和を示されたものであります。

 彼は現代の教師です。彼は、それまでにさまざまの時期、さまざまの風土の中で人類を助けるために現れたさまざまのアヴァターラたちの仕事を、更に進め拡大するためにこられたのです。彼の中に、民族、信仰、国のちがいにかかわりなく、すべての男女が、彼らの理想と現実の満足を見いだすのです。

 インドにシュリ・ラーマクリシュナが現れたこと、その出現の時期の適切なことについて、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは次のように言っています。(全集三、二六七頁)

 この頭脳とハートの両方を一身に具えた人が生まれるべきときが熟したのです。一つの身体にシャンカラの輝かしい知性と、チャイタニヤのおどろくべき包容力を持つ無限のハートとを具えた人、あらゆる宗派の中に同一の霊のはたらきを見、同一の神を見る人、一切のものの中に神を見る人、そのハートは貧しい人々のために、弱い人々のために、インドの内であれインドの外であれ、世界のあらゆる人のために泣く人が、生まれるべきときが熟したのです。しかも同時に、その壮大な輝く知性は、インドの国内だけでなく外国をも含む、すべてのあい争う宗派を調和させて驚嘆すべき調和、頭脳とハートの普遍宗教をもたらす、というような高貴な思想を抱いている、そのような人が生まれたのでした。ときは熟したのでした。このような人が生まれなければならなかったのでした。それで、彼が来たのでした。

シュリ・ラーマクリシュナの教え

 霊性の生活に関するシュリ・ラーマクリシュナの教えは、どういうものでありましょうか、これについては、彼みずからの生涯と彼の悟りが、霊的な成功を得たいと欲するあらゆる人にとっての指導原理であります。シュリ・ラーマクリシュナの生涯は、現代の物質主義的生活態度の、完全な反対でした。彼にとっては、神のみが実在でした。背後に神を認めて初めて、多様な一切のものは価値と意味を持つのであって、そうでなければ、それはごくつまらないものなのでした。

 彼独特の言い方で、彼はこう言われました、「ゼロを幾つ並べても少しも値打は出ない。しかし、最初に一という数字がつくと、そのゼロに値打が出て来るだろう。それと同じように、この世界の一切のものはゼロであって、神が一だ。もしその一が取り去られたら、ゼロは幾つあっても値打がない」と。

 シュリ・ラーマクリシュナに従えば、人生の目的は神を悟ることです。人々に霊的指導を与えられた時期を通じて、これが、光と導きを求めて群がり集まる人々すべてに与えられる、彼の教えの主旨でした。彼はこう言われました、「金持ちの家の女中のように、この世で暮らせ。彼女は主人の息子を『私のハリ』などと呼んで世話をし、その家のすべての家事を行なうだろう。だが心の底では、家も子供も自分のものではない、ということをよく知っている。自分の務めは十分に果たすが、彼女の心は、自分の生まれ故郷の上にあるのだ。それと同じようにこの世の務めは果たしなさい。だが心は神に集中せよ。そして、家族も息子も、わがものではないのだ、ということを、よく知れ。それらは神のものだ。あなたは彼の召使に過ぎないのである」

 シュリ・ラーマクリシュナは、私たちに、離れてものを見る心の態度を養え、と求められました。色欲と金銭欲を避けよ、と警告されました。離欲は私たちが、神が人生の目標であることを忘れず、神への信仰を深めようと真剣に努力するときに生まれて来ます。

 人の神との関係は不変のものです。それは永遠です。まず神、それから他の一切のもの、というのが彼の教えの精髄です。私たちはこれを忘れて、この世に執着しています。私たちは、富、名声、地位、および肉体の快適さなどに執着しているのです。私たちは、これらすべてを自分にとって非常に愛すべきものと考えています。しかし、神が、これらすべてよりはるかにもっと愛すべきものなのです。彼は、私たちのハートの奥の奥にすわっていらっしゃいます。彼は、最も身近な存在として礼拝されなければなりません。シュリ・ラーマクリシュナに従えば、神が最初に来られるのであって、それからこの世界です。前に述べたように最初に数字の一、それからゼロ、すなわち多様な魅力を持つこの世界なのです。

 第一が神です。なぜなら、彼が一切のものをくださったのですから。私たちは、神にお返しをする義務を持っています。この根本原理を忘れて、私たちは世間に執着するのです。シュリ・ラーマクリシュナはおっしゃいます、「このことを覚えておいで。第一が神、それから他の一切のもの、なのだ」と。

 私たちは、この教えを心にとめて行動し、この世の務めを果たさなければなりません。子供や友達や家族や親類に感じられるすべての魅力は、神に帰せられるべきものであります。『彼』が、それらすべてを私たちに下さったのですから。『彼』がおられなかったら、何ひとつありはしません。この世の一切のものは『彼』の思召によって存在しているのです。これらはまた、『彼』の命令によってなくなるでしょう。『彼』が、これらすべてを創造なさったのであって、私たちの義務はそれらに仕えることです。

 この世界のすべての活動のまっただ中で、人は、一切の生き物と一切の事物は『彼』のものであり、『彼』は一切のものの内に存在したもうのだ、ということを思わなければなりません。この態度は私たちが神を愛するとき、心に生まれて来ます。神への強烈な愛が、離欲と悟りをもたらすのです。

 なぜ、神へのこのような強烈な、情熱的な愛が心に生まれないのでしょうか。なぜ私たちは、神へのそのような愛着を感じないのでしょうか。それはこの世界が実に魅惑的で、私たちはやすやすと、知らぬ間にそれに執着してしまうからです。いく生涯もの間、、世界へのこの執着は、私たちの心の中に続いています。執着が強く、根も深いから、神への愛も、それに打ち克つために強烈でなければならないのです。

 心はより高い境地に上げられなければなりません。シュリ・ラーマクリシュナはおっしゃいました、「まず手に油を塗り、それからジャックフルーツを割りなさい。そうでないと、ジャックフルーツの乳液がてのひらについて、手を洗ってもなかなかとれないだろう。前もっててのひらに油をこすりつけておけば、乳液は少しもくっつかない。たとえついても、らくにとることができる。世俗への執着はこのベタベタした乳液のようなものだ」と。

 この油は何でしょうか。それは神への愛、信仰、神に惹かれる感情です。神は永遠に私たちのものであられます。この世界とあらゆるものへの執着と愛は存続するでしょう。それらは、『彼』が私たちの内部にお置きになったのです。それがなかったら、どうしてこの世界が進行することができますか。私たちが、煉瓦や木のはしくれや石ころのように無感覚でいることができますか。愛、愛情、および仲間意識が、この世界の支柱をなしているのです。これらをこの世界から完全に放逐してしまうようなことができますか。決してできはしません。

 私たちはこの世界で、同じ愛情と仲間意識をもって行動しなければなりません。子供や親類や友達には、十分に心をつくして奉仕しなければなりません。同時に私たちは、神がこれらすべてのたまものを与えて下さったのであるということを覚えていなければなりません。私たちが直面する困難は、務めを行なう間に、私たちはあらゆるものの中に巻き込まれてしまう、ということです。私たちは、どんなに逃れたいと思っても、この執着からは容易に逃れることはできません。このために、シュリ・ラーマクリシュナは、てのひらに油をぬってから、この世というジャックフルーツを割れ、と教えておられるのです。

 友情、愛、愛情等、他のこの世のすべてのものは残して置くがよろしい。そうでないと、私たちの務めを果たすことはできないでしょう。自分の務めを行ないつつ、私たちは同時に神に愛を捧げるべきです。しかし、私たちは、彼に同じ愛を捧げることはできません。私たちは、この世のものに対して感じるほど、彼のそばにいるとは感じないのです。

 人がもし神に帰依するなら何が起こるか、と尋ねられるでしょう。その場合には、自分の務めを行いつつも、彼はこの世に執着はしないでしょう。ジャックフルーツの乳液が手につくことはないでしょう。愛をこめて、彼は神に祈るでしょう。ジャパと瞑想を実践するでありましょう。ところが、私たちは、このようには行動しません。務めを行なうとき、神を忘れています。ですからシュリ・ラーマクリシュナは、このジャックフルーツのたとえによって、私たちの注意をうながしておられるのです。

 てのひらに油がつけてあれば、乳液はくっつかないでしょう。私たちはこの世のために真剣につくすと同様に、もっと高い、神への努めも果たさなければなりません。間違いなく、私たちは、すべてのものを私たちに下さった『彼』に、宇宙の持ち主であられる『彼』に、義務を負っているのです。

 シュリ・ラーマクリシュナは私たちに、自分はある知られざる国からやって来た者であって、また同じ知られざる国に戻って行かなければならないのだ、ということを心にとめておけ、といっておられます。私たちの努力のすべては、この、来てから帰るまでの間の、ごく短い一段階のためのものにすぎません。しかし神は、常に永遠に存在しておられます。彼は、私たち一人々々の支えであられます。私たちはすべて、彼の中にいるのです。彼が私たちの目的地であります。この世は私たちのゴールではありません。

 私たちの人生においては、神が第一に来なければなりません。すべてをおいて、彼がまず愛されるべきです。そのとき、私たちは、ともに生きている人々への務めを行なうことができるのです。神は、こここの世界と、彼方の世界との両方におられます。『神』は常に私たちのほんとうの身内であられるのです。『彼』は私たちに子供や家族や友達を下さり、そしてまた『彼』はそれらを取り上げなさいます。いつ、誰を、『彼』が取り上げなさるか、誰が知りましょう。ですから人は常にみずからを準備しておかなければなりません。これが、この世の生活の真実なのです。ですから、私たちは神を、この生涯の第一の愛の対象として、心に思っていなければなりません。

 シュリ・ラーマクリシュナは、この世に生きる生き方を示すために、大工の階級に属する一人の婦人の、老練なやり方を例に挙げて説明をなさいました。米がきねでつかれている間中、彼女は片手でそれを混ぜています。彼女はときどきそれをつまみ上げ、うまくつけているかどうかをしらべます。彼女はおとくいと応対し、彼らの勘定書を見て、貸しがないかをよく見ます。このような仕事を全部やってのけながら、赤ん坊に乳を飲ませています。同時に幾つの仕事に携わっていることでしょう。しかし、この間中、彼女の心はどこにあるのでしょうか。自分の手を押しつぶされないよう、きねの上にあるのです。これが、神の信者が実践しなければならないことであります。人は一日で、この婦人のようになれるものではありません。

 シュリ・ラーマクリシュナのもう一つの例えは母ガメです。この水性動物は水の中を泳ぎます。しかし彼女の心は常に、自分が岸辺に産みつけた卵のことを思っています。これが、私たちが生活の中で養うべき態度です。

 神は私たちの目標であり、私たちのすべてのすべてです。私たちはこのことを覚えていなければなりません。それは、日常の活動に携わっていても忘れてはならないことです。働いている最中にも、常に神との接触は保つべきです。このような心の流れを保つことは、彼をほんとうに愛するとき、可能となります。愛によってのみ、それは可能となるのです。そうでなければ、できることではありません。私たちはこのことを忘れてはなりません。なぜなら、この世の一切物が、ジャックフルーツの乳液のように、私たちにくっついているのですから。私たちはこれらすべての師のお言葉を思い、霊性の修行をすべきです。シュリ・ラーマクリシュナは、どのようにそれをすべきかを示して下さいました。主を忘れるな、その上で、あなたがしたいと思うことをせよ、とおっしゃるのです。

 シュリ・ラーマクリシュナの教えによって、私たち、この世間に置かれている者たちにとっては、世俗の事柄から心を離すのは非常に難しい、という教訓を学びます。バガヴァドギーターもやはり、主の御名をとなえつつ人生の務めを行え、と教えています。私たちはこれを実践しなければなりません。宗教は経験されるべきものなのですから。神は存在します。そして『彼』は生命の内部で経験されるべきなのであります。


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