シュリ・ラーマクリシュナ生誕祝賀会の講話

一九八七年三月十五日

 ヴァガヴァッド・ギーター第四章に、ある重要な一節が見いだされます。そこで主クリシュナがアルジュナにこう言っておられるのです、「このヨガは、古代から実践されてきたものである。私はこの不滅のヨガをヴィヴァーシュワットに教え、ヴィヴァーシュワットはそれをマヌに、マヌはそれをイクシュワクに教えた。それはこのようにして次々に継承され、王であるところの賢者たちに教えられた。しかし、長い時がたつ内にそれは世に忘れられてしまったのである。私はあなたにそれと同じ、古来のヨガを話して聞かせた。あなたは私の信者であり、親友であるから、私はこの最高の秘密をあなたに明かしたのである」と。

 主のこの様な言葉を聞いて、二つの疑いがアルジュナの心に生まれました。第一は、もし主クリシュナが自分と同じような普通の生命であられるなら、自分の過去生の出来事などは覚えておられないはずだ、というもの。第二は、シュリ・クリシュナは過去生のことを覚えておられるのだから彼は全知の神に違いない、神であるなら、彼は生まれも死にもしないはずではないか、というものです。

 「普通の人間は、過去生において積み重ねれられたカルマを果たすために生まれてくる。神の場合はそうでない。神は果たさなければならない義務を持っておられないし、満たさなければならない欲望を持っておられるわけでもない。彼は正義と不正義を超越しておられる。彼は一切のカルマを超えておられる。それだから、彼は普通の人間のように生まれないものである」と。

 このような疑いを起こして、アルジュナは、シュリ・クリシュナに尋ねました、「あなたは、ヴィヴァーシュワットの後に生まれておいでになります。最初にあなたが彼にお教えになったというお言葉は、では、どのように考えたら良いのでしょうか」と。

 シュリ・クリシュナは答えられました、「あなたも私も数多くの生死を経験して来ているのである。私はそれらの全部を記憶している。あなたは普通の人間であるから、何一つ覚えていないのである」と。アルジュナは、生まれることも死ぬこともない神がどうして生まれることがあり得るのか、理解することができませんでした。この疑いを除くために、主はこう言われました、「私が生まれも死にもしないことは事実である。しかし、私は、マーヤーという、私自らの不可思議な力によって現れ、人間の形を取っているのである」と。

 聖者トゥルシダースは、ラーマチャンドラへの賛歌の中で、ラーマチャンドラはまぎれもない神であられる、ただ、彼のマーヤーの力によって、人間の形を取って生まれて来られたのである、と言っています。シュリ・クリシュナもアルジュナに向かって、彼は我々のような人間ではない、という、同じことを言われました。過去に何回も彼はその神力によってさまざまの肉体を取り、この世に生まれてこられました。こうして、古代にヴィヴァーシュワットに教えを与えられたのでした。

 それから主は、彼はなぜこのようにしてこの世に生まれて来られるのであるか、ということを説明しておられます。「私はあらゆる時代に自らを化身させる。無信仰がはびこって真の宗教精神が衰えると、正しい人々を救い、邪悪な人々を罰するために生まれてくるのである」と。つまり、彼は、宗教を確立するためにお生まれになるのです。

 しかし、なぜ彼はこのようなことをするために生まれて来なければならないのでしょうか。神は全能です。人間の肉体をかりてこの世に来られなくとも、悪人を滅ぼし、善人を助けることはできるはずです。しかしながら、そのようなやり方では、宗教の基礎を堅めることはできません。このことをするためには、彼は人間の肉体に宿って地上に下りて来られなければならないはずです。我々に道を示し、宗教の正しい道によって我々を導くべく、彼は我々の前で、一個の人間のように振舞われます。彼は、我々がらくに宗教の真の精神を理解することができるよう、彼の生涯と彼の教えとによって、我々に理想を示して下さるのです。

 神は慈悲に満ちておられます。彼は、もっとも深く我々のことを思って下さるお方です。彼は我々の友であり、哲学者であり、ガイドであられます。化身として地上に下りて来られると、一個の人間のように振舞って、理想的な生活を見せて下さいます。我々の行路をたやすくするために、理想を現実に示して下さいます。これによって人間は正しい道を歩むことができ、彼のヴィジョンを得て、ついには彼に合一することができるのです。

 主クリシュナは、更にこう言っておられます、「このようにして、私の神聖な誕生と活動を真の光りに照らして知るものは、肉体を去った後に再び生まれることはない。彼は私に到達する」と。

 

さまざまの見解 

 昨今我々は一般に、シュリ・ラーマクリシュナは神の化身であり、宗教を確立するために生まれて来られたのである、といいます。彼はどのように宗教を確立なさったのか、少し分析してみましょう。もし分析によってそれを理解することができるなら、ギーターにある主の言葉によると、我々の解脱に至る道は非常にらくなものになるでありましょう。

 表面だけを眺めて、多くの人々は尋ねます、「宗教の確立はどこにあるのか。その形跡は見えないではないか。シュリ・ラーマクリシュナの在世中よりも現在の方が、むしろ宗教は衰えている。不正義が大きくはびこっている。宗教確立のために彼は一体何をしたのか」と。このことを解明するために、少し、歴史的展望を試みましょう。

歴史的展望

 ローマの文明はひととき偉大なものでした。その内部の道徳的な力が衰えたとき、それは滅びました。その灰の上に育ったのが現代の文明です。その背後の力は何だったのでしょうか。それはイエス・キリストです。キリストが生きた生活と、彼が教えた真理を基礎として、新しい文明がヨーロッパに成長したのでした。

 このときから約一六世紀の頃まで、神と宗教的な生活への信仰がありました。心の平安を失った現代人のようではなく、人々は自らの内に平安を見いだしていました。近代科学の誕生と共に、人々は理性に傾くようになりました。彼らは、神は他の物質的対象と異なり、感覚器官によって認識することができない、と論じました。それでは何が、神の実在を証明するのであるか。人々は徐々にイエス・キリストの生涯とその教えから離れて行きました。彼らは目的を見失い、平安を失いました。

現代

 今日、多くの思想家が、人類の文明は衰えつつある、と言います。この不安な状態から人々を救うために、彼らはさまざまの方法を試みています。これらの努力が、社会主義、共産主義、民主主義等などの誕生をうながしました。これらのシステムは、ある種の良い概念を含んではいますが、それらだけでは人間の心を十分に満足させることはできません。これらは、我々の悩みを完全に解決することはできないのです。それらの難問は、政治や経済の組織によって解決され得るものではありません。なぜなら、これら全ての内には。その根底に大きな誤りがあるのです。ここでは人が物質から生まれたもの、単なる肉体と見なされています。彼は魂を持つ、彼は霊である、と言う事実は完全に無視されているのです。

 現代の悩みを解決するためには、人の心の中に、内なる変容、内なる革命が引き起こされなければなりません。この内なる変容だけが我々の悩みを解決することができるのです。単なる外部の世界の変革がこれを成し遂げることはできません。内なる変容は宗教によってのみ生じ得るのです。このためには宗教の復活が必要です。

 科学の信奉者は、宗教は神を根拠としている、神は実在するか否かは確実ではない、と反論するでありましょう。彼らは、宗教は人の苦しみや不幸に対して冷淡だ、宗教は世間の問題に無関心である、そういうものが我々に何の役に立とうか、と言います。また彼らは、さまざまの宗教の間には意見の一致がない、信者同志が互いに争っている、我々はどの宗教を信じたら良いのか、その宗教を信じてどうしたら良いのか、とも言います。

 これが推理と言うもののやり方であり、現代人の心の態度であります。人は、科学及び科学的方法に特有の言葉でものを考えることを学んだのです。その結果、彼にとって、神の存在を信じることは難しくなりました。人は心の悩みに苦しんでいます。彼は、自分の存在の意義を完全に見失ったことを感じます。彼は、人生の目的についてはっきりとした考えを持っていません。これらが現代の難問であります。

シュリ・ラーマクリシュナの貢献

 さて、現代社会に対するシュリ・ラーマクリシュナの貢献について考えてみましょう。彼は我々にこれらの難問の全てを解決する道を与えられたのです。彼は宗教を生き返らせ、人に向かって神を示されました。彼の出現とその教えがなかったなら、世界は相変わらず物質主義的であり、人類の生活は不確実、無目的なものだったことでしょう。シュリ・ラーマクリシュナの生涯は、決定的に霊的生活の可能性とその喜びを実証しています。彼は、神は存在する、ということを証明されました。神はまちがいなく悟ることができ、見ることも、話しかけることもできるのです。神は直接知覚することのできる存在である、という彼の証明は、いかなる科学的証明にも匹敵する、確実なものであります。

 シュリ・ラーマクリシュナは、今日までに多くの争いの原因となってきた、異なる宗教間の対立を除く方法を我々に示されました。彼は、全ての宗教が同一の神に達することを助けているのだ、という霊的な事実を証明しておられるのです。人はどの道を辿って進んでも、必ず神を悟るでありましょう。宗教的見解や修行法について相争う必要はないのです。

 彼は、人類の不幸に無関心の態度を取ることなく、彼らを神の現れとみてこれに奉仕せよ、と教えられました。神は、この宇宙という形で現れておられるのです。一人一人の人間のハートに彼が宿っておられます。もし人が、人に奉仕することによって自分は神に奉仕するのである、ということを心に留めて人類に奉仕するなら、その奉仕は神への礼拝となるでありましょう。このような奉仕によって社会に量り知れぬ貢献がなされるでありましょう。

 彼は、全ての人間を唯一の神の子供たちとみることによって普遍的な同胞関係を確立する道を、我々に示されました。

 シュリ・ラーマクリシュナは、これら全ての理想をはっきりと示されました。それらの中には実に大きな力が埋蔵されていますから、それらの助けによって、新しい時代、新しい文明が導入されることでありましょう。この事実は眼の前にはっきりと見えるような形ではやって来ないかも知れません。しかし、我々は、世界のさまざまの分野に属する人々が、シュリ・ラーマクリシュナとスワミ・ヴィヴェーカーナンダの理想に引き付けられ、鼓舞されつつあるのを、はっきりと見ることができます。彼らは実にしばしば、これらの霊的指導者の教えを引用しており、彼らの教えこそが現代世界の悩みを解決し得るものである、彼らの理想によって、世界に平和が確立されるであろう、という見解を持っています。

神の存在

 宗教的生活を始めるに当たって、まず我々に必要なのは、神は本当に存在する、という確信です。神の探求は、全く存在しないものを探し求めることではありません。哲学者たちによって、神の存在を証明するさまざまの合理的な議論が発表されています。これらの議論はすべて、神の存在の可能性を示すだけであって、彼はまさに存在する、ということを決定的に証明するものではありません。

 神の存在の証明はただ一つ、悟りによってのみなし得るものです。我々が感覚の世界を超越して真理に直面するとき、我々が超越意識の状態に入って神を自覚するとき、そのときに初めて、我々は彼の実在を確信するのであって、それまでは不可能です。我々は彼の存在を理性によって証明することはできません。理性はそこまで到達することはできないのですから。理性は限定されたものです。それは、感覚の世界で、意識の世界で、働きます。理性は、超越意識、つまり、その状態のなかでのみ我々は神を悟ることができる、という、あの超越意識の世界までは行くことができないのです。ですから、理性によって神の存在を証明することは不可能であります。しかし、それだから神は存在しないというものではありません。

 シュリ・ラーマクリシュナはよくこうおっしゃいました、「我々は昼間は星を見ることができない。しかし、それだからといって、昼間は空に星がないということではない。それと同じように、無知の状態にある間は我々は神を見ることができない、悟ることができないかも知れないが、それだからといって、神は存在しない、というわけではない。むしろ、神が存在するからこそ、一切のものは存在するのである」と。

理性の役割

 理性は限定されたものである、ということは事実です。しかし、決して、宗教的であるためには理性を捨てなければならない、というものではありません。このような考えと態度とは、我々をあらゆる迷信に導くでありましょう。人の心は三つの段階で働きます。潜在意識、意識、及び超越意識です。潜在意識の段階では、本能が知識の道具です。意識の段階では理性が働きます。しかし、それはこの段階を超えては行きません。超越意識の段階では、霊感が働きます。本能、理性、及び霊感は互いに矛盾するものではありません。おのおのが発達して次の段階に入って行くのです。

 霊感は決して理性と矛盾しません。それは常に理性を成就します。従って、我々の宗教上の悟りは、推理によって到達することはできないけれど、決して理性と矛盾するものではありません。ですから我々は理性を捨てる必要はないのです。

 我々は、もしそれが理性と矛盾するものであるなら、宗教の名のもとに、あらゆるナンセンスを受け入れるようなことをする必要はありません。しかし、同時に、宗教の真理は、科学の実験室で試験管や化学薬品によって合理的に証明されるようなものではない、ということもわきまえておくべきです。。それは不可能なことです。科学の真理は、感覚の世界の中だけに限られているものです。

人格神または超人格神の性質

 もう一つの問いは、もし神が存在するなら、彼の性質はどの様なものであるか、というものです。彼は人格を持っておられるのだろうか、それとも人格を超えた存在であろうか。超人格神は、信者の祈り、または愛に応えません。超人格神は、彼らの心に訴えません。人格神は超人格神とは反対の性質を持っていますので、宗教的な人々は、これらの二つの概念を調和させることに大きな困難を感じてきました。これは、あらゆる時代を通じての問題でした。すべての宗教が、神の人格的と超人格的という二つの概念の間の、この戦いに直面してきました。

 シュリ・ラーマクリシュナは、これらの二つの概念を調和させられました。彼は、同一の人物でさえ、彼の宗教生活のある段階にあっては、形を持つ神に満足感を感じ、別の段階にあっては無形の神に満足するのである、ということを見いだされました。彼はたとえ話でこのことを説明しておられます。

 ある坊さんがプリのジャガンナート寺院に参詣しました。彼は、神は形をお持ちなのだろうか、それとも、無形なのだろうか、という疑いを持っていました。神像を拝したとき、彼はそれを調べてこの疑いを晴らそうと思いました。それで、手にした杖を、神像に当たるように左から右に振りました。杖には何も当たりませんでした。それ故、彼は神は無形であると断定しました。

 次に、右から左に、つまり、別の方向から杖を振ってみますと、それは神像に当たりました。それでこの坊さんは、神は有形無形の両方であられることを悟った、というのです。神は、それ以上の存在であられます。彼を言葉で説明することはできません。人格的、超人格的、両面真実なのです。人々は、彼らの心理的能力と霊性開発の程度に従って、究極実在をさまざまの面から眺めるでありましょう。

 また、シュリ・ラーマクリシュナは言っておられます。さまざまの器を持った人が海に行って水を汲むとする。汲まれた海水は、それぞれの器の形をしているだろう。しかしながら、形は異なっても、それは同一の海水以外の何物でもない。人々の心理的能力に応じて、究極実在の解釈は異なるだろう。しかし、その何れもが究極実在の一つの読み方であり、その様なものとして、真理なのである、と。ですから、シュリ・ラーマクリシュナは常におっしゃったのです、「神はさまざまの面をお持ちである。決して、彼はこれこれである。それ以外ではない、などと断定してはならない」と。

悟り

 どのようにしたら我々は神を悟ることができるのでしょうか。その方法は何でありましょうか。神を悟るためには、我々は堅忍不抜の精神を持たなければなりません。シュリ・ラーマクリシュナは常におっしゃいました、「海の底には真珠貝がある。しかし、人は、もし一回の潜水でそれを見つけることが出来なかったら、貝を見つけるまで何回も何回も海に潜らなければならない。それと同じように、我々は神を悟るためには、忍耐を持って努力を続けなければならない。努力が必要である。

 「先祖代々の農夫は、たとえ数年日照りが続いても耕すことを止めない。しかし、収入を目指してにわかに農業を始めたような人は、一回の日照りでがっかりしてしまう。それと同じように、真の信仰者は、たとえ一生涯修行を続けて、なお神を悟ることが出来なくとも、決して修行を止めるようなことはしない。

 「悟るためにはこの強烈な憧れがハートに生まれなければならない。まさに、けちん坊が黄金に憧れるように、ハートは神をあえぎ求めなければならない。溺れる人が息をしたいとあえぐように、主を恋いこがれるのでなければ、我々は神を見ることはできない」

 シュリ・ラーマクリシュナはその修行時代には、神への強烈な憧れを抱いておられました。夕拝を告げる寺院の鐘がなると、「おお、母よ、また一日が過ぎました。それでも私はまだあなたを悟っていません」と言われたのでした。彼は極度の苦悩に、大地に自分の顔をこすりつけられました。強烈な憧れが悟りをもたらすことは間違いありません。「神は、熱心でしつこい求道者からは、いつまでも隠れていることはお出来にならない」のです。

 ギーターは言っています、「ヨギは、全ての人が目覚めている感覚の世界に対しては死んでいる。ヨギは、我々みなが眠っている、霊の世界に対してははっきりと目覚めている。もし、神を悟りたいと思うなら、我々は心を神に向けなければならない」と。

人生の目標

 人は、神聖な性質を持つ霊的な存在です。彼は無知の故に、この自覚を失ったのです。その結果、人は自己の本性を忘れ、苦しんでいます。彼はこの無知を脱して、自己の神性を悟らなければなりません。これが人生の目的であります。

 シュリ・ラーマクリシュナはこう言っておられます、「非常に得ることの難しい人間の生を得ていながら、まさに今生で神を悟ろうという努力をしない人は、生まれたかいのない人である。・・・まず、第一に神を悟り、それから、他の一切のことをせよ。そのあべこべをしようとはするな。もし、霊性を得た後に世俗の生活を送るなら、あなたは決して心の平安を失うことはないであろう。まず神を悟れ。これが唯一の必要なことである。ほかの全てのことは、もしあなたが本当に欲するなら自ずともたらされるであろう。

 「人が神にしがみつき、全ての仕事を神のために行うならば、彼はそれによってますます多くのものを得る。もし彼が神を見失い、すべて自らの名誉のためになされた数々の立派な業績を彼の功績の目録に加えようとするなら、彼は、何一つ得はしないであろう」と。


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