シュリ・サーラダ・デーヴィ生誕祝賀会の講話

 

一九八九年一月一五日

  スワミ・ヨガーナンダの回想

 スワミ・ヨガーナンダは、十六、七歳のころ初めて、シュリ・ラーマクリシュナに会いました。彼の霊的生命は、シュリ・ラーマクリシュナの監督のもとに形成されました。しかし、他の弟子たちとは異なり、彼はシュリ・ラーマクリシュナからイニシエイションは受けませんでした。シュリ・ラーマクリシュナの没後、ホーリーマザーが彼をイニシエイトなさいました。彼女はヴィジョンによって、師からそれをせよという指示を受けられたのです。

 スワミ・ヨガーナンダは、スワミ・サラダーナンダがその責任を引きつぐまで、マザーの侍者をつとめていました。彼はホーリーマザーのお供をしてさまざまのところに行き、彼の生涯中の多くの年月を、彼女への献身的な奉仕にささげました。ここにスワミ・ヨガーナンダジーの残したホーリーマザーの回想記の抜粋をご紹介します。

 「われわれは師との死別を深く悲しんではいるものの、信仰の浅さと理解の貧しさのゆえに、変装の姿でわれわれの上に天下った師の恩寵と祝福を、ほとんど理解していない。われわれは、ホーリーマザーが、師の逝去による深い悲しみのさ中においてさえ、どのように、彼の神聖な恩寵と臨在を常にはっきりと実感しておられたか、ということをはっきりと見た。われわれは自分たちを寄る辺のない孤児と感じたが、マザーの愛は最後のよりどころとなった。‥‥

 「ヴリンダーヴァンで、ホーリーマザーは多くの霊的経験をなさった。ある日、彼女のお相手の婦人たちは彼女が深いサマーディに没入しておられるのを見いだした。彼らは主の御名を彼女の耳元でくり返し、心を呼びおろそうとした。私がそれからシュリ・ラーマクリシュナの御名を、声にある限りの力をこめてくり返した。そのあとで、マザーは普通の感覚の領域に降りて来られたように思われた。

 「このような法悦の状態にあられたときには、マザーの話のなさり方、彼女の声、食物のとり方、歩きぶり、および一般の振舞いは師のそれらに生き写しであった。われわれは、深い瞑想の中では、礼拝者と礼拝の対象とは一つになる、と聞いている。

 「もろもろの聖典は、神と一体になる、ターダートゥミヤ・バーヴァという霊的境地のことを述べている。われわれはバーガヴァタの中で、ゴピーたちがクリシュナとの別れに堪えられず、実に深く彼の思いに没入したため、ひととき自分たちの個体性を忘れて、まるで彼女たちの一人ひとりが一個のクリシュナであるかのように振舞った、と書いてあるのを読んだ。 「同じように、マザーも、彼女自らの離れた存在をお忘れになったのである。彼女は師と一体であることを感じ、彼とまったく同じように行動なさった。彼女がサマーディの状態にあられた直後に、私が霊性の問題について質問をすると、彼女は、シュリ・ラーマクリシュナに非常によく似た、神に酔ったムードの中でお答えになった。つまり比喩やたとえ話を用いる、同じようなやり方で。

 「われわれはみな、シュリ・ラーマクリシュナの精神が彼女と結び付いているのを見て、おどろいた。それは類の無いことであった。われわれは、師とマザーとは別々の姿で現れてはおられるけれど、本質においてはひとつであられるのだ、ということを理解した。師はたびたび私に、彼の身体とマザーのそれとの間にちがいはないとおっしゃった。

 「その超越意識の状態のままで、ほとんど二日間がすぎた。その経験の後に、マザーの上に大きな変容が起こった。その後にはずっと、彼女は至福に浸り続けておられる、と見えた。彼女の悲しみと嘆きと、師からの別離の感情のすべてが、消滅した。静かな、祝福に満ちたムードが代わってその場所を占めた。

 「彼女はときおり、素朴で無邪気な、年若い少女のように振舞われた。ときおり、ヴリンダーバンのさまざまの寺院や、クリシュナとゴピーたちの神遊びにつながるジャムナ河畔の聖地を訪れることを熱心に望まれた。当時彼女は、実に至福にみちた心境にあられたので、ときどき、彼女がクリシュナの臨在を渇望される姿や、深い愛をこめて彼の御名をとなえられる姿に接すると、われわれはラーダーを想い出した。

 「私は、ゴーラープ・マーとヨギン・マーから、マザーはときどき彼女たちに向かって正直に、自分はラーダーであると語られた、ということをきいた。彼女は絶えず瞑想とジャパにときを過ごされ、しばしば法悦状態に入って、何時間もつづけて忘我の状態にあられた」

神性と人間性

 人間的な部分と神的な部分との調和のとれたまじり合いが、ホーリーマザーの人格に比類のない魅力を与えています。神性は、人間性の長所や限定をしりぞけるものではありません。いささかも矛盾のない、両者の共存が、神の化身たちの生涯に見られる自然な現象であります。「福音」の中で、シュリ・ラーマクリシュナも言っておられます、「神が人として生まれると、彼は他のすべての人間たちと同じように振舞わなければならない。それだから、彼を見分けることは二重にむずかしいのだ。彼はすべての人間たちと同じように、次のものすべてを持っている――飢え、渇き、病、悲しみ、そしてしばしば恐怖をも」

 これらの普通の特徴のまっただ中に、神の化身たちは、ときにはかすかに、またときには生き生きと、自らの神性の自覚を持っています。意志をはたらかせることによって、彼らは熱心な求道者に霊性を授けることができ、また霊的に眠ったりぼんやりしたりしている人びとをめざめさせることさえもできます。ホーリーマザーの生涯におけるさまざまのできごとが、彼女の神的な性質と人間性という、この二つの面のまじり合いをはっきりと示しています。この点についての彼女のお言葉の幾つかをここに挙げるのは、当を得たことでありましょう。しばしば、彼女はつぎのような宣言をなさいました。「神の知恵は、私の掌中にあります。私はそれを欲すればいつでも得ることができます」「世間の活動のまっただ中にいても、私は欲しさえすればいつでも、閃光とともに、このすべてはマハーマーヤーのお遊び以外の何ものでもない、ということを悟ります」「私をあなた方の親類などと思ってはいけません。私は去りたいと思えば直ちに、この肉体を去ることができるのです」「私が生きている間は、誰も私の本性を知ることはできないでしょう」

 これと対照的に、、彼女の姪のネダが亡くなったときには、彼女はふつうの女性のように泣かれました。マイソールから来た一信者、ナーラーヤン・アイアンガー氏が彼女に尋ねました、「マザー、ネダが亡くなったからと言ってなぜ、普通の女たちのようにお泣きになったのですか」と。その答えは、「私は世間にいます。それでそこの木の実を味わわなければなりません。それだから、泣くのです」というものでした。

 彼女の性質の両面を描く、もう一つの会話があります。彼女は言われました、「人びとは私を女神と呼び、私もそう思うようになっています。そうでなければ、私の生涯に起こったさまざまのふしぎなでき事のすべてを、どのように説明することができますか。ヨギンとゴーラープがそれについて多くのことを知っています」

 あるとき、一人のブラマチャーリンが彼女にお尋ねしました、「マザー、あなたは常にご自分の本性を覚えておられるのではありませんか」と。マザーはこう答えられました、「始終覚えているなどということができますか。もしそうだったら、これらすべての仕事をどのようにして片づけるのですか。けれども、仕事の最中にも、そうしたいと思えばいつでも、少し思っただけで霊感を得、そうするとマハーマーヤーの御遊びが私の前に示されるのです」

 ホーリーマザーの生涯においては、一つの基礎の上に、これら二つの面が現れています。それらの両方が、偉大な母性原理の現れなのです。彼女の全生涯が、この母性原理の啓示だったのであります。彼女のこの世への執着の背後にはたらく推進力は、彼女の母性感覚でした。与えるだけで、決して報いを期待しない、愛の一つの形です。

 母の愛は、たとえその報いが忘恩という形でやって来ても、流れつづけます。彼女の世俗の愛は、霊性と境を接していました。霊性の師としての彼女の役割の中で、無数の子供たち、すなわち弟子たちのために、大きな責任と苦しみを引き受けるよう彼女をうながしたのは、この同じ、母性原理であります。

霊性の指導

 古代から伝わる宗教の伝統に従いますと、弟子と霊性の教師すなわちグルとの関係は、最も密接であります。弟子はグルの中に、自分を霊的に進歩させ、救済に導いて下さる神の慈悲の、神性な通路を見いだすことができるのです。弟子が抱いている、グルのこの高い概念は、グルの仕事を非常に責任の重いものとします。彼は、霊的に高い境地に達した人でなければなりません。彼は聖典の意味を知っていなければなりません。誰であれ、弟子として受け容れるにあたっては、苦しむ人類への愛と慈悲だけが、その動機でなければなりません。

 そこにはいかなる世俗的動機、またはいかなる世俗的な利得への願望があってもいけません。彼は、弟子が愛と尊敬をこめてささげる贈りものは受けます。しかしそれらは決して、霊的指導の代償ではありません。彼はもっと、親のようでなければなりません。われわれが世間一般に見る親たちよりもっと高貴な親です。

 グルとしてのホーリーマザーは、比類の無い性格を持っておられました。それに伴う厄介な責任を果たすことのできるような人はごく僅かです。彼女はシュリ・ラーマクリシュナのもとで長年にわたってこの仕事のために用意をなされ、しかもシュリ・ラーマクリシュナから彼の霊的使命を継承するよう命じられておられたのですから、グルの役割を果たすのに、最もふさわしいお方なのでした。

 彼女自らの偉大な霊的能力もこの場合には劣らず重要です。その上に、彼女をあれほど無私な、人をゆるす、親切で人類への奉仕に熱意を持つ人たらしめたのは、彼女の天性の母性愛でした。これらすべての高貴な徳は、世界の偉大な霊性の教師たちの中でも、彼女を際だたせています。

 このことは、彼女が人を弟子としてイニシエイトしたときに引き受けられた責任について、語られた言葉を思い出すなら、はっきりとするでしょう。彼女はあるときこう言われました、「グルの力は、マントラを通じて弟子に移されます。それだから、イニシエイションのときにグルは弟子の罪を自分の方に引き受け、そのために肉体の病で非常に苦しむのです。

 「グルであることは、この上もなく難しいのです。彼は弟子の罪の責任を引き受けなければならないのですから。彼はそれらの影響を受けます。しかしながら、よい弟子は教師を助けます。ある弟子たちは、速やかに、またある弟子たちはゆっくりと進歩します。それは、その人が過去生の行いによって得た心の傾向によるものです。それだから、スワミ・ブラマーナンダは、イニシエイションを与えることを躊躇するのです。彼は私に言いました、『マザー、一人の弟子をイニシエイトするや否や、私はからだの具合が悪くなります。マントラを口にしただけで、熱が出たことを感じるのです』と」

 スワミ・ブラマーナンダは、容易には、イニシエイションを与えませんでした。それを乞うた信者の大部分は、ホーリーマザーのところに送られました。彼女の母性愛とすべての人に対する優しさは、自分の受ける苦しみを考えて、自分のところにやって来る人びとに救いを与えるのをためらう、などということは許さなかったのでした。ホーリーマザーのこの性質について、スワミ・プレマーナンダは言いました、「彼女はすべての人の罪を引き受け、それを消化して、あらゆる人に隠れ家を与えておられる」と。

 自分がこの生涯に病として引き受ける肉体の苦痛は、弟子たちから受けた罪の結果である、というのは、彼女の信じておられるところでした。彼女の生涯には、そのような力を彼女は持っておられたのだ、ということを示す、論争の余地のない事実があります。師の場合と同じように、その生涯において肉体的にも心理的にも完全に淨らかであられた彼女は、不浄なもの、罪深いものへの極度に鋭い感受性を具えておられたのでした。

 明らかに罪深い性癖を持つ、ある人びとが進み出て彼女の御足に触れると、彼女の意志に反していわば反射的に、足がうしろに引っ込むのが見られました。しばしば、彼女の弟子たちは、誰彼の差別なく人びとが彼女の御足に手を触れたあとで、彼女が足の焼けるような感じに苦しんでおられるのを見ました。

 あるときコアルパラで、ある弟子が、彼女の御足に触れるのをためらいました。それが彼女の苦痛の原因になることを恐れたのです。彼の思いを理解して、彼女はおっしゃいました、「いいえ、私の子供よ、私たちはこの目的のために生まれているのです。もし私たちが、他の人びとの罪や悲しみを引き受けてそれらを消化しなかったら、他の誰がそれをしますか。他の誰が、罪人たちや苦しんでいる人びとの責任をとりますか」と。

 彼女の最後の病中、その身体はひどくやせ衰えました。助けがなければ起き上がることもできなくなられました。出家の弟子たちは、イニシエイションをやめさせよう、と考えていました。彼らは、あらゆるタイプの人びとを彼女に近づかせることに反対しました。そのことを知ると、彼女はおっしゃいました、「なぜそんなことを言うのですか。あなた方は、師はただラサゴラを食べるためだけにこの世にいらっしゃったのだ、と思うのですか」と。

 またあるとき、ある信者が彼女に言いました、「マザー、あなたが信者たちの罪を引き受けてリューマチになっておいでになるのは大変悲しいことです。私は真剣にお願い致します。どうぞ、私のためには苦しまないで下さい」と。するとマザーは、「どうしてそんなことができましょう。私の息子よ、どうしてそんなことができましょう。あなたは元気でいて私に苦しませて下さい」とおっしゃいました。

 霊的使命を果たし人びとを助けたい、という願いは、彼女の場合、積極的な情熱でした。彼女はジャイランバティでしばしば、その日に新しい信者が来なかった、と言って落胆しておられるのが見られました。そのような日に、ある時、ある出家の弟子が、彼女が師に不足を言っておられるのを聞きました、「今日もまた、空しく過ぎようとしています。信者が一人も現れませんでした。あなたはおっしゃったではありませんか、『毎日、何かをしなければいけないよ』と」

 彼女は、誰かが来ないか、と外に気をつけておられました。目に涙を浮かべて師に訴え、『これはどういうことですか、師よ、この日も無駄に過ぎるのですか」と言っておられました。次の日に三人の信者がやって来たときには、マザーの顔は輝きました。このようなことは、彼女の衆生済度の愛の、ダイナミックな性質をうかがわせるものです。ただひとえに無私の愛、その愛が彼女をうながして、すべてをわが子と見ておられる他の人びとへの奉仕のために、甘んじて苦しみを受けさせたのでした。

 あるとき、パーシーの一紳士が、彼女に祝福を乞うべく遠方からやって来ました。そのとき、彼女の健康はすぐれず、重い病のあとの養生をしておられたのでした。おそばに仕えていた弟子は反対し、サラダーナンダジーも、おとめするよう命ぜられました、と言いました。マザーはそこで、スワミに尋ねるべく、その弟子をつかわされました。

 スワミは答えました、「私が何を言おう。もしマザーがパーシーの弟子を持とうとおっしゃるなら、お持たせするがよい。彼女の思召に反対するのは無駄なことだ」 弟子が帰ってみると彼女はすでにイニシエイションの手はずをととのえておられました。後に彼女は、この紳士の霊的可能性に、非常に満足された様子でした。

教え

 ホーリーマザーは、ジャパを最も重要な霊性の修行であると強調されました。彼女によると、マントラを授けられるイニシエイションは、身体を浄化します。彼女は、神は指を下さり、その指がジャパをかぞえることによって祝福されるようになさったのだ、とおっしゃいました。風が雲を吹き散らすように、神の御名は世俗性を破壊します。

 彼女は常に、規則正しく忍耐づよい修行の大切なことを主張されました。いつもこうおっしゃるのでした、「神のヴィジョンを得られないから、という理由だけで実践を怠ってはいけません。釣師は、毎日竿をもってすわったとたんに大きなコイをつりますか。彼は待ちに待たなければならず、それもしばしば、失望させられるのです」

 幾千回も、絶えずジャパをつづけていることによって、人の心はおのずから落ち着き、瞑想に集中するようになります。霊性の力が徐々に開発されます。淨らかな心がジャパを行ずると、聖語は自分で努力をしないでも、自然に内からわき上がって来るようになります。この状態に達した人は、ジャパに成功したのです。

 ジャパと瞑想の実践とともに、彼女は、無私の働きの重要性を主張されました。ふつう、人びとは一日二十四時間、修行ばかりつづけていられるものではありません。そこで、霊的な動機からなされる働きは、そのギャップを埋めるための最善のものです。それをしないと、必ず危険をさえ伴います。ご存知のように、怠惰な心は悪魔の仕事場なのですから。ですから彼女は僧団の僧たちが、利他的な仕事に携わることを奨励なさいました。

 彼女は常に、求道者たちに向かって、神をわが身内と見奉り、自分を彼に任せきれ、とすすめられました。霊性の悟りは、究極的にはひとえに、神の恩寵にかかっているのですから。 


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